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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite、ラカンに哲学を教える 下

2025年01月11日 | 小説
本年初の投稿なので肩のこらない話題...「哲学は理解じゃないよ、解釈」その下

(2025年1月11日)et qui s'appellerait le savoir absolu ? Hegel le dit un peu, mais on peut le comprendre tout autrement. L'interprétation de Heidegger, par exemple, est tendancieuse, mais elle est possible, heureusement. C'est pour cela qu'on ne dépasse pas Hegel. Il serait fort possible que le savoir absolu soit, pour ainsi dire, immanent à chaque étape de la Phénoménologie. Seulement la conscience le manque. 絶対知とは誰のことか。ヘーゲルは少しだけ語っている。しかしそれを正反対に理解する人だっている。ハイデッガーの解釈は、傾向的すぎるけど、それも可能です、(彼には)幸せなことに。でもこの事をもって、人はヘーゲルを乗り越えられない。こうも言えるのではないか、現象の一つずつの段階に絶対知は浸透している。悟性はそれを理解しないだけと。
(ハイデッガーの解釈、部族民は語れません。Wiki仕込みくらいを挙げたいのでネットに入ると、色々出てくる。開ける画面は「哲学系」のお偉い様の論文。そこには部族民にとっては「何も」書かれていない。ただアータラコータラで結局、部族民の低級脳ミソは理解しない。
「複雑に絡み合う事象を」簡明にまとめるのが科学者なのだ=レヴィ・ストロースのスンバラシイ言葉=とは真逆、簡単なはずのヘーゲル真理(Hyppoliteがそう解説する)を「哲学的」複雑さに追いやる、こんな解説を読んでいると頭が痛くなる。


Hyppoliteの哲学「講義」が収まるラカン・セミナーの第2冊。表紙はイタリア・マニエリズム大家、モンテーニャのLe Clavaire (ゴルゴダの丘)

部分。良き人ヨセフがイエスの遺骸を引き取るため布地を百人隊長に贈る。後ろの(狡猾な面構え)は総督ピラト。ルーブル蔵

Elle fait de cette vérité qui serait le savoir absolu, un autre phénomène naturel, qui n'est pas le savoir absolu. Jamais donc le savoir absolu ne serait un moment de l'histoire, et il serait toujours. Le savoir absolu serait l'expérience comme telle, et non pas un moment de l'expérience. La conscience, étant dans le champ, ne voit pas le champ. Voir le champ, c'est ça, le savoir absolu.
結局、悟性はこの真実(絶対知は現象の細部に浸透する)をして、もう一つの現象、自然現象を形成してしまう。それは絶対知ではない。言いたいことは絶対知は歴史の一区切りに現れるのではなく、歴史そのものなのだ。絶対知はこうした経験(弁証法)に現れるわけで、一つの節目に出てくるものではない。悟性は(現象の)野に生きるから、この野を見てはいない。現象の野を観察する、これが絶対知なのだよ。

教訓 : 1哲学書は理解できない、著者のわだかまる思考の果ての捻じくれ修辞は、フツー、理解できない。だから解釈する。たまに易しい哲学書はあるが、全く面白くない。仏語界隈の話です。哲学者は文章をしたため、世に公表する。そのときから著作が独り歩きする。読者は文言、行間を読むに集中する。著者はもはや作者ではない。この事情をHyppoliteが簡明に語っている。

2 絶対知は弁証法に潜在(immanent)している。弁証法そのものが絶対知を表現しているノダ。絶対知は歴史そのものだ。ナポレオンは、それまでの開明開放の人道歴史の昇華なのだ。ヘーゲルがこう言ってるが、これって全くマルクスじゃん。サルトルも「弁証法理性批判」で似たこと言ってるぜ。

3 悟性(考える力に属する)はそれ(絶対知の浸透)を理解しないうえ、眼の前を「自然な」現象に捨象してしまう。自然なとは、理性を介在しない、見えるがままの性状として理解する(このあたりはCertitude sensible感じる蓋然で解説している。部族民は1月半ばからBlog投稿する)。

4 ハイデッガーのヘーゲル解釈にHyppoliteは賛同していない風です。それでも « Heureusement » ハイデッガーには都合が良かったんだけど、彼の解釈も実は成り立つ。Hyppoliteのこの皮肉には鼓舞される、先程は諦めたハイデッガーのヘーゲル論に入るべぇと。
ネット断片を読み解くと;ハイデッガーは宇宙理解(彼にしての実存)を個のレベルに引き下げた。ヘーゲルはカント伝統を受け継ぐから、理性(science)を人(全人類)の知性の源においた。個の知は理性に浸透(immanent)されているのか、個それぞれが、それぞれの宇宙観を育成するのか、この対立になるのではないかな。

