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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit Certitude部のまとめ

2025年02月22日 | 小説
(2025年2月22日)本文の第一章 Conscience悟性その第一部はLA CERTITUDE SENSIBLE, OU LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界)Jean Hyppolite訳による仏語版から。

(当ブログ及びYoutubeに投稿されたLa Certitude sensible (感じる蓋然) 1月23日から4回のまとめです)

本章を理解する3の鍵語から入る ; 1Certitude sensible感じる蓋然 2Immédiat即座 Médiation 介在 3Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)
1 Certitude:定訳は確実、必然。これらには定量性の含意が強い。蓋然は(定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近い。悟性に宿る精神作用で、モノを観察(感じるsensible)する際に発動する。Certitude語義には主体か客体かが不定であるが、本稿では主体とする。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する(cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. Page81. この蓋然=モノを即座に見る=の見方では抽象的かつ貧しい真実しか求められない=後述)。介在はモノに(必ず)付属する「属性」(ヘーゲルは属性の語は用いていないが)。「Maintenant est la nuit今は夜」は真実である。しかしその真実は、瞬時に、朝を迎え否定される。見えるがままではなく、実質と介在を分離し、「夜」は介在であり、それが朝になって否定される。否定されるのは介在であり、介在は肯定されて後には否定される。
3 介在を否定肯定する過程がモノの普遍universel。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueを観察する。この弁証法を、蓋然として取り入れなければ、モノの真実を掴めない。


Youtubeのサムネイル


さて、この部ではモノ世界がどのように運動し、ヒトがその様を如何に観察すべきかを記している。モノは実質essenceと介在médiationで構成される。実質にはヒトが接近できない上、それを直感的に(即座immédiat)捉えたところで「貧弱な真理」しか得られない。介在は肯定され否定される。(この例に「今は夜」を挙げて、朝になったら介在の夜は否定され、今は朝となる。その朝も瞬時に否定される)
この肯定否定の流れを普遍universelとする。普遍を掴む精神作用をcertitude sensible感じる蓋然という。この蓋然に目覚め、モノ世界の経験expérience=弁証法を体得することで絶対知に近づく。いくつかの文節を引用する。

即座でモノ世界を捉える誤り ; « Le savoir est notre objet ne peut être rien d'autre que celui qui est lui-même savoir immédiat, savoir de l'immédiat ou de l’étant. (La phénoménologie de l’Esprit Conscience章 81頁).
拙訳:知ること、これが我々(理性)の目的であり、即座の知であり存在するモノをあるがまま知として受け入れ、何かに置換する試みなど廃し、他のいかなる受け止めから独立して、この理解を尊重するのである。
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).

しかし「この蓋然」(感じる蓋然とは別の即座性)は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内を単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけ。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない。

個(conscience)が感じる蓋然を得る仕組み ; « j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。
モノに介在は付帯する。その介在カラ蓋然を学ぶ。
上記の仕組みが今回(中)で明かされる。精神現象の野で悟性が対象を取り込み、(蓋然の作用を帯びながら)モノを理解する流れとなる; « Dans cette certitude, un moment est posé comme ce qui simplement et immédiatement est, ou comme l'essence, c'est l'objet »

蓋然の中に一つの要素(moment前投稿では節目)が置かれた。それは単純にかつ即座的に、実質としての対象である(この思考が哲学的)。
ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit Certitude部のまとめ 

上の了(2月22日)


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ヘーゲル精神現象学 感じる蓋然章 下の2(本章の最終回)Youtube投稿 

2025年02月18日 | 小説

(2025年2月18日)感じる蓋然の4回目、最終回となります。モノ世界での否定肯定の活動、そこに普遍をみつけるヒトの悟性。ただし、感じる蓋然を自己に取り込まなければ、悟性はこの普遍を知ることはできない。ヘーゲルは異なる用語「感じる悟性」を持ち出します。こちらを「哲学的」悟性とも語ります。この悟性は実質のみ知る、するとその観察では「否定を受けない」肯定、いうなれば瞬時の実質を見つめる悟性となる。その悟性は、一旦は「豊かな」認識を獲得したが、認識した時点でこの実質は風化している。豊かさが逃げ、貧弱な実質を抱えるーと指摘する。


