ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

八幡神社

2014-02-07 05:00:00 | 田舎

古座川町三尾川にある八幡神社、先月行って来たわけではありません。12月に訪れた際、悔しくも黄葉したイチョウは見られませんでしたが、光泉寺に行った際に集落をウロウロした時に見つけた神社です。年末最後の記事は三尾川集落の記事で終わっていますが、実は続きが有ったのです。

いかにも片田舎の神社らしく、あまり掃除などは行き届いていません。ゴミが落ちていたままと言うことではなく、枯れ葉が積もっているし、箒の跡も見えません。ゴミが落ちてなかったというのは、誰も来ないということであり、それほどこの神社に対して集落の方々も関心が無いのかも知れません。

             

八幡神社であることが分ったのは、新しい石碑があったから、鳥居には神額も上がってませんでしたから、鳥居左側に造られていた碑が無ければ、何と言う神社か分からなかったと思います。前の道は和深まで繋がっています。

                          

集落から神社までに橋を渡りますが、古座川の支流である小節川となっていました。三尾川という集落ですから、流れている川は当然ながら三尾川と思っていました。橋の名前は『じんごうばし』どのような字が当てられているのかチョット想像がつきません。

                         

竣工は昭和49年2月ですから丁度40年前に出来ています。河原へと下りることが出来るよう、階段のような降り場がいくつか有りましたが、冬なので水には近寄りたくありません。

             

光泉寺のイチョウは枯れてしまって、落ち葉も有りませんでしたが、神社の木々は未だ青々していて、それでも落ち葉がたくさん溜まっていますから、おそらく去年の冬のものだと思われます。それほど誰も掃き清める人がいないのだということなのでしょう。勿論私のような観光客がこんなところまで訪れるなどとは誰も思ってないのでしょう。

               

それでも拝殿はペンキが塗られてそう時間が経っていないようで、赤が際立っています。それに比べると見え難い本殿の方はペンキが剥げたところが多く、柱が腐ってくるのではないかと思ってしまいます。社の右側に古い石碑が建っていました。同じ時期に置かれたものなのか、石碑の前に花瓶と書かれた石の器が置かれています。

             

何が書かれているのかと近寄ります。

                       

忠魂碑と上段に掘られていて、明治39年3月建設(設の字が少し違うように思う)と書かれていますから、100年以上前の建立、日露戦争が終了してから建てられたものでしょう。全部で8名分の名前が有りましたが、全部きれいに残っていて十分読むことが出来ます。部隊、死亡年月日、死亡場所などが記載され、一番右側の人は明治10年3月23日となっていましたから、日清戦争より以前の方です。これらの方々は三尾川出身の人なのでしょうが、何故第二次世界大戦のものは無いのでしょうか。どちらの戦争も同じ侵略戦争であることに変わりはありません。何処が違うかと言えば、日清・日露の戦争は日本国が勝利しましたが、第二次世界大戦は敗戦国になっています。こういった類のものを残しておくというのは靖国神社などとは比べるべくもなく貴重なことだと思っています。