最後にラカン「ヘーゲルは最後の人文主義者、そこに行き詰まった。フロイトはその出口を見つけた。故に彼は人道主義者ではない」

なんとも意味深の言葉です。 Hyppolite、ラカンに哲学を教える了(1月11日)

後記:レヴィ・ストロースがサルトルを批判した文(野生の思考)に対し、日本の高名なサルトル紹介者(文学系)が放った言葉「レヴィ・ストロースはサルトルを全く理解してない」(1963年)。後にこの語を聞き及んで、私は衝撃を受けた。文学者は作品を「理解」するのかと。考え直して「文学作品は作者、その時代、生活環境とあわせて語られる」ことが多々、伺える。その雄弁な例はユイスマンス、プルースト、漱石龍之介など、皆文豪です。それを称して「理解」と述べたのか。しかし哲学書は、幾度か言うが、文言命です。著作が発表された途端、書物は独り歩きする。デカルトは吝嗇、キルケゴールは女たらし(知らないけど)などを前提にして、著作を論じません(部族民蕃神ハカミ)。




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Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上

2025年01月09日 | 小説
2025年初めての投稿となります(2025年1月9日)
皆様には、2024年を通して当ブログ、同期するYoutube、ホームページへのご訪問に深く感謝。本年もご訪問、コメントで部族民を叱咤激励してください(部族民通信)。
本年の初投稿、堅苦しくない話題を。精神分析ラカンとHyppolite(哲学、昨年の部族民ブログでヘーゲル著作の紹介者として採りあげています)のやり取りです。

Jaque Lacan (精神分析医、以下ラカン) 彼の紹介はWikipediaを丸ごと引用する:
ジャック=マリー=エミール・ラカン 1901年~81年フランスパリ、哲学者、精神科医、精神分析家。 初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。 中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。 後期では、フロイトの大義派を立ち上げた。


セミナーではラカン節が炸裂

付け加えるとパリ・サンタンヌ病院(神経内科の専門施設)の精神分析医長。公開セミナーを開催した(1950~70年代)。一般人も自由に傍聴できた、一時100名をこす参加傍聴もあって、大変に盛況だった。セミナー会場は当初はサンタンヌ病院会議室、後に(参加者が増えたので)高等師範学校 (Ecole normale supérieure) 階段教室に移った。このときに同校哲学教授を勤めていたのはJean Hyppolite。施設貸出を許可した当人で、かつフロイトにも関心を寄せていたのでセミナーには足繁く通った。


パリのサンタンヌ病院

ラカンは著述を残していない、公開セミナーは速記録(速タイプ)が残されていた。弟子のアラン・ミレールの編纂で1970年代から出版された(全19巻あるらしい、邦訳では5を越すほどか)。
以下の引用はラカン・セミナー第2巻 91~92頁から。

話がヘーゲルに飛んだ。
ラカン「彼の著作の「精神」=精神現象学=は傑作中の傑作と思うのだが」
イポリット「君が傑作をどのように定義するのかによる」
ラ「私はよく考えている、その定義の説明は後にして、それ(精神現象学)はどの辺りを主張するのか教えてくれないか」
イ「私を(ヘーゲルの)宣伝員と思ったら困る、ヘーゲルの代行になったことなどと思っていない。どちらかと言うとその反対だね。」
ラ「それはよく理解しているよ、それでも君は私よりヘーゲル専門家なのだから、彼の諸作品が私の主張に沿うのか、全く反対かどうかは指摘できる=中略=結局、絶対知(Savoir absolu)ですよね、ヘーゲルはそこから抜け出ていない。弁証法悟性があって、それが絶対知につながる。そう書かれている」
(ラカンはヘーゲルをちゃんと知っているのだ。単なる「減らず口」なんて評価したらラカン、間違えたアカン。哲学素養満載の口達者なのだ)
Hyppoliteは立ち上がっておもむろに、しかしラカンのセミナーなので長い時間は取れない、簡潔に、そして核心どころ、一口舌した。それが以下;