Youtube用のサムナイル


感じる蓋然章の最終文節(本投稿)でヘーゲル指摘の注目すべき箇所について ;

否定・肯定の繰り返しで進展する(1~3の箇条を示す)モノ世界の運動(弁証法)。それぞれの節目でモノが判断し次の行為に乗り出す。すなわちモノは反照し節目を確認し、実行する。ヒト悟性はモノの運動を認識し、それとして受けいれる。「感じる蓋然」は「モノ世界の運動」そのもの(=本章)といえる。

弁証法主体はモノにあるとの主張です。マルクス歴史経済学を予言し、サルトル実存主義の魁を演じた一文を見つけた次第です。

動画Youtubeリンク https://youtu.be/J8-2YFGCLus
部族民通信サイトでの頁(Text中心)は https://tribesman.net/Hegelcetitude3.html

哲学頁は https://tribesman.net/philo.html
(哲学頁からは動画(HD解像)、PDF, 2分のシャクタン・ショート動画に接近できる)

部族民通信のホーム(Index頁)は https://tribesman.net/index.html
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ヘーゲル精神現象学 悟性感じる蓋然 Yourube下の投稿 案内

2025年02月09日 | 小説
(2025年2月9日)表記をYoutube に投稿しました。この動画(ヘーゲル精神現象学本文悟性Conscienceの章 第一部 感じる蓋然下)では「感じる蓋然性とはモノ世界の蓋然性=そうであるか、違うか」が精神に、機能として乗り移って、精神作用としてモノ世界の蓋然を理解するに至るー事を明らかにする。実質とはモノそのもの、その中身とは「これはこれ」「今は今」でしか無い。これをしてヘーゲルは最も貧相な中身とする。一方、モノに付属する介在は例えば「今は朝」の朝であり肯定されすぐさま否定される。この経験(弁証法)がモノの普遍である。悟性はそれを観想し、即座に判定する。


Youtbe巻頭のサムネ


モノ世界はこの普遍、弁証法、で運動していると教えてくれる。「今maintenant」の例の分解をヘーゲルは続ける。今が朝、昼、夜に変遷する。これはモノ世界が朝を否定し、昼を肯定するからであり、ヒトも「感じる蓋然」の精神作用でこの変遷を、取り込む。« la certitude sensible fait en elle-même l'expérience de la même dialectique » (悟性内の)感じる蓋然が(モノ世界と)同じ弁証法を体現する。モノ世界は自律して弁証法を展開するモノ世界優位を表している。
(感じる蓋然下を通貫して動画にすると長すぎるので今回は下_1とした。10分ほどの尺、幾頁は既出なので先飛ばしすると5分もかからず、ヘーゲル弁証法のシンズイが理解できちゃう。下_2は一両日中に)了
このYoutube動画リンク https://youtu.be/mmM2TwRIvCA
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(哲学頁からは動画(HD解像)、PDF, 2分のシャクタン・ショート動画に接近できる)
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3万人の埋葬地バビ・ヤール

2025年02月01日 | 小説
(2025年2月1日)約3万4,000人のユダヤ人がバビ・ヤール(ウクラナ、キエフ近郊)で殺害される(1941年9月29日〜30日)。3万人規模の埋葬地の写真がとある本に掲載されている。

 
バビ・ヤールの巨大埋葬地


下はネット採取


見られる通り、広大な窪地(埋葬跡地)。写真の人影はソ連軍兵士。ナチスドイツがユダヤ人3万数千人を虐殺(銃殺)し、谷窪地に埋めた事実は、現地住民には知られていた。しかしドイツ軍占領下ではその事実など口にも出せない。彼ら、ユダヤ人ではないウクライナ人ですら、理由なく殺戮されていた時代だったから(書ブラッドランドBlood Landから)、誰もが押し黙ったままだった。ウクライナがソ連に回復された後、ソ連軍が当該地を掘削し、人数分の遺体を回収した。その地を平坦にした時点での撮影(遺骸はみえない)。

