蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

精神分析現象学ゲシュタルト2

2022年05月18日 | 小説
(2022年5月18日)このところ(=前回16日投稿の最終文節、ラカンは現象学をゲシュタルトの派生として軽んじる部分)は部族民(蕃神)と考え方を異にするのだが、ラカン先生の言い分を聞こう。
<Il se raccroche en effet aux notions de totalité, de fonctionnement unitaire, il suppose toujours une unité donnée qui serait accessible à une saisie en fin de compte instantanée, théorique, contemplative, à laquelle l’expérience de la bonne forme, tellement ambiguë dans le gestaltisme, donne un semblant d’appui>(100頁)
訳:彼(Merleau-Ponty)は結局、一種の方向性を持つ集体の観念にしがみついている。これは形としてまとまりを持つわけだから、取り憑かれた精神によって思弁的に理論的に、瞬時にそれと見分けられる。ゲシュタルト思考が述べるところの「良き形」、それ自体は大変曖昧な観念であるけど、その集体が精神に認められる見せかけの根拠となっている。
分かりにくいから思い切った意訳を試みる:ゲシュタルトでは集体が維持されるとはそれが「正しい形態」に向かうから―と考える。直感というか偏見というか、説明できていない精神(知覚perception)がその形態を即座に見極められるとMerleau-Pontyが主張したのだ。


形態とは一体で一方向性を持ち、正しき形(Bonne Forme)に収斂する。ラカン先生の解釈です、

バラとかカーネーションが一方向に収斂した花束(日比谷花壇殿御謹製)を眺めながらラカンの解釈力そして修辞の卓越性には感心させられる。

続く文は<L’ambiguïté dans une théorisation où la physique se confond avec la phénoménologie, où la goutte d’eau, =後略>(同)
訳:理論付けでの曖昧さは自然と知覚現象を混同してしまった過ちにも認められる。(以下は後略部)水滴は円錐体を取るが我々はそれを円形として見ている(現象学では自然の形状を見分けられない)。
<Il y a sans doute quelque chose qui tend à produire au fond de la rétine cette bonne forme, il y a quelque chose dans le monde physique qui tend à réaliser certaines formes analogues, mais mettre ces deux fais en relation n’est pas une façon de résoudre l’expérience dans toute sa richesse. Si on le fait, en tout cas, on ne peut plus maintenir comme Merleau-Ponty le voudrait, la primauté de la conscience>(同)
訳:網膜がこの正しい形を形成する何らかの機構は存在する、かつ自然界がその像に近似した像を形成している事はある。しかしこの両の事象を結びつける事は、人の経験(知性)の豊かさを説明するには不向きである。もしそれを試みようとすれば「意識」が抱える何にも増しての優位さを、Merleau-Pontyが維持されると望むのだが、保持しようがない。
そもそもの順番は自然の形態が原初で、網膜上の像が自然と「似た」形となる。それを逆にして、自然が網膜像と似た形としている。実はMerleau-Pontyが説く知覚perceptionの特徴は「人が知覚する像が実体」とする点にある。ラカンはその主張を理解した上で、逆置など無いとの皮肉として自然と網膜を逆転させたと(部族民は)捉える。ラカンは « bonne forme正しい形 » なる語で、ゲシュタルト解釈の形体収束点を表現した。正しいとは目の前には「あるがままの」形で、それはが必ずそこに存在する。その形体の究極形を確認するというゲシュタルトの思考そのものだが、イタリック体で記されているとは曖昧だから、曰く付きとなる。
現象学に手厳しいラカン、ここで自説を誘導する。
<Une conscience contemplative constitue le monde sur une série de synthèses, d’échange, qui le situe à chaque instant dans une totalité renouvelée, plus enveloppante, mais qui toujours prend son origine dans le sujet. (À M. Hyppolite) Vous n’êtes pas d’accord(同)
訳:思弁的な意識とは統合の流れ、そして交換として世界を構築する。流れにおいての各瞬間には、より広く覆う統一体として世界を更新して行く。そして世界の原初とは常に主体(個人)に置くのである。Hyppoliteに向かって「あなたは同意してない」
上訳はクセジュ文庫化してしまった。解説を試みる;
「一つの思弁的意識」がラカン主張する意識である。それは世界を、自己意識と世界との交換(交流、弁証法的)を保ちながら、経時に重なる経験(知性)を共時的に統合synthèsesし、自己の経験としての個(主体)の精神に積み上げる。経験を共時に統合し、それを意識の底流、潜在意識として取り置く。これが上引用文の主旨で、フロイト説を踏襲したラカンの学説そのものを語っている。
Hyppoliteの返事は、
<J’écoute le mouvement que vous développez à partir de Gestalt. En fin de compte, c’est une phénoménologie de l’imaginaire>(Merleau-Ponty)の思想をゲシュタルトから説明する、これを君が語ったのだと理解する。いずれにしても(講演内容)は私達(哲学側)が語る意味での画像現象学なのだから。
« Imaginaire » の元語となる « imagination » は既見の対象を画像として思い起こすが一義。空想よりも具体性が強い。画像現象学とした。
上訳において « c’est une » の「それce」の意味が曖昧、Gestaltとも捉えられるが部族民はMerleau-Pontyの講演とした。直前(ラカンの話)がMerleau-Pontyの解釈に集中しているからだ。するとMerleau-Pontyの知覚現象学が「画像現象学」と言い換えられ、気分的にも座りがよろしい。対話の文字起こしなので難しい処である。
さて、突然に投げかけられた否定疑問に対するHyppoliteの返事にはラカンの現象学 説明への不同意が聞こえる。普通、否定疑問を問われたら答えは « non » ないし « si » の選択を迫られる。対話を継続しようとの意思を持てば、答えは « non否 »であるけれどそれを的確に発言すると、後のやり取りがぎこちなさに陥る。そこで « non » を表に出さず淡々と理屈を開陳する。このあたりは対話の技巧と言えようが、否定が間接的に滲み出るものの、即座に否定されるよりは対話は和らぐ。こうした上品なやり取りに仏語は « discret慎み » を用意している。
Hyppolite(哲学、高等師範学校長など歴任)のラカンセミナーでの重要な立ち位置については過去投稿で取り上げた。
精神分析現象学ゲシュタルト2の了(2022年5月18日)
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