蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

三浦和義、嘘人生の総決算 遺体拒否とは

2008年10月14日 | 小説
三浦和義の自殺(10月11日ロス現地日)で幕引きかと思いましたが、遺族が遺体を引き取らないと言いだして長引いているロス疑惑の幕引き。遺族(故人の妻)が自殺に疑義を現し、「真相究明」しなければ遺体を引き取らないと言いだした。(13日、ただし元主任弁護士の弘中氏による、毎日JPから)
このニュースに接して(14日朝)は複雑な気持ちです、なぜかというと、遺体はすぐに引き取るものです。「引き取らない」という反応は珍しいし、死者への蔑みになる。私60年人間やっているがこうしたケースで引き取り拒否は始めてです。

病死、事故死に限らず遺族に取っては遺体との対面がともかく最重要です。対面して故人の顔を拝し確認して、葬式の段取りに入る。これは故人に対する最終、最大の「通過儀礼」ですから、これを遺族が遅らせる事は精神衛生上(普通は)良くない。精神衛生という言葉を使った意味合いは、「霊が浮かばれない」「葬式して荼毘にふして」あの世におくるのが葬式の意味合い。そこに進まないと霊は行きようがなくこのあたりをうろつく、普通はこのように考えます。ところが引き取らないときた。
確かに遺体を引き取らない例は他にもあります。先日死刑囚の話で(Y新聞)、執行して連絡しても遺体を引き取りに来ない遺族がいる。刑務所側ではしかるべく葬礼を仕切り遺骨にして所内安置している。同様の例がハンセン氏病の死亡者にもあった。いずれも極限の状況下(殺人者を先祖伝来の墓にいれられないなど)での苦しい決断で、葬儀を相手に託す事で葬祭は仕切られる。ところが今回は;

死因が不明だ、引き取らない。これだけです。しかし死因は状況、遺体の観察結果で自殺によることは明白です。この自殺が狂言だろうという指摘もありますが、狂言でも自殺は自殺。他殺は考えられない。移送されるとき空港では闘志満々だった、12時間前は裁判に臨む気持ちがあったとか論じても仕方ない話です。

先のブログ(嘘人生の総決算)に書いたのですが、共謀罪での起訴裁判が確実になった。有罪の予兆で人生がすべて嫌になった。全人生の否定と悪行の悔悟がある瞬間に舞い降りてきた、前妻の一美さんの霊を感じたかも知れないーと書きました。悔悟しての自殺で三浦なりに人生を決算したわけで、遅かったが人間として再生した。あとは最後の通過儀礼を取り運べばよいのですが、遺族が駆け引きに遺体を使い始めた。
争うべきは争い、しかし人としての義務ははたすべきです。即刻に遺体を引き取り、葬式、荼毘送りをしないと(たとえ希代の悪人だったとしても)三浦の霊が浮かばれない。遺族、元主任弁護士らはこうした人間の心の動きを知らず、遺骸を材料に難癖つけている人間として最低の作戦に迷い込みました。それが今朝の「複雑な心境」の理由です。

以上霊と人格は別と信じていて三浦霊の行き先を案じている部族民から論じました。部族民の世界観は左のブックマークから部族民HPへ飛んでください。

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