M. HYPPOLITE : — Oui, mais on peut interpréter Hegel. On peut se demander s'il y a un moment, dans la suite de l'expérience, qui apparaît comme le savoir absolu, ou bien si le savoir absolu est dans la présentation totale de l’expérience ? C'est-à-dire — est-ce que nous sommes toujours et en tout temps dans le savoir absolu ? Ou bien le savoir absolu est-il un moment ? Est-ce que, dans la Phénoménologie, il y a une série d'étapes qui sont antérieures au savoir absolu, puis une étape finale à laquelle arrive Napoléon, n'importe qui, etc.,
了解、しかしヘーゲルは多様に解釈されている。経験の流れのなかで、それが絶対知に思える一時はありうる。あるいは経験全ての表現が絶対知なのか。言い換えると我々は常に、いつも絶対知の中にいるのか?それともそれは一瞬の時なのか。現象学の中では絶対知に先立つ一連の段階を説明している。その最終段階にナポレオンが登場する、絶対精神のかのごとく。ナポレオン以外でも良いのだが。
(ナポレオンのイエナ入城に居合わせ、目撃したヘーゲルが「世界精神が馬に乗っている」と感興を語っている。絶対知を世界精神と言い換え、それはモノ世界に存在して、それに値する英雄に憑依したとヘーゲルが感動した。こう=部族民は=理解、オットまた間違い、解釈する)


イエナに凱旋するナポレオンとヘーゲル、抱えている書類は精神現象学の草稿。これを手に戦乱から逃げ回ったとも伝わる(写真はいずれもネット採取)



Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上 の了 (1月9日)
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ヘーゲル精神現象学まとめ Youtubeに投稿案内

2024年12月11日 | 小説
(2024年12月11日)ヘーゲルの精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit、その導入章(Introduction)の紹介をGooBlogそしてYoutube に投稿(9月26日から)していました。Youtube最終回(第10回)を12月3日に終えております。今回は最終回の上塗り、これまでの「まとめ」を動画にまとめました。10回の既投稿のままですが、図録スライドを中心にして簡潔を心掛けました。内容は:訳者Jean Hyppoliteの紹介に続いて

1精神現象とは、ヒトが考える動作を示す。考えるとは脳内の現象活動である
2鍵語4と準鍵語の解説
3現象は2の様態に分かれる。現象の野と仕組み
4ヒトが現象活動に入って考えをいくら巡らせても誤り、オソレを犯してしまう。なぜなら現象の野には実体が投影されないから。オソレは10挙げられる

5悟性と知が実体の現象(基準と概念)を、幾度かすり合わせても、故に真理に達成できない
6(Jaxxaに先駆けること220年前)ヘーゲルは2段ロケットを開発した。一段目は悟性と知の内部での弁証法。ここで蓋然Certitudeと決定力Déterminabilitéの用語が持ち込まれる
7更にこれら運動には理性Scienceが内在していたのだ。かくして悟性はモノの実体、真理に(限りなく)近づける。ご批判を待ちます。

Youtube動画リンク : https://youtu.be/gKPs3BmGT94

部族民通信HPでの頁は https://tribesman.net/philo.html (PDF、動画、ショート動画にリンク)

部族民通信のホームサイトは www.tribesman.net


訳者のJean Hyppolite。本書をモト本とした理由は脚注が素晴らしいから。頭捻って喘ぎながら本文を解釈にこぎつけても、突拍子もない脈絡になったら話にならない。そんな時、脚注を参考にして修正、あるいは読み直しが図れる。袋小路から抜け出られたこと幾度か、Hyppolite先生のおかげ。


補遺:このまとめには「モノは主体で弁証法を経験する」「モノが思想を持つ」のマルクス、サルトルの魁とおぼしき2節は盛り込まれない。それら説明はTextのみだった。これら唯物、実存とヘーゲルのつながりは来年にも。

後記:部族民の2024年投稿はこれが最終、2025年の再開は1月の半ば、ヘーゲルを採り上げます。理由はこの精神現象学は読んで「面白い」から。当部族民youtubeに接近なされる方の、令和7年の御多幸を部族民一同、祈念します。

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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学導入章 Youtubeに最終回の投稿の案内

2024年12月03日 | 小説
Hyppoliteによる仏語訳のヘーゲル精神現象学(La phénoménologie de l’Esprit)、その導入章 (Introduction) の紹介をSNSにて広めております。本年(2024年)9月14日からGooblogに投稿を始め(Youtubeには 同26日に初回投稿)、今回が最終投稿。投稿回数は10を数えます。最終にあたり若干の背景を:

精神現象学はヘーゲルの出版(1807年)は最初期にあたり、本書で展開する弁証法は「ヘーゲル原初期の弁証法」として位置づけられる。本書700頁のあらましが導入章12頁に記される。それは:

