(2024年2月1日)これまでの投稿(黄金時代1~3)で精神、個人性、婚姻の確立の二面性を語ってきた。二面性とは「原初に発生する普遍性」に加え、自我あるいは文化が定着して後の「個別、自発」の発現があって、それら合わさり性格が決定される。精神個人社会のいずれもがこうした2面性で成立する。
本投稿はバベル以前を探るのであるからして、原初の普遍とはバベル以前に人、社会が獲得していた性格であって、バベル以降に個別、自発性が生まれてきたと考える。
このバベル以前が「人類の黄金期」に結びつく。すると黄金期の特徴は「自律反射の感情表現(怖れ、哀しみ、怒りなど)」で物事に対処し、婚姻では族内の娘を「選り分け見取りしては嫁に娶り」、自我は「持って生まれた普遍特質、考える葦の葦のみを自覚する」。こうした個人は « bonheur primitif » 原初の幸福を享受していたとの道筋になる。
表(再掲)を参照
下の2列に言語をおいた、言語を対話と意味とした。
表は再掲
バベル以前の対話は「対話の確信」「やり取り不可者との対話禁止」で性格付けられると挙げている。論を進めるにとある挿話を見つけた :
1769年1月クック船長は植物学者を引き連れ現地人と話すために陸に上がった。陸とは南米大陸最南端の火の大地(ティラデルフィェゴ)。現地人とはハウシュ族、彼らは絶滅してかなりの時間が過ぎた。
3~40人の現地人が一行の前に現れた。それぞれが槍棍棒を手に戦の用意だった。クック船長は話しかけた。彼らが英語を理解するはずなどない、クックにしても現地語を知る由もない。しかし会話は成立した。クックの言葉に彼らは槍棍棒を地に置いた。クックは望みの水と食料を手にれた。
クックは自信を持っていた「人であれば話せる」これは確信とも言える(言語はこうして生まれる、クリスチャンセン他著、塩原訳、新潮社、19頁から引用)。
クックの確信は人類普遍の言語がバベルの失墜で族民ごとに分散しても、その根底「対話できる普遍能力」には変わりがないとの信念でもある。すなわち族民毎に分離している言語は「個別、後発性だけ」の性格で、人の「対話する、対話を成立させる」が普遍なのである―とクックは信じていた。
南米最南端パタゴニアの先住民、ヤーガン族。パタゴニアの由来はパタゴン(大足)、始めて出会った西欧人は彼らの巨大ぶりに驚いてその名を命名した。報告では極寒の地ながら織りの技法を持たず素肌に毛皮をまとう。写真はWikipediaから借用。
« Les Pygmées de la péninsule malaise considèrent comme un péché de se moquer de son propre visage dans un miroir. Mais, ajoute-il, ce n'est pas un péché de se moquer d'un être humain véritable, car celui-ci peut se défendre. Cette interprétation s'applique évidemment aussi au sange… » (page 568) マレー半島のピグミー族(メラネシア系先住民)は鏡に写った自分の顔を貶めるのは罪悪としている。しかし生身の人間を辱めるのは罪ではない。反論できるから。この考え方を猿にも敷衍している。(以下は引用なし:サルに衣装をつけてサルはサルだと笑うのは罪である。なぜならサルは(鏡の自分と同じく)反論できないからである)
対話が成り立たない環境下で対話を試みるのは「普遍」への侵犯である。
« Nous trouvons deux catégories d'actes se définissant comme usage immodéré du langage, les uns d'un point de vue quantitatif : jouer bruyamment, rire trop fort, manifester à l'excès ses sentiments ; les autres d'un point de vue qualitatif : répondre à des sons qui ne sont pas des paroles, prendre comme interlocuteur un individu qui n’a qu’une apparence d’humanité »
(ditto) 節度のない言語の用い方として2の範疇を挙げる。一には数量的である。騒がしく声を掛け合う、大声で笑う、度の外れた感情の露出。もう一方は定性的、問いかけにもなっていない語に返答する、形だけ人似の個体を対話しようとする。
« Toutes ces provisions se ramènent à un dominateur commun : elles constituent toute un abus du langage, et elles sont, à ce titre, groupées dans la prohibition de l'inceste, ou avec des actes évocateurs de l’inceste » これらすべての禁止は一つの共通項に行き着く。言語の悪用である。そしてこの悪用は近親姦の禁止、ないしは近親姦をそそのかす行為との同類が指摘される。
« Qu'est-ce que cela signifie, sinon que les femmes elles-mêmes sont traitées comme des singes, dont on abuse quand on ne leur donne pas l'emploi réservé aux signes, qui est d'être communiqués ? » 女はそれ自身で記号であり男が女にその記号に見合った処置を、これは対話に用いることだが、与えなければ女の悪用となってしまう。そうなるとこの事情(言語と女性の悪用は共通項を持つ)は一体、何を表すのか、何の意味も持たなくなる。
(文全体を反語として解釈する、女はそれ自体が対話の素材である。故に近親姦の禁止は言語の悪用禁止と同列であるべき)
