道徳律なんて訳すから難しくなる。ただし、ちょっと惹かれるものがあったことは否定できない。カントの実践理性批判のことである。これを新潮社版は「行動基準」と訳していた。なるほど、これならわかる。読売の渡辺恒雄社主が自分のバイブルとしているという一昨日のNHK特集で言ったことがストンと腑に落ちたからだ。
なんでもそうではないか。組織を大きくするのにも「行動基準」があったからだ。読売だってあれだけの規模にするには、それなくしては不可能である。会社だって、学校だってなんでもそうだろう。「行動基準」なくして、経営者はできないだろうから。あ、これって来月行われる新任校長研修会で使えると思ったからでもある。分科会の講師に呼ばれているので。
しかし、それをどこに求めるかということはまた別問題である。受験勉強の結果エリートになった人は、自己の修行結果を基準とするだろうし、これは宗教家もそうだろう。意識するかしないかにかかわらず、ボキらは「行動基準」というものからは逃れられない。キリスト教は愛を説くし、平和が絶対的な基準となっている人は、激しく政権批判をするだろうし。出世競争なんかあほらしくてやってられるかという御仁は、反面、管理職への反発心が残っているし。
なるほど、「行動基準」というものが世間を動かしているのだと思ったのである。今朝の2時ごろである。ベッドで寝ていたらふとそう思ったのだ。キンドルが枕元にあったからだ。孫たちが連れてきたワンコが別室で時々小さな声で鳴いていたから寝付けなくてキンドルをみていたのだけれども。
そして、ボキもそうだが、「行動基準」というのは、一つに絞りがちになる。一つだけなら、単純だからだ。右翼とか左翼とかもそういうのに当てはまるだろうけど。アイデンティティの確立というのも、単純化していけば楽であるから。
ボキのバイトもそうだ。下手な「行動基準」を振り回すからトラブルになっちまう。そんなもんどうでも良いではないか。事前にアポをとっていっても会ってくれないからと言って腹を立てる必要もないからだ。そんな低レベルの人間にあわせる必要もない。ダメだったら、退職すればいいだけだから。経営方針とあわないって言われるだろうし。それっきりでいいではないか。どうせ年金はもらっているのだし。
孫と一緒に、昨日は釣りをした。一時間500円の釣り堀。二人とも喜んでいた。こんなことでもないと、孫たちも楽しくないだろうからなぁ。
で、血縁ということを考えた。ボキは九十九里浜に血縁はいない。長男夫婦以外は。親戚がいない。これもまた「行動基準」が血縁関係以外はないという人から見たら、異常なんでしょうなぁ。親戚以外はつきあわないという「行動基準」を持っている御仁は、ボキのような生き方が理解できないだろうから。
小学校も、中学校も、高校もボキは東北なので。
ううううううううううううううううううううううううううううううううむ。
さ、これから朝散歩に行ってくる。これまたボキの「行動基準」であるから。腰がちょっと痛いけど(笑)。
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