1 考えるとは真理を追求することである。
2 真理はモノ世界に在る
3 真理を考えの中に導入し、人の思想(基準mesure)と摺合せる。
4 その仕組は認識(connaissance)の内に現象の野(milieu)を設け、モノ対象の概念(concept)を知 (savoir) が投影する。概念と基準の対峙(節目moment)で整合不整合が定まる。現象の仕組みとして必ず不整合に陥る。節目の繰り返しとなるが、現象の域にとどまる限り真理を掴めない。
5 ヘーゲルは現象を通して真理に肉薄できる能力を悟性に与える。決定力(déterminabilité)。悟性は概念(現象の枠内)を通じてモノ世界の真理を透視する。これを経験(expérience) とする。幾度かの経験の試みで真理を体得し、絶対知を標榜するに至る。
これら記述の副産物として弁証法は現象の野だけで展開されない。知、悟性の両者の内部でも(蓋然と真理の対峙など)弁証法が広がる(二段ロケット)。知、悟性が概念と基準を形成するのは、内部で確固とした体系(弁証法)が練り上げた後に現象の野に開陳する(ヘーゲル弁証法は機械的な否定とする、一部の解釈は、当たらない)。更に「モノには思想が宿る」の記述が見られる。この文はマルクスの歴史弁証法、サルトルの実存主義の萌芽に繋がる。


Hyppoliteの胸像、出身校リセ・ジョンザックに建設される


なお本書(Hyppolite訳のヘーゲル精神現象学)は日本に紹介されていない。

訳者Hyppolite(Jean、1907~68)は ソルボンヌ大学哲学教授、高等師範学校校長などの要職を歴任した。Wikipediaから一節を引用する「1955年にはマルクスの初期の著作、つまりヘーゲルの影響が色濃く見られる時期の作品に関する研究を発表した。それはまさに、フランスにおけるヘーゲル熱が最高に高まっているタイミングでの出来事だった。1963年、彼はコレージュ・ド・フランスの教授に選出され、「諸体系の歴史」講座を受け持った。同時代人であるサルトルたちがドイツ哲学から影響を受けながら新奇性のある著作を発表してきたのに対し、イポリットの方はテクスト解説者、教育者、翻訳者として名をとどめている」

最後に、本投稿(ヘーゲル5_2)は悟性が決定力を発揮し自身を絶対知に高める過程を説明する。その高みとは理性(science)の位置である。弁証法は、精神背後に潜む理性が統治している。

Youtube動画リンク https://youtu.be/87TvL_eJoZc

部族民通信ホームサイトwww.tribesman.net




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ヘーゲル精神現象学、最終節のYoutube動画の投稿案内

2024年11月27日 | 小説
(2024年11月27日)まだ暑さも抜けなかった本年9月14日、この日に始めたヘーゲル精神現象学(Phénoménologie de l’Esprit)、その導入章(Introduction)の紹介、本稿(Youtube動画)で最終となります。1本にまとめたところ30分近くとなり、長すぎるので2本動画に仕立てました。前半(5_1)を本日Youtubeに投稿。主題は真理追求の弁証法は2段ロケット。


Youtube動画野サムネイル


概要欄の一文は以下に:
前回(精神現象学4_2)ではサルトル実存主義を予告する「モノに思想(概念)が含まれる」を表現したそれまで「概念は現象の野」に知が投影するとしていた。この差をヘーゲルは「2の表現(モノは概念を含むか、概念は精神作用か=前回4_2)は実は一致する。基本は、これら調査において両の節目moments、その一は概念と対象(知)、別の一つは他者に向く存在と律自の存在(悟性)の、いずれもがここで取り組むとする「知る活動内部」に紛れ込んでいる事情を、理性 (我々)は心しておく。その意味するところは、理性は検査の場に己の基準も、個人思考をも持ち込む余地はない)と諭す。これをして弁証法の2段ロケットと部族民が理解した。更に「この2段仕掛けには」概念はモノ側に付属するーが必須となる。精神現象がモノの概念を理解する仕組みにDéterminabilitéを悟性が保有すると展開してゆく。

Youtube動画リンク:https://youtu.be/UgksTtzcmcg

部族民通信ホームサイトのIndex頁:https://tribesman.net/

ホームサイトでは哲学に分類されています。 https://tribesman.net/philo.html この頁からは動画、PDF(パワーポイントから改編)を開けます。

動画の元になっている文章はYoutube投稿そのものですが、改訂を入れています。新たな解釈も入った文はホームサイトのこちら頁に接近してください。 
https://tribesman.net/Hegel5.html

最終投稿(現象学5_2)は近々に動画化します。了

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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 下

2024年11月21日 | 小説
(2024年11月21日)« En se poussant vers son existence vraie, la conscience atteindra un point où elle se libérera de l’apparence, l’apparence d'être entachée de quelque chose d'étranger qui est seulement pour elle et comme un autre ; elle atteindra ainsi le point où le phénomène devient égal à l'essence, où, en conséquence, la présentation de l'expérience coïncide avec la science authentique de l’esprit ; finalement, quand la conscience saisira cette essence qui lui est propre, elle désignera la nature du savoir absolu lui-même » (77頁)

