先週末の週間天気予報では、今週の後半が暖かくなると言っていた通り、週明け頃は朝は寒かったものの昼は暖かく、出かけるのにもダウンのジャンパーはもう要りません。昨日は朝から暖かかったので、モモも散歩を嫌がりませんでした。犬のくせに寒いのが嫌いなイヌもいるのです。
ソフトボールの納会を難波で行った次の日、再び難波へ用事を済ませに行くことに、単に現金が無くなってきたので銀行に行っただけなのですが、こんなことなら前日にみんなより早目に出て、難波で落ち合えば良かったと思いながらも、自転車なので運賃の無駄遣いはしていません。
往きは地下鉄の大国町駅の近くにある大國主神社に寄ってみました。自転車で国道26号線を走ると43号線との交差点を渡ることが出来ないので、勝間(こつま)街道を北へ走り、43号線を越えてJR環状線の高架を潜ると浪速区に入り、その辺りが大国という町名になります。大國主神社が有るところは大国町駅を越えて敷津西という町に入ってから、26号線沿いの西側に有ります。
鳥居を潜ると正面は大黒様と書かれた社、境内右に大きな銅像が建っており「誰やろ?」と思って近寄っていきました。
この案内板では何が書いてあるのかよく判りませんが、木津勘助と言う人らしい。大阪で育った私ですが、そんな人の名を今まで他人から聞いたことも、おそらく学校で習ったこともありません。何でも若い頃から豊臣家に仕え、木津川の造営に尽力した人物だそうで、その像はなるほど木津川の方向を向いています。しかしそのことよりもエライと自慢されているのは、寛永18年の飢饉の際、庶民を救うため官倉を破り、米を町民に振る舞ったとされる事件です。この神社の案内板には寛永16年と書かれていますがそれは間違い、官倉というのも黒田藩の米蔵だったというのが真相らしいのですが、その米は天王寺屋という商人に売り渡した後のものだったので、黒田藩は実質的に損はしていません。
銅像の下の案内板には要約すると、先の戦争が始まり、物資が乏しくなると金属類は軍に押収されましたが、ここでは翁の銅像にも召集令状が届いたので、愛国精神を発揮して応召したと書かれていました。その後は不幸な戦争は終わり・・・とも書かれており、愛国精神はあったのに戦争は不幸なものだったと書かれている辺りは、やはり国民は戦争はイヤだと思っていた証拠でしょう。区画整理に拠り台座まで解体されてしまい、残ったものがこの地に放置されていたようですが、昭和29年に再建されたと書いてあります。
左の写真から説明すれば、放置された狛犬、要らんのやったら貰ってあげるけど・・・真ん中は日露戦役忠魂碑、右は正面から見た境内の様子。
正面の社、大国様とはオオクニヌシのことを指しているのでしょうか、でも左右の狛犬の台座にはネズミの像が佇んでいます。スサノオに焼き殺されそうになった大黒天を救ったのがネズミでしたから、ここでは大黒様が相応しいのではないのか、この地が大国町なので昔から私はどうもややこしいのです。大黒様と大国様は同じなのでしょうか?
正面右にある社、こちらの方が神社らしくて立派です。こちらと比べると、大国様の社はオモチャみたいです。何故こんな造りになっているのか訳が解らないでいました。
屋根瓦にはこのような紋、あまり見慣れた紋ではありません。左の円の中は二つ巴ですから、四天王寺と同じです。
折口信夫の歌碑が有りました。でも表面は真っ平らで何が書いてあるのかさっぱり判らなくなっています。案内板には木津が生んだ国文・民俗学者・歌人である・・・『幼き春』の反歌を選び、昭和53年に大阪で初めて先生の歌碑を建てたとあります。右の碑には『御大禮記念 木津敷津青年會』と彫られていますが、御大礼とは天皇の即位の礼と大嘗祭と一連の儀式を合わせて呼びますが、さてどの天皇のことだったのでしょう。
境内の左側、つまり南側にも鳥居が有り、一旦外へ出て正面から撮ってみると、ひょっとしたらこちらが正面なのかなと思うような構図です。右に建っている碑には『敷津松之宮』と書かれており、私はここでびっくりしたのでした。子供たちが通っていた保育所の近くには松之宮小学校があり、近くには夏祭りが開かれる松之宮神社が有ったのです。これは何か曰くがあると、帰りにその神社に寄ってみることにしました。