虐殺の様相は:ドイツ軍がキエフのユダヤ人居住者に対し、キエフの郊外に移住するためメルニク通りに集まるよう命令します。バビ・ヤール命令どおりに集まった人たちは、メルニク通りをユダヤ人墓地の方向に向かわされ、バビ・ヤールと呼ばれる峡谷まで連れて行かれます。ユダヤ人はそこで、貴重品を引き渡して衣服を脱ぎ、少人数のグループに分かれて峡谷内に移動するよう強制され、ドイツの虐殺部隊とウクライナの補助部隊によって銃殺されます。この大虐殺は2日間続き、約3万4,000人のユダヤ人が男女、子供を問わず殺害されます。(ホロコースト・ミュージアムの日本語版ホームページから引用)

驚くのはこの広大さです。たとえは悪いが、後楽園球場が4万人の満員になって、彼らに寝てもらっても球場フィールドでは収容できない。この写真の奥行きを、人物の縮小具合の目測で計ると300メートルはありそう。これが3万人です。

30万人だったらどれほどになるのか。この10倍、あるいはこれほどの埋葬地を計10箇所設けなければならない。バビ・ヤールでは全住民が虐殺と埋葬を知っていた。南京ではその気配はなかった。日本軍が撤収してすぐさま、解放軍が墓を暴いた―なる話は聞いていない。
30万人が消えるはずはない、住民に見つからない方法で巧妙に、どっかの山の中にでも隠したのか。その山すら見つかっていない。それとも捏造の虐殺だったのか。


ネタ元はドイツロシアの世紀1900~2200 出版は白水社


(ネット以外の二葉の写真は日野市図書館の許可を得て、同館内で館員の立会のもと撮影した。館員には3万人の埋葬地の規模を伝える貴重な世界史的資料なのでSNSに投稿する旨は伝えている。これらから著作権のへの抵触はないと考えている。部族民通信)
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ヘーゲル精神現象学 悟性感じる蓋然 Yourube中の投稿

2025年01月28日 | 小説
(2025年1月28日)導入章に引き続き本文をYoutube紹介しています。 本文第一回(上、1月21日)では「感じる蓋然Certitude Sensible」なる概念を導入している。
Certitudeは主体か客体かが分かりにくい語である。本稿で弁証法の原初(始まる前)ではモノに取り憑く客体、すなわちモノの曖昧さを意味し、弁証法が始まるとその蓋然性は主体側、すなわち悟性に憑依しその精神作用として蠢く。
これは奇妙な言い回しです、しかし主意を噛みしめると、さもありなんと納得してしまう。いかにもヘーゲルらしい高等な修辞を駆使しています。例証に「今maintenant」と「ここici」と採り上げる。今は夜の言葉は一聴して、真実と思えてしまう。これが即座の理解で「最も貧しい真理」しかもたらさない。なぜなら昼になったら朝は瓦解する。


Hyppoliteもヘーゲルは2段ロケットだとお墨付き


今が実質、夜は介在で普遍を演出する

モノ表象の中に「実質=変わらない真実」、それに付帯する「普遍=否定と介在で変化する」を見極めなければ、真理にたどり着けないと教える。「ここ」についても木と家を論法に使い、実質と普遍を分離している。

この介在否定を体得するには「感じる蓋然」を悟性が採り込むのだとヘーゲル先生は我々愚衆を、オット失礼、愚は私だけです、叱咤激励する。

以上が2段ロケットの最終段での精神現象です。

動画で用いられるPDFは部族民通信ホームサイト
www.tribesman.net で接近できる

本動画のYoutubeリンクhttps://youtu.be/DulOyVtfx6o  了(1月28日)
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ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE 下

2025年01月23日 | 小説

本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) の紹介

(2025年1月23日)上引用文(前回22日の最終行、感じる蓋然は見えるがままのモノ理解をもっぱらとする)で留意すべきは2点 ;

1 悟性がモノ世界を見る、モノは「豊かな認識」として映し出される。ここでの覚知作用は「即座immédiat」。対象を「存在そのものétant」として認識する。
2 上記1の結論は「モノは形状を持つ、それは永遠無限、非溶解。時空と自己の形状に」制限はかからない。
これがモノ世界を見つめるヒトに共通した精神です。しかし…
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).
しかしこの蓋然は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内をただ単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけとなる。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない(としか覚知していない)。


Hyppolite先生の遺影。本書を未だ読みかけですが、解釈にあたり先生の脚注には助けられている。そもそもヘーゲルは一人独行で読んでも解明できない。一つ二つの文言の「ゲーゲル的」意味付けを掴み難い。そこで頁下部に目を下ろすと、脚注が解説してくれている。