節目の中身の全て、その存在の真実に、悟性は自らを向け己の表現から解き放たれる地点にたどり着く。その表現とは何某かの、悟性を別のものにしてしまう、異質なものが取り付いていた。そして現象が実質に同等な地点にたどり着き、その流れに沿いながら、経験があからさまにする表現が精神の正統なる理性と合致するに至る。最終的に悟性はこの、己に本来である実質を取り込むことになり、絶対知savoir absoluとは己と顕示できるに至る。


知と悟性に弁証法機構が内在している。それらが吟味して現象の野に提示する、基準と概念は再び検査に入る。2重の弁証法の仕組みをヘーゲルが説明する(前回、中、の2段ロケットのイメージ図)


部族民:その存在=は前文 « les moments du tout » を受ける、son(代名詞単数男性形)なのでle tout。その意味は幾度かの節目を通して、ようやく真実の存在になりうるに至った節目の中身(基準と概念)を指す。目を曇らせる異質を悟性が拭い、次に現象と実質が重なり…最後に絶対知を獲得する。

Hyppolite:Cette introduction démontre l'immanence de la science à l'expérience. 本章は経験(弁証法)においての理性の内在を証明する。
用語;Immanence内在とは:Caractère de ce qui est intérieur à un être ou à un objet des pensées (Dic. de philo. Nathan) 存在あるいは思考の客体に内在する性状。スピノザの自然に内在する「神」はその例と挙げられる。ここでは精神における理性の内在、弁証法における精神優位、モノ世界を敷衍する絶対知を表す。
部族民は理性をtranscendantalと理解していた。この語には対象から概念を形成するに経験を必要としない、即物即断性がうかがえる。一方immanence内在は常在する「原理」の意を感じる。先験の即物能が原理として弁証法に内在すると理解する。

まとめ:精神現象を当初は内向きに説明し、後半に知も悟性もモノ世界を見据えると外向きに変化した。現象の知は、概念からモノの実質を探り、悟性の決定力の駆動で、絶対知を獲得できると結論付けた。
悟性知理性のせめぎあい、弁証法過程の呻吟を12ページの要約にまとめたIntroduction導入章。まさにヘーゲル思想のすべてを詳細記述した力作が本書本章です。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介 改訂版 了 (11月21日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中

2024年11月17日 | 小説

(2024年11月17日)前文: 9月14日にGooblog 投稿した「精神現象学の紹介」の初回シリーズの最後半部を大きく改訂し、再投稿を試みている。改訂内容は前回(上)で報告している通り「1悟性、知、それぞれに概念と真理の拮抗、弁証法が発動する」。本稿でこの趣旨が更に展開する。精神の単性要素(知、悟性)それぞれの内で弁証法が展開する。悟性には「一つの何か」が備わり、内の弁証過程に湧き出て、精神外のモノ真理を掴む。これを決定力déterminabilitéと後に命名する。精神が外部の真理に肉薄する過程には内なる弁証法と、現象の野での知と悟性の拮抗が演じられていた(2段ロケット)。

前回上の最終文を一部紹介:
「悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象は一致しない。対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなって…」節目検査での不整合を記す文です。

以下本文:脚注Hyppolite : * Un savoir déterminé de la conscience constitue une totalité concrète ; si l'examen montre une disparité entre les deux moments, les deux moments changent en même temps, et la conscience, qui a fait une expérience, est conduite à une autre forme de savoir.
悟性から判断を受ける知は、確固とした総体を形成している。検査により前後節目の間に不整合が発覚すると、2の節目は同時に変化を見せ、悟性はこの経験を体現するのだから、己の知のあり様を変える。

部族民:脚注Hyppoliteの「確固とした総体」の意味は知が内部に弁証法の仕組みを所有するーと理解する。本章後半には基準、概念、実質に新たな考えを導入している。言ってみればそれは2段構えの弁証法を導くためと(部族民は)解釈する。Hyppoliteがそれを「確固…」と言い切る。現象を取り巻く思考の過程に複雑さが増した。
この2段構えとは「モノが思想を宿す」「モノ思想を精神が探り真実に至る」。この説明は現象の野での弁証法で、ここが初段=前回4_2。さらに「現象の知=Hyppolite」および悟性は、それ自身に主体と客体の対立を抱える。(知の)蓋然certitudeと真実vérité=前回 、(悟性の)内に抱える基準、外世界に存在する対象の概念。Hyppoliteがその内部性状を「確固」と指摘する。この確固思考の発露を判断力déterminabilitéとした。

