八坂神社から円山公園、知恩院は歩いていると繋がっていて、勿論それぞれ境界線はあるのでしょうが、八坂神社は一応鳥居から出たし、入って行く知恩院も小さな門はあったのですが、ハッキリと円山公園はここからここまでだったという意識はありませんでした。もう時間がないという意識で歩いていたからなのかも知れませんが、勿体ない歩き方をしたものです。
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この知恩院の門を潜ったのが丁度1時ごろ、あと30分しかありませんが、思い出すと9月に南禅寺から三条京阪まで30分ぐらいかかったと思ったので、いくらその途中で知恩院の参道が見えたからといって、この位置から南禅寺までどれ位かかるかは定かではありません。
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小さな門まで来ると曇り空から小さな雨が降ってきました。私としては未だ傘を差すほどではありませんでしたが、女の人は傘を差している人も出てきました。小さな門を潜るとすぐに『華頂山』の額がある国宝の三門が見えてきました。普通のお寺は山門と書きますが、南禅寺も建仁寺も三門と書くそうです。“空門”“無相門”“無願門”という悟りに通ずる三つの解脱の境地を表す意味をなしているとか。
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三門を見上げながら、その上にも階段が見え、もう上がって降りて来る時間は無いと判断、雨も降り出したのできれいな写真も撮れないだろうし、登壇を諦めて先を進みました。するとすぐに『京都解放運動戦士の碑』入口という案内板、どうしようかと迷いましたが、知恩院の取材が出来なかったので思い切って入ってみることにしました。
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ここは駐車場になっているようで、出てくる車と鉢合わせしましたが、料金を支払うようなところは有りません。坂を登り切ったところにあった碑、これかと思いましたが、冒頭“富国強兵”の文字が見えるので関係ないと思いましたが、何が書かれているのでしょう?家に帰ってみても後の字はよく判りません。ちょっとデッキブラシでこすってみたい気がします。
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正面より右側に家の形をしたものがあったので、近寄るとこれが『解放運動戦士の碑』でした。このようなものが何故知恩院の敷地にあるのか、先の戦争に反対の声を挙げてきたとは考えられませんが、その反省を踏まえてのものかも知れません。
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冒頭は“日本人310万人アジア人2000万人が殺された第二次世界大戦 その多大な惨禍と犠牲を払って、私たちは主権在民と平和主義を基調とする日本国憲法と自由を獲得しました”とあります。今この平和憲法を骨抜きにし、戦争が出来る国へと変貌させる動きが自民党や維新の会によって活発化していますが、奴らの策謀が日の目を見ることがあったとしても知恩院はこの碑を守るのでしょうか。それとも日本人民はそれほど愚かではないと思っているのでしょうか。
知恩院は法然上人所縁の寺、“月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ”という法然の詠んだ詩は「月の光は全てのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれど、月を眺める人以外にはその月の美しさは分からない」というほどの意味ですが、よく味わってほしいと思います。例えば昨年自公がごり押しで国会を通過した秘密保護法、この法律の恐ろしさ、この法律によって日本国はどのような国になっていくのかは、歴史並びにこの法律をよく理解する以外には判らないのです。