部族民:3の引用文で本章主題のすべてが出揃った。
1 「単にそんなモノ」とは時空に存在し、個(牾性)に即座に覚知されているにしか過ぎない。この即座はモノが時空の中で進行変遷する、この真理を掴めない。別の意味では「今、見えているモノ」には真理が備わらない。モノ変遷のカラクリ(弁証法)に悟性が気づいていない。
2 (行外に)モノ世界は弁証法に統治される(前回9月25日~の導入章の紹介投稿)。モノを永遠として氷結固定するモノ理解は蓋然certitudeに「貧しい真実」のみを反映させるだけである。

« Le Moi n'a pas la signification d'un représenter ou d'un penser des moments divers, et la chose n'a pas la signification d'une multitude de caractères distincts ; mais la chose est, et elle est seulement parce qu'elle est. Elle est ; c'est là pour le savoir sensible l'essentiel, et ce pur être ou cette simple immédiateté constitue la vérité de la chose. La certitude également, en tant que rapport, est un pur rapport immédiat. La conscience est moi, rien de plus, un pur celui-ci. Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » (同)
私(大文字の私、悟性ではなくモノを見ている私)には、いろいろな時間軸、節目(moments)を思考し表現する意味合い(能力)はない。モノにしても種々性質の集成である身の内は見えない。モノはそこにただ存在するだけ。存在するからそこに在る。知にはそれは実質である。純粋な存在、あるいは純粋な即座がモノの真実を決めている(と早とちりする=訳者)。蓋然にしても(モノ世界との)交信は純粋「即座」に制御されている。悟性とは私、純粋(単純)な「この者」である。個別性は純粋(単純)なこのモノを理解するし、それが個別であると知る。
部族民:悟性は「純粋な即座性 cette simple immédiateté」を持ってモノを取り込む。モノが見えるがまま、真理としてしまう、Certitude蓋然の起点です。しかしここに誤りが宿る。最後の句 « Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » 個別性は純粋なこのモノを理解…は「個別的悟性は純粋な個別のモノしか理解しない、なぜならCertitudeは即座理解をもっぱらとするから」と読みます。Purを純粋と訳したが、日本語の「前向き語感」はフランス語のpurには必ずしも含意されない。Immédiat即座の言い換えなので「単純」が正訳であろう。

« Mais dans ce pur être qui constitue l'essence de cette certitude, et qu'elle énonce comme sa vérité, il y a encore bien autre chose en jeu, si nous regardons bien. Une certitude sensible effectivement réelle n'est pas seulement cette pure immédiateté, mais est encore un exemple de celle-ci et de ce qu'il y a en jeu » (同)
しかしこの単純存在がこの蓋然の実質となっているし、この単純が己の真理と蓋然は強弁している。正しく観察すれば、組をなす別のモノがある。感じる蓋然(la certitude sensible)の実効的実際は、単純な即座判断のみではないと気づく。これ(単純な即座)の傍証(exemple) ながら、伴うとある組の存在に気づく。

(原文引用なし)このあとこの純粋存在に脇にある組が見えている。それは「その者」の個と存在の表象である対象。この差異(純粋存在に対峙して「個」と「対象」の組が居座ること)ーを省察すると、個も対象も即座immédiatementに蓋然に取り込まれてはいない。介在médiationを受けている (médiatisé) と理解に至る 。
« j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。

部族民:悟性がモノ対象を見る、見えるそのものを概念化する、これをImmédiateté即座性とする。モノには介在が備わる、その介在の例「今は夜」を後述する。対象の即座性を受け入れてそれを概念化すると表象としての即座になる、しかし時(場)の変遷でこの単純真実は破れる。久遠の、永遠地平の真実はない=前述=につながる。

ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界 了

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本部族民サイト www.tribesman.net パワーポイントのPDF、及び動画
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ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE 上

2025年01月22日 | 小説
(2025年1月22日)ヘーゲル精神現象学を仏語Hyppolite訳から紹介しています。昨年12月までは導入章(Introduction) でした。今回から本文に入ります。第一章は悟性、その第一部は「LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界)の題名が冠されます。 