« Ce mouvement dialectique que la conscience exerce en elle-même, en son savoir aussi bien qu'en son objet, en tant que devant elle le nouvel objet vrai en jaillit, est proprement ce qu'on nomme expérience* » (76頁)
悟性が自身としてかく活動し、あわせて知も対象も活動し変化する。悟性の前に新たな真実対象が、これら活動の中から湧き出る。これを経験と言う.
部族民:確固とした節目を経験する知と悟性、決断に導かれ外部世界を探査する悟性。もはや理性が入り込む余地はない(nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche=理性は思考を持ち込めない=前回4_2の句を裏付ける) 
追補:検査は必ず不整合に陥る。しかし知は確固とした総体(内部の弁証法)を持つから総体ごと変遷する(知内部では蓋然と真理、この対峙を経て概念を新たにする)。この変因律は悟性にあっても同じ。両者内部での弁証法は、精神現象にて2段目の弁証法が発起され、悟性が決断をもって裁定する。


弁証法は現象の野で進展する、しかし知と悟性の内部にも弁証法の過程(対立構造)は付帯されている。ヘーゲルが明かす2段ロケット弁証法。


Hyppolite:*L'expérience et la dialectique se trouvent identifiées. ここに弁証法と経験が特定できた。
結語(12頁の導入章の最終頁。多くはこれまでの引用で語られているが、ヘーゲル先生は念をいれる) « L'expérience que la conscience fait de soi ne peut, selon le concept de l 'expérience même, comprendre rien de moins en elle que le système total de la conscience ou le royaume total de la vérité de l’esprit ; cependant, les moments de la vérité s'y présentent dans cette déterminabilité particulière : ils ne sont pas des moments abstraits et purs, mais ils sont comme ils sont pour la conscience, ou comme cette conscience surgit dans son rapport à eux. C'est pourquoi les moments du tout sont des figures de la conscience* » (77頁)
悟性自からが体験する「経験」は、経験の概念の仕組みにより、悟性の体系、あるいは精神真理の王国を含まずに留まるものではない。個別的決定を実践する段階で、いくつもの真実の節目が現れる。それらは抽象的、単に純粋のみの節目ではない。悟性に訴えかけるかの節目、あるいは節目との連携でこの悟性が湧き上がるかとも思える節目である。これをして節目の流れの全ては、悟性の形態といえる。
(含まずに留まらないは2重否定、含み留まるがその意、蛇足ながら)

Hyppolite:*Distinction de la Phénoménologie et de la Logique.現象学の論理学からの区別。(精神活動の中心に悟性を据える。その悟性は「論理」の下僕ではない、弁証法の律則で動く。デカルト、カントなど哲学先人との差を指摘している)
部族民:外部真理を判定する能力déterminabilité、個別の節目でそれを発揮する機会はparticulière個別判断。悟性が節目の独自にあわせparticulière個別判断を実行し、節目の真理が体現される。弁証法発展では悟性が主導権を握る。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中の了(11月17日)
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聖ロカ病院って言ったら笑われた

2024年11月15日 | 小説
(2024年11月15日)本日のニュース、重篤な状態で聖路加病院にご入院中の三笠宮妃百合子様がご逝去なされた。御享年101歳。雑の身ながら御冥福を祈ります。

ここからが、どうでもいい話題シリーズ2弾の本文:ラジオ・テレビでは聖路加病院を「聖ロカ」と発音していた。聖ロカなる聖人は存在しない。新約聖書福音書ルカ伝は聖ルカ(Saint Luca)の口述による(自筆の説も)。ルカ(ラテン語)がリュック(仏)、ルークルーカス(英独語)と替わるが、ルはそのまま、ルから「ロ」への音韻変換は無い。聖路加病院も聖ルークを守護に掲げるので聖ルカと発音するはず。メディアの誤読みのみならず、同院関係者の皆様も聖ロカと発音していた(投稿子渡来部は一時、医療関係に職を得て、面談の機会を賜った)。


聖ルカ、ベリー公の時祷書(Wikiから拝借)


「路」が問題を引き起こしている。路にはロの音読みが当てられ「ル」は見当たらない(角川の大漢和など幾つかの漢和辞典での調べ)。聖路加とあるからセイロカと読むしかない。しかし大昔は明治、維新もその半ば、あらゆる文物事象を漢字に当てる作業に人々が勤しんだ。諭吉はlibertéを自由と、周がphilosophieを哲学と名訳をあてた頃と想定して、仏王ルイ14世を「路易14世」とした。14世に限らずあらゆるルイLouisには路易が用いられていた。またLuc読みはリュック、路来と書いた。ちなみにルイーズは路易子と書く。
誰が路を持ち込んだのか、なぜルと読ませる漢字を当てなかったかは不明。ルの漢字には留(進歩なし)、流(ながされる)、襤褸(ランル、ボロ服)など碌でもない字が並ぶ。ルイ14世に褸衣は当てられない。こんな事情があったと推測します。

