蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

劉少奇の妻王光美

2020年01月10日 | 小説
神話の創造で毛沢東、文化大革命を調べたら、魅力的な女性、王光美に出会ったので一文を。

文化大革命で紅衛兵から弾圧受け、獄死(末期には入院したが治療は受けられなかった。毛が医師に放置せよと命じた。シナでは医療は権力者が管理する)した劉少奇の連れ合いが王光美(1921~2006年北京)。彼女の立ち振る舞いの優雅さ、美形ぶりは中国共産党高官の細君達でも抜きんでていたとの記事を読んだ(江青にねたまれた女、譚路(王の編が付く)美著、NHK出版)。他の高官の細君達の名前はネットで調べられるが、写真は見あたらない。比較が出来ないから何とも言えないのだが、ただ一人、毛沢東夫人の江青の写真は書物、ネットで見つけられる。
顔の造りやスタイルを論じるのは好ましくないので、社会性を比べると江青の積極さは際だつ。党主席夫人の立場を逆手に取って政治に口を出し、後に文革4人組を率いて国政を牛耳った。こんな積極女の江青に比べて王光美は、家庭に入って家事、育児(先妻の子と合わせ6人の子育て)に専念し、社会的発展には無頓着だった。
外交は別となる。
国家主席劉少奇による外交が始まった。極めつきは1963年4月の東南アジア4カ国訪問。王光美は夫に同伴した。彼女のこの立ち振舞が国際的に大きな波紋をよんだ。それまでの中国とは排他、閉鎖、秘密の印象が強かった。外国訪問団の歓迎などで党幹部の映像は流されるが、そこに女性、夫人が交わる事はなかった。高官夫人の実物を世界が初めて見た、光美の洗練された立ち振る舞いに世界が驚いた。

彼らの外遊の優雅さ映像は中国にも流れる。光美の評判が高まるつれ江青に妬み疚しさが燃えてきた。その座こそ「党主席の毛(党の序列一位)夫人が占めるべき、私への賛美を光美が盗んだ」と逆恨みした。

劉少奇と王光美

毛沢東は主席外交を行っていない。
なぜなら毛にあり中国の元首は皇帝であり、皇帝は諸国訪問などしない。諸国から派遣される使節を、その格式に応じて饗応するのが中国、シナの外交である。かつてはそれを朝貢と呼んだ。シナ帝国の外交プロトコルが抜け切れていなかった故に第二位者、共産党主席に次ぐ「国家主席」を訪問外交さしめたのである。
故に元首の「夫人」江青は、諸国訪問はできない。

普通の人ならその立場を受け入れるが、江青は受け入れない。光美への嫉妬がいやまさに噴き上がる。
1966年に勃発した文化大革命の初期に、紅衛兵をその居宅に差し向け、北京大学に引き連れつるし上げた(67年)。この演出のために江青は「王光美糾弾専門小組」を結成した。後にお先にも、江青が専門小組を立ち上げたのはこれ一回である。文化大革命では政治家、行政官、教師、芸術家など多くが公開の場で自己批判、すなわち三角帽子を被らされ、罪状を書いた板符を下げさせられるつるし上げを強要された。全て男への仕打ちである。女性で見せしめに遭ったのは王光美のみ。
毛沢東と江青はどちらを取っても「疑い深い心理、悪意の行動」に憑依されてる鬼神である。文化大革命とは江青には、王光美への怨恨はらしで、毛沢東には権力を簒奪した実権派首魁の劉少奇への復讐、引きずり下ろしであった。ヨーするに革命とは名ばかりの個人レベルのやっかみ、腹いせ、報復が発端となった証しが光美の公衆晒しである。中国らしいね。 了

(ホームサイト部族民通信WWW.tribesman.asiaに投稿している。そちらは写真を多くしている)

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