黄金時代、バベル以前を夢見る 4 の了(2月1日)
本投稿はバベル以前を探るのであるからして、原初の普遍とはバベル以前に人、社会が獲得していた性格であって、バベル以降に個別、自発性が生まれてきたと考える。
このバベル以前が「人類の黄金期」に結びつく。すると黄金期の特徴は「自律反射の感情表現(怖れ、哀しみ、怒りなど)」で物事に対処し、婚姻では族内の娘を「選り分け見取りしては嫁に娶り」、自我は「持って生まれた普遍特質、考える葦の葦のみを自覚する」。こうした個人は « bonheur primitif » 原初の幸福を享受していたとの道筋になる。
表(再掲)を参照
下の2列に言語をおいた、言語を対話と意味とした。
表は再掲
バベル以前の対話は「対話の確信」「やり取り不可者との対話禁止」で性格付けられると挙げている。論を進めるにとある挿話を見つけた :
1769年1月クック船長は植物学者を引き連れ現地人と話すために陸に上がった。陸とは南米大陸最南端の火の大地(ティラデルフィェゴ)。現地人とはハウシュ族、彼らは絶滅してかなりの時間が過ぎた。
3~40人の現地人が一行の前に現れた。それぞれが槍棍棒を手に戦の用意だった。クック船長は話しかけた。彼らが英語を理解するはずなどない、クックにしても現地語を知る由もない。しかし会話は成立した。クックの言葉に彼らは槍棍棒を地に置いた。クックは望みの水と食料を手にれた。
クックは自信を持っていた「人であれば話せる」これは確信とも言える(言語はこうして生まれる、クリスチャンセン他著、塩原訳、新潮社、19頁から引用)。
クックの確信は人類普遍の言語がバベルの失墜で族民ごとに分散しても、その根底「対話できる普遍能力」には変わりがないとの信念でもある。すなわち族民毎に分離している言語は「個別、後発性だけ」の性格で、人の「対話する、対話を成立させる」が普遍なのである―とクックは信じていた。
南米最南端パタゴニアの先住民、ヤーガン族。パタゴニアの由来はパタゴン(大足)、始めて出会った西欧人は彼らの巨大ぶりに驚いてその名を命名した。報告では極寒の地ながら織りの技法を持たず素肌に毛皮をまとう。写真はWikipediaから借用。
« Les Pygmées de la péninsule malaise considèrent comme un péché de se moquer de son propre visage dans un miroir. Mais, ajoute-il, ce n'est pas un péché de se moquer d'un être humain véritable, car celui-ci peut se défendre. Cette interprétation s'applique évidemment aussi au sange… » (page 568) マレー半島のピグミー族(メラネシア系先住民)は鏡に写った自分の顔を貶めるのは罪悪としている。しかし生身の人間を辱めるのは罪ではない。反論できるから。この考え方を猿にも敷衍している。(以下は引用なし:サルに衣装をつけてサルはサルだと笑うのは罪である。なぜならサルは(鏡の自分と同じく)反論できないからである)
対話が成り立たない環境下で対話を試みるのは「普遍」への侵犯である。
« Nous trouvons deux catégories d'actes se définissant comme usage immodéré du langage, les uns d'un point de vue quantitatif : jouer bruyamment, rire trop fort, manifester à l'excès ses sentiments ; les autres d'un point de vue qualitatif : répondre à des sons qui ne sont pas des paroles, prendre comme interlocuteur un individu qui n’a qu’une apparence d’humanité »
(ditto) 節度のない言語の用い方として2の範疇を挙げる。一には数量的である。騒がしく声を掛け合う、大声で笑う、度の外れた感情の露出。もう一方は定性的、問いかけにもなっていない語に返答する、形だけ人似の個体を対話しようとする。
« Toutes ces provisions se ramènent à un dominateur commun : elles constituent toute un abus du langage, et elles sont, à ce titre, groupées dans la prohibition de l'inceste, ou avec des actes évocateurs de l’inceste » これらすべての禁止は一つの共通項に行き着く。言語の悪用である。そしてこの悪用は近親姦の禁止、ないしは近親姦をそそのかす行為との同類が指摘される。
« Qu'est-ce que cela signifie, sinon que les femmes elles-mêmes sont traitées comme des singes, dont on abuse quand on ne leur donne pas l'emploi réservé aux signes, qui est d'être communiqués ? » 女はそれ自身で記号であり男が女にその記号に見合った処置を、これは対話に用いることだが、与えなければ女の悪用となってしまう。そうなるとこの事情(言語と女性の悪用は共通項を持つ)は一体、何を表すのか、何の意味も持たなくなる。
(文全体を反語として解釈する、女はそれ自体が対話の素材である。故に近親姦の禁止は言語の悪用禁止と同列であるべき)
黄金時代、バベル以前を夢見る 4 の了(2月1日)
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