京都府の南の端の山々は奈良東大寺の裏山になる。この辺り一帯を当尾(とおの・とうのお)の里と呼ばれている。
この里山の中には、大小の寺院が多く建てられ、同時に塔(三重塔・十三重塔・石塔・五輪塔など)も建立された。それで山の尾根に塔が建ち並ぶ場所であるので尾根の尾と塔で、塔尾と呼ばれていたが、現在では当尾と書くという。
鄙びた山村の間を縫うように、石仏めぐりの道がついている。石仏は里全体では30体を数える。
これらの石仏には銘のあるものが多い。
その代表的なものがこの不動明王である。眼をむく憤怒の像であるが一願不動とも呼ばれる。一つだけ、一心にお願いすればかなえてくれると言うので、お参りの人が戸絶えることがない、
少し歩くと、ねむり仏のお地蔵様。首だけの地蔵は、体が土中に深く埋まって眠っているのであろう。
通称笑い仏と呼ばれ、もっともよく知られている。阿弥陀三尊のどれもが笑っており、拝観していく人たちの心を慰めてくれる。
巨岩に彫られた二体の石仏は、直角の方向に掘られている。
カラスは唐巣と書き、岩の上面が平らになった中央に、穴が穿ってありちょうど壷が埋まっているような石造物がある。この辺りの土地を呼んで「カラスの壷」と言います。
バス停もある村の交差点で、愛宕神社の参道沿いに当たる。火袋が素朴で楽しい。
この里山の中には、大小の寺院が多く建てられ、同時に塔(三重塔・十三重塔・石塔・五輪塔など)も建立された。それで山の尾根に塔が建ち並ぶ場所であるので尾根の尾と塔で、塔尾と呼ばれていたが、現在では当尾と書くという。
鄙びた山村の間を縫うように、石仏めぐりの道がついている。石仏は里全体では30体を数える。
これらの石仏には銘のあるものが多い。
その代表的なものがこの不動明王である。眼をむく憤怒の像であるが一願不動とも呼ばれる。一つだけ、一心にお願いすればかなえてくれると言うので、お参りの人が戸絶えることがない、
少し歩くと、ねむり仏のお地蔵様。首だけの地蔵は、体が土中に深く埋まって眠っているのであろう。
通称笑い仏と呼ばれ、もっともよく知られている。阿弥陀三尊のどれもが笑っており、拝観していく人たちの心を慰めてくれる。
巨岩に彫られた二体の石仏は、直角の方向に掘られている。
カラスは唐巣と書き、岩の上面が平らになった中央に、穴が穿ってありちょうど壷が埋まっているような石造物がある。この辺りの土地を呼んで「カラスの壷」と言います。
バス停もある村の交差点で、愛宕神社の参道沿いに当たる。火袋が素朴で楽しい。
こういう所に石仏がたくさんあるなんて
なんだか素敵ですね
特に「眠り仏」がいいなぁ
きっと近所の方が大切にされてるんでしょうね
ここ浄瑠璃寺から岩船寺までのハイキングコースが、当尾の里の中にあって、銘の入った石仏が点々と並んでいます。
鎌倉時代の制作である事などが判明しています。
それぞれが味があって、人気のコースになっています。
眠っているのが楽しいですね。
それと、道の途中に屋台があって、近くの農家の人たちが、自分の畑の産物をビニールの袋に入れます。ホックスフェイスをはじめ花や野菜や山の幸がぶら下がっています。
無人なので、代金100円玉を横の缶の中に入れて勝手に持っていくのが、また楽しみになっているようです。
良いものを見させていただきました。
信心は思い入れでもあるものと思い
ます。
冒頭の写真の風情が何とも良いです。
そして、数々の仏の良いこと..。
幾代にも渡り、たくさんの帰依する
者を生み出したものだと思います。
ここは京都府とはいえ、奈良の文化です。素朴な飾り気のない文化の中に存続する石仏たちでしょうね。
宗教と言う意識がなくても、あの世でも生きかえることを願う輪廻の考えでしょうね。
自分の死後がどうなるかを恐れ、死の恐怖が原点にあったと思いますがどうなんでしょうか。
宗教が人の生きる道を通して、一般の世間の道徳規律になっていたかも。
わらい仏。
少し傾いてて、なんだか雲に乗ってゆらゆら、
心が曇った時に大丈夫だよーと、来てくれそうです。
旅のロマンを愛するYukiさんですね。旅情をそそる所は、見逃しませんね。
訪れる度に、足の衰えを感じる里です。
今回貰った資料でわかりましたが、石仏など30くらいあるそうですね。