若狭の国から、南に向う狭い谷の奥まったところに愛発村はある。峠を越えると近江国から都へと通じる街道になる。
飛鳥時代から奈良時代まであったという愛発の関は、桓武天皇AD789年に廃止され、現在では位置も特定できなくなっている。
疋田は「ひきだ」と読むが、JRの駅も新疋田駅である。ここには疋田船川に沿って船便があったという。
この地区には城址がある。戦国時代に越前を抑えていた朝倉氏は、西方の護りとしてこの国境の地に城を築いていた。
城は信長によって2回落城し、廃城になったものである。
戦国の世に、織田信長は越前の朝倉氏を攻めたが、近江の浅井氏が背後を襲い、信長は前田利家ら数名とともに、都へ逃げ帰った。
それがこの道から、朽木谷を通り、都へ帰ったのではないかと思うと、歴史のロマンを感じます。もっと西から朽木谷に出たかも知れませんが…。
この時の越前攻めで城は落ちている。
次の落城は、再び織田信長の越前に向った時だった。落城してからは廃城になり、放置されて約400年である。
朝倉方の将、疋壇(ひきだん)氏が築いたという。
天主はなかったと思うが、高台に館があった場所です。草木の茂る高台は、兵どもが夢の跡です。
傍を北陸本線がカタカタと音を響かせながら走ります。騒音も自然の中へ吸収されてしまいます。
カラスが来るのは、もっと寒さが来てからかも。
飛鳥時代から奈良時代まであったという愛発の関は、桓武天皇AD789年に廃止され、現在では位置も特定できなくなっている。
疋田は「ひきだ」と読むが、JRの駅も新疋田駅である。ここには疋田船川に沿って船便があったという。
この地区には城址がある。戦国時代に越前を抑えていた朝倉氏は、西方の護りとしてこの国境の地に城を築いていた。
城は信長によって2回落城し、廃城になったものである。
戦国の世に、織田信長は越前の朝倉氏を攻めたが、近江の浅井氏が背後を襲い、信長は前田利家ら数名とともに、都へ逃げ帰った。
それがこの道から、朽木谷を通り、都へ帰ったのではないかと思うと、歴史のロマンを感じます。もっと西から朽木谷に出たかも知れませんが…。
この時の越前攻めで城は落ちている。
次の落城は、再び織田信長の越前に向った時だった。落城してからは廃城になり、放置されて約400年である。
朝倉方の将、疋壇(ひきだん)氏が築いたという。
天主はなかったと思うが、高台に館があった場所です。草木の茂る高台は、兵どもが夢の跡です。
傍を北陸本線がカタカタと音を響かせながら走ります。騒音も自然の中へ吸収されてしまいます。
カラスが来るのは、もっと寒さが来てからかも。
この様な小さな城跡にもいろんなドラマがあるんですね
真っ赤な柿の木が綺麗です
鳥の餌場になりそうですね
越前朝倉、北近江の浅井。どちらも
大勢力を持つか強兵を備えた戦国大
名ですね。姉川の合戦に勝利した
信長は後々北上。ついに越後上杉軍
との戦いに至りますが、さすがに脇
に甲斐武田がいますので、深入りは
できなかったようですね。
此処の村は古代から、日本海から近江に出る廻廊だったことでしょう。宿場町だったでしょうか。
そのたびに、多くの人の運命が変わり、多くの犠牲が出ます。 一体何のために…。権力欲でしょうか、物欲でしょうか。
愛発の村も翻弄されながら、明治まで生き延びていますね。強い。