リュックが路来ならルカは路加、同病院の創立の1901年(明治34年)ならば路をルと読むに抵抗はなかった(はず)。しかし昭和に入って、定着しなかった。ルカ伝など知らない人々がセイロカと言い出して、この読みが定位置に着地した感がある。
なおGoogleでは聖ルカ病院、聖ロカ病院、検索窓にいずれを入れても聖路加病院に行き着く。右肩のショートWikiには「せい=ろか=こくさいびょういん」は正式な読みではない」の但しが文頭に見える。行外に「聖ルカと読むのだ」「聖ロカなんてのは存在しないんだから」悲痛な叫びが聞こえる。了
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上

2024年11月14日 | 小説
前文:本稿はYoutubeに動画投稿されているヘーゲル「精神現象学」の最終節にあたり、近々にも動画化する予定です。実はこの部分は本年9月14日にGooblog投稿されています。その後、動画化での読み返しで、初稿の至らない内容が気になって、かなり変えた。書き直しは 1悟性、知、それらの内部に概念と真理の拮抗、すなわち弁証法が発動する 2すなわち基準と概念のすり合わせの弁証法(これが精神現象)の前に、精神内部でソト世界を見つめてソトと内の弁証法が拮抗する 3悟性がモノ世界の真理を見極める「一つの何か」を所有し、それを決定力déterminabilitéとする。これをしてモノ世界の真理を精神が掴み、ヒトが絶対値を修得するーなどです。このあたりが本書の肝心カナメ、(初稿は)そこが弱かった。ほとんどの書き換えとなり改定版としてGooblog再投稿を決めました。

ヘーゲルのYoutube動画はこれまで6幕投稿しています、それらはBlogとの内容差異はありませんので、楽しんでください。最近の動画(4_2モノは精神を宿し個がそれを経験する)のリンクを貼ります
https://youtu.be/4qlu27dSuHU
ホームサイト内のそのページリンクは https://tribesman.net/Hegel4_2.html 
部族民通信の哲学ページはhttps://tribesman.net/philo.html  動画(サイト内でのリンク)PDF資料に接近できます。

ヘーゲル先生「ヒトの思考は現象にすぎない。実質、真理はモノ世界にあるので、ヒトは真理に到達できない。しかし儂の理論を理解して、持ち前の決定力を実践すれば、かなり近くまで到達できる。決定力の無いヒト、俗には頭悪い、は絶対に近づけない」


改訂版本文(2024年11月14日、前回ブログ投稿9月14日) « ces deux présentations coïncident ; mais l'essentiel est de retenir fermement pendant toute la recherche ce fait que les deux moments, concept et objet, être-pour-un-autre et être-en-soi, tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir que nous étudions, et donc que nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche ; c'est, au contraire, en les écartant que nous aboutirons à considérer la chose comme elle est en soi et pour soi-même » (74頁)
2の表現(モノは概念を含むか、概念は精神作用か=前回4_2)は実は一致する。基本は、これら調査において両の節目moment、その一は概念と対象、別の一つは他者に向く存在と律自の存在の、いずれもがここで取り組むとする「知る活動」に紛れ込んでいる事情を、理性 (我々)は心しておく。その意味するところは、理性は検査の場に己の基準も、個人思考をも持ち込む余地はない。なすべきはその反対で、それら(理性の基準、思考など)を検査から引き離すことでモノの律自性及び覚自性(実質)の理解に近づく。

Hyppolite:Le savoir phénoménal ayant en lui l'opposition du sujet et de l'objet, de la certitude et de la vérité, peut procéder lui-même à son propre examen, et cet examen se nomme expérience. On notera la réversibilité des termes de l'opposition.
現象の知は主体と対象、すなわち蓋然性certitudeと真理の向き合いを抱えている。よって自身内部で知としての本来の検査を遂行できる。この検査を経験(弁証法)と言う。上記対立(主体と対象)は裏表逆立も想定される。これを私は注目したい。
部族民:引用文で留意する2点。1は節目においての調査に1(概念と対象)と2他者に向く…のいずれもが融和して「紛れ込む」。もう一点が「知る活動=拙訳」の実態。Hyppoliteはを現象の知と明確にしている。その正体を「certitude蓋然」と定義する。
実質を現象化する過程の「不確実さ」、正しいかもしれないが間違いもあり得る、を意味する。さらには主体客体の逆立もあると指摘する。現象の知がモノ真理の対象になってしまう、なぜなら概念を具有するのはモノであるから。知る活動の振幅乱れの実態を表している。
2点目: « tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir » 知る活動に紛れ込む、この句こそヘーゲル思想の転換点を暗示する。これまでの説明では、精神活動は現象の野(認識connaissance)で展開する、しかし知と悟性の内部に対立が入り込む(落ち込む)、これは両の内部に弁証法機構が備わり、モノ真理に向かう進展が生ずると言っている。結果は「理性には弁証活動に入り込む余地はない」につながる(後文で詳述)。
悟性の分析 « la conscience est d'un côté conscience de l'objet, d'un autre côté conscience de soi-même : elle est conscience de ce qui lui est le vrai et conscience de son savoir de cette vérité. Puisque tous les deux sont pour elle, elle est elle-même leur comparaison » (74頁)