前文:前回のヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Espritの連続投稿(2024年9月~12月)で導入章Introductionを採りあげた。理性の目的は絶対知Savoir absoluを得ることに尽きる。ヒト思考運動は現精神象であるから、モノ実質には接触できない。理性は自身の内に現象の野を広げ、モノ実質、絶対知に迫らむとする。今回、本文に入り(第一章Conscience悟性)では思考の仕組み、特に悟性内部の思考の展開(前回で思考は2段ロケットとした、今回はその2段目に当たる)を解説する。

鍵語 1 Certitude sensible感じる蓋然 2 Immédiat即座 Médiation 介在 3 Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)

1 Certitudeの定訳は確実、必然など。これらには定量的確実性(99%か?)の含意が強い。蓋然は(推定するけどそれが真実か分からない)定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近いと思う。「あり得るかな、無いかな」の精神作用でモノを観察(感じるsensible)を言う。実現する確率数値とは関係を持たない。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する。介在はモノに(必ず)付属する属性。ヘーゲルは「今は夜」なる真実には「夜」が介在している、この介在は不定との観点から論を広げる。
3 否定肯定する過程がモノの真実。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueがモノの本質。この弁証法原理を、蓋然として取り入れなければ、真実を掴めない。

以下本文に入る;

« Le savoir, qui d'abord ou immédiatement est notre objet ne peut être rien d'autre que celui qui est lui-même savoir immédiat, savoir de l'immédiat ou de l’étant. Nous devons nous comporter à son égard d'une façon non moins immédiate, ou accueillir ce savoir comme il s'offre, sans l'altérer en rien et bien laisser cette appréhension indépendante de toute conception » (La phénoménologie de l’Esprit Conscience章 81頁).
拙訳:知ること、これが第一にかつすぐさまに我々(理性)の目的であり、即座の知であり存在するモノへの知でもある。理性は少なからぬ即断をもって存在モノに当たる。あるがまま知として受け入れ、何かに置換する試みなど廃し、他のいかなる受け止めから独立して、この理解を尊重するのである。

« Le contenu concret de la certitude sensible la fait apparaitre immédiatement comme la connaissance la plus riche, comme une connaissance, certes, d'une richesse à ce point infinie qu'on n 'en peut trouver aucune limite, ni en extension, dans l 'espace et dans le temps où elle se déploie, ni en pénétration, dans le fragment extrait de cette plénitude par division. Cette connaissance apparaît, en outre, comme la plus vraie ; car elle n'a encore rien écarté de l’objet, mais l'a devant soi dans toute sa plénitude. » (同)


SNS投稿に当たり作成した資料の一部

感じる蓋然(la certitude sensible)の具体的内実がこの独立した理解を、豊かな認識として現出するに至る。その認識とは時間空間にいかなる限界もないうえ、細分され破砕に溶け入る展開の様など見せない。さらには最たる真実として認識に現れる。なぜならこの真実は対象から離れていない、対象を見えるがまま、横溢さで自の前においているから。
部族民(蕃神ハカミ義男、以下同じ):本章の主題は牾性conscience、その働き方。牾性が外界モノ世界を理解する精神作用がcertitude sensible、これを「感じる蓋然」と訳した。Certitudeなる語は、主体客体の両用が可能となるという理解しにくい側面を持つ。 客体としての使用では「確実なモノ」との意味合いになろうが、本稿では「主体」として精神内に動く蓋然、として用いられる。

精神が理解しようとするモノ世界とは「そうかも知れない、そうでないかも」不確実が残る。これをして蓋然と訳した。またHyppoliteは脚注で « La certitude sensible vise … » と動詞を続けているから主体とほのめかしているので安心した。(最初の一読では客体。モノの蓋然と想定したら、分けワカメで沈没した)了(1月22日)



部族民から:本来は当ブログに投稿した後、youtube、ホームサイトに掲載するを心がけていますが。今回はそれらの後になっています。動画、パワーポイント(PDF) は以下のサイトで確認できます。

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ヘーへーゲル精神現象学Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE SENSIBLE Youtube投稿

2025年01月21日 | 小説
ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI
(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) 上

