(5月22日に投稿 表題これまでの投稿は5月8日、18日)
ポケット版悲しき熱帯の340頁(第7部Nambikwara, 第27章En Famille=家族では)は彼らの生活を以下に記述する(原文)
Les rapports entre hommes et femmes renvoient aux deux poles autour desquels s’oreganise leur existence: (=以下略)
拙訳:(ナンビクヴァラ族)男と女の(社会的、心情的価値)関係は彼らの存在基盤の中に構成される。
(以下は略した部分の訳)
一方は定着生活で、食料の獲得手段は農耕となる。住居(hutte=藁と木っ端のオンボロ小屋としているが)建設と日々の畑仕事が定着での労働となるが、全てすべて男の役割である。時折狩りにでて、運がよければ獲物、肉にありつける。
この記述には前段があって、レヴィストロースはナンビクヴァラ族の男女意識を「男は体力、知識で女よりも上。女と子供は劣る」と語っている。定住生活で女性は一日しゃがみ込んで籠、紐などを作っている、娘は母親を手伝いながら技法を学ぶけれど男子は遊んでいるなどが状景描写されている。これらの生産、修繕の女の活動にしても生活に不可欠なのだが、男からは「楽な仕事」として評価が低い。
もう一方の生活、移動について。340頁引用を続ける
<la periode nomade , pendant laquelle la subsistence est principelement assure par la collecte et le rammassage feminins>
拙訳:移動の季節になると日々の糧は女が移動最中に採取する植物や昆虫のみとなる。
移動する際の格好とは男は弓矢だけで身軽、女は什器用具の一切を籠に詰め、幼児がいれば背負い、ペット(猿かオウム)は担ぐ(前回に記述した)。移動の最中にもバッタを見つければ、手持ちの棍棒で手早くたたき落とす。木の実など食できる植物を採取する。男が弓矢を持つのは狩りのためだが、移動の季節(マトグロッソとしては寒く乾燥)に鳥類、動物に出会う機会はほとんど無い。食物とはバッタの脚(sauterelleと記載されている)と葉っぱの幾葉しか用意できない夕餉もある。東京日野市で見かける痩せバッタよりも肉付き良くあれと祈るしかない。
定住はl’euphnie alimentaire=食物の調和、移動はl’aventure et la dissette冒険と飢饉としてレヴィストロースは定義する。
この季節と労働の感覚はさらに発展してゆく。
次ページ(341);
<les hommes evoquent le type de vie define par l’abri temporaire et le panier permanent(=以下略)>
l’abri以下について;
<一時の避難場所と身から離さない籠>は移動生活の修辞。文意全体の解釈のキーは動詞evoquerです(文中ではevoquent三人称複数で活用されている)。辞書Robert(peteit)での第一義は死者を秘術で呼び起こすですが、これは採用できない。<他人の心に画像を示しながら思い起こさせる>が第四義として載ります。スタンダード辞典では<連想させる>とあります。単に思い出させるのではなく<より具体的に状景を交えて説明する>。移動を避難場所と籠とで修辞した文章技法も納得できる。
拙訳は:
男達は移動生活を避難でのあれこれのやり取り、突然の雨で濡れてしまった籠などの状景を交えて(懐かしげに)語ったとなります。食物が潤沢に用意される定住生活の間にも腹を減らして苦しんだ移動生活を懐かしむとは。
340頁に戻ります。
<Ils parlent de la premiere avec la melancolie 中略 ils decrivent l’autre avec excitation , et sur le ton exalte de la decouverte.>
拙訳:一の生活形態とは妥協と生きるための諦め、辛い仕事の繰り返しとして物悲しく(melancolie)語る。もう一方はあらたな発見などでは息を弾ませ興奮して(ton exalte)伝える。
さて生活の二形態とは定住と移動。読者皆様に質問です。もの悲しく思い出すのは移動でしょうか定住か。
ヒントは定住では食物は豊富で、デンプン質も蛋白質も程よく調和されている。しかし移動は困難と飢餓、吹きさらし雨ざらしで地べたに寝る。
.投稿子(蕃神ハガミ)は当然として苦しい移動生活を悲ししみとともに伝えて、定住の描写には息はずませたと哲学の師PierreGodoに答えた。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 4 の了(次回は5月26日予定)