悟性の一側面は対象(モノ)に向く悟性であり、もう一方の側面は己を知る悟性である。言い換えると己にとっての真実の悟性であり、真実を知ろうとする自身の知の悟性である。二通りの(悟性のあり方)は悟性のためであり、悟性はその2通りを比較する自身である。
部族民:前文の知内部の2面性(蓋然性と真理=Hyppolite)と同様の2面性を悟性にも向ける。悟性はモノを見つめる(対象の悟性、上訳文)、内なる精神作用から真理を探る悟性。前者はモノ世界を探る。後者は現象の野に活動する(de ce qui lui est le vraiは現象内部での活動、de son savoir de cette vérité がモノ世界に目を向ける悟性)。対立し逆立も有りうる悟性、弁証法が精神内部にせめぐ。


« Quand la conscience trouve donc dans son objet que son savoir ne correspond pas à cet objet, l'objet non plus ne résiste pas ; ou la mesure de l'examen se change si ce dont elle devait être la mesure ne subsiste pas au cours de l 'examen ; et l'examen n 'est pas seulement un examen du savoir, mais aussi un examen de son unité de mesure* » (75頁)
悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象が一致しない、対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなっている、あるいはこの検査は知の検査ではなく、基準の一体(摺り合わせから判断まで)の見直しにつながる。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上の了(11月14日)
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暇なネットオタクに読んでもらいたい、どうでもいい話、読み切り

2024年11月12日 | 小説
(2024年11月12日)山本由伸投手(MLBドジャーズ)の活躍振りをYoutubeで見ている。素晴らしい投球に目が画面に釘付け。2024年のPSでの活躍は4試合出場2勝0敗、球団のワールドシリーズ制覇に貢献した。

(昔の話)部族民(渡来部)が留学していた頃、山本クンと友人になった。彼をオレの学校仲間にヤマモトだと紹介すると、真ん前の女子生がクスッと笑った。なんで笑われるかオレ分かんなかった。山本クンは「また笑われた」慣れた様子だが、その理由を知るまでに至ってない。自分から「なぜ笑うのか」と問い質すのも億劫であるからか。そこでオレ

Tu as eu un petit air de sourire, pourquoi ? 笑ったよね、なぜ。
Geneviève女子生の名前。Parce que…, yamamoto  なぜってヤマモト
横にいたPaul が qu’a capoté と受け止めた。あわせて « yamamoto qu’a capoté » ヤマモトカカポテ。 


ヤマモトカカポテ


こっちがド軍エース山本由伸

写真はネットから

オレ、この意味が全く掴めなかった。山本クンは「また来た」と怪訝な不満顔、彼にも分かっていないようだ。Genevièveが種明かししてくれた。
« C’est une locution vulgaire, dans la parole sociale on dira... » 卑語の言い回しね、正しくはこう言う 
横のPaulが « Il y a ma moto qui a capoté » このひっくり返った私のオートバイ。
理解できなかった理由、

その1 Il y aをY aと短縮する喋り方。
2仲間内、あるいは卑語ではquiは用いられない。Queに取って代わる、a(過去を表す動詞)が後ろなのでqu’aに変換した。

3 capoterひっくり返るも知らなかった。Robert辞書に入ると無印、あまり遣われない(あるいは用いてはならない、特に文章に)。
この種の語彙、変則な遣い回しのフランス語はカネを払って(アテネフランセ授業料)、労力(予習復習、カバン下げての通学)注いで習得する類に入らない。正反の意味では、美しくもないこんなフランス語を自在に振り回す東洋人がやってきて、授業なんかについて行けなかったら « Certainement on se moque de moi » オレ、きっと誰からも相手にされないよーに陥る。 
Genevièveはcapoter の意味も教えてくれた。すべてに合点がいったオレは、笑いの状況を要約して山本クンに伝えた。それなりに納得した彼は、しかし相好を崩すには至らずしかめっ面を戻さなかった。

反れるがGeneviève、彼女はオレにいたく親切だった。その素振りも見せてくれたが、オレには合わなかったからそこまでで終わった。

以上がヤマモト単話のどうでも良い内容。了


 

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