(2025年1月21日)Youtube動画はまだ当ブログには投稿していません。明日から(上下)で投稿します。

前回のヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Espritの連続投稿(2024年9月~12月)で導入章Introductionを採りあげた。理性の目的は絶対知Savoir absoluを得ることに尽きる。ヒト思考運動は現精神象であるから、モノ実質には接触できない。理性は自身の内に現象の野を広げ、モノ実質、絶対知に迫らむとする。今回、本文に入り(第一章Conscience悟性)では思考の仕組み、特に悟性内部の思考の展開(前回で思考は2段ロケットとした、今回はその2段目に当たる)を解説する。
鍵語 1 Certitude sensible感じる蓋然 2 Immédiat即座 Médiation 介在 3 Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)


3の鍵語と解説


1 Certitudeの定訳は確実、必然など。これらには定量的確実性(99%か?)の含意が強い。蓋然は(推定するけどそれが真実か分からない)定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近いと思う。「あり得るかな、無いかな」の精神作用でモノを観察(感じるsensible)を言う。実現する確率数値とは関係を持たない。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する。介在はモノに(必ず)付属する属性。ヘーゲルは「今は夜」なる真実には「夜」が介在している、この介在は不定との観点から論を広げる。
3 否定肯定する過程がモノの真実。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueがモノの本質。この弁証法原理を、蓋然として取り入れなければ、真実を掴めない。


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美智子さまの歌集ゆふすげ

2025年01月17日 | 小説
(2025年1月17日)アマゾンに予約していた、美智子さま歌集、書名は「ゆふすげ」出版岩波、が本日、発売日に届きました。
この報告と心に響いた一首を、引用させていただきます。

母逝きて十年近く父病めば
    我が立つ苑の冬枯れさびし(平成9年)

(本投稿は部族民が懇意させていただくS氏ご令閨からの電話連絡を文字起こしました、16時40分)


本書

帯の拡大写真
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Hyppolite、ラカンに哲学を...のYoutube案内

2025年01月14日 | 小説
(2025年1月14日)Hyppolite、ラカンに哲学を...は本年1月9、11日に本ブログに投稿した。その内容をパワーポイントに落とし動画作成し、Youtubeに投稿しました。リンクは最後列に。

Youtube 概要欄の紹介文を下に;

ジャック・ラカン(精神分析学1901~81年)は著作を残していない。セミナーを開催して速記録が残った。弟子ミレールが編纂し1970年代から出版され,全19冊が刊行された。その2巻目、日付は1955年1月12日、セミナーに参加していたHyppolite(ドイツ観念論、とくにヘーゲルの仏語圏への紹介者。部族民通信は彼の仏語訳になる「精神現象学」を昨年9月からYoutube投稿している)とラカンのやり取りを、本動画で「肩のこり」をほぐすために投稿する。


ラカン、セミナーで熱弁を振るう(1955年1月)ネットから採取

Hyppoliteの発言は教訓です;
1ヘーゲルは様々に解釈されている。ハイデッガーの解釈もありうる(彼とヘーゲルの思想は真逆ですが) 2各自各様の解釈ながらその骨子は畢竟、絶対知savoir absoluは誰なのか、何なのかーに尽きる 3ここで自説を開陳するHyppolite。絶対知は弁証法のすべての局面に「潜在immanent」している。弁証法が究極にある特異点に収斂するのは、絶対知があらゆる節目momentに浸透しているからだよ~
4 Hyppoliteはナポレオンを例に挙げる。ナポレオンのイエナ入城、目撃したヘーゲルは「世界精神が馬に乗っている」と感激した。世界精神とは絶対知です、ヒトの歴史の究極にナポレオンが馬に乗って現れた、ヘーゲルは自説の正しさが眼の前に行軍する様を確認した。
最終の5は:ヘーゲル思想は「絶対知も世界精神もモノ世界に存在する。あらゆる節目(弁証法の肯定・否定・統合)は絶対知に支配される。弁証法は宇宙を究極に特異点で収斂する」。でもこれってマルクスです。サルトルもこんなこと言っていた。 
ナポレオンとヘーゲルの邂逅、この「世界史的出来事」を視覚化した絵画も引用し本動画をまとめた。

本動画リンク https://youtu.be/RaDZlz6n-qE

なお部族民通信HP www.tribesman.net に訪問すればパワーポイントのPDF版が参照できます(14日12時以降)

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