ポケット版悲しき熱帯の340頁(第7部Nambikwara, 第27章En Famille=家族では)は彼らの生活を以下に記述する(原文)
Les rapports entre hommes et femmes renvoient aux deux poles autour desquels s’oreganise leur existence: (=以下略)
拙訳:(ナンビクヴァラ族)男と女の(社会的、心情的価値)関係は彼らの存在基盤の中に構成される。
(以下は略した部分の訳)
一方は定着生活で、食料の獲得手段は農耕となる。住居(hutte=藁と木っ端のオンボロ小屋としているが)建設と日々の畑仕事が定着での労働となるが、全てすべて男の役割である。時折狩りにでて、運がよければ獲物、肉にありつける。
この記述には前段があって、レヴィストロースはナンビクヴァラ族の男女意識を「男は体力、知識で女よりも上。女と子供は劣る」と語っている。定住生活で女性は一日しゃがみ込んで籠、紐などを作っている、娘は母親を手伝いながら技法を学ぶけれど男子は遊んでいるなどが状景描写されている。これらの生産、修繕の女の活動にしても生活に不可欠なのだが、男からは「楽な仕事」として評価が低い。
もう一方の生活、移動について。340頁引用を続ける
<la periode nomade , pendant laquelle la subsistence est principelement assure par la collecte et le rammassage feminins>
拙訳:移動の季節になると日々の糧は女が移動最中に採取する植物や昆虫のみとなる。
移動する際の格好とは男は弓矢だけで身軽、女は什器用具の一切を籠に詰め、幼児がいれば背負い、ペット(猿かオウム)は担ぐ(前回に記述した)。移動の最中にもバッタを見つければ、手持ちの棍棒で手早くたたき落とす。木の実など食できる植物を採取する。男が弓矢を持つのは狩りのためだが、移動の季節(マトグロッソとしては寒く乾燥)に鳥類、動物に出会う機会はほとんど無い。食物とはバッタの脚(sauterelleと記載されている)と葉っぱの幾葉しか用意できない夕餉もある。東京日野市で見かける痩せバッタよりも肉付き良くあれと祈るしかない。
定住はl’euphnie alimentaire=食物の調和、移動はl’aventure et la dissette冒険と飢饉としてレヴィストロースは定義する。
この季節と労働の感覚はさらに発展してゆく。
次ページ(341);
<les hommes evoquent le type de vie define par l’abri temporaire et le panier permanent(=以下略)>
l’abri以下について;
<一時の避難場所と身から離さない籠>は移動生活の修辞。文意全体の解釈のキーは動詞evoquerです(文中ではevoquent三人称複数で活用されている)。辞書Robert(peteit)での第一義は死者を秘術で呼び起こすですが、これは採用できない。<他人の心に画像を示しながら思い起こさせる>が第四義として載ります。スタンダード辞典では<連想させる>とあります。単に思い出させるのではなく<より具体的に状景を交えて説明する>。移動を避難場所と籠とで修辞した文章技法も納得できる。
拙訳は:
男達は移動生活を避難でのあれこれのやり取り、突然の雨で濡れてしまった籠などの状景を交えて(懐かしげに)語ったとなります。食物が潤沢に用意される定住生活の間にも腹を減らして苦しんだ移動生活を懐かしむとは。
340頁に戻ります。
<Ils parlent de la premiere avec la melancolie 中略 ils decrivent l’autre avec excitation , et sur le ton exalte de la decouverte.>
拙訳:一の生活形態とは妥協と生きるための諦め、辛い仕事の繰り返しとして物悲しく(melancolie)語る。もう一方はあらたな発見などでは息を弾ませ興奮して(ton exalte)伝える。
さて生活の二形態とは定住と移動。読者皆様に質問です。もの悲しく思い出すのは移動でしょうか定住か。
ヒントは定住では食物は豊富で、デンプン質も蛋白質も程よく調和されている。しかし移動は困難と飢餓、吹きさらし雨ざらしで地べたに寝る。
.投稿子(蕃神ハガミ)は当然として苦しい移動生活を悲ししみとともに伝えて、定住の描写には息はずませたと哲学の師PierreGodoに答えた。
猿でも構造、悲しき熱帯を読む 4 の了(次回は5月26日予定)