奈良から東へ山中の道を辿って約15kmほどの谷あいに、ひっそりとした隠れ里で僅かな平地に柳生の里がある。あと10kmも行けば三重県境になる。
知行2000石の地方の豪族である。新陰流で名を馳せた柳生一族の故郷である。城があるでもなく、豊かな産物があるわけでもない。剣一筋に生きた人たちの鄙びた里である。後になって12000余石となった。
砦のような物が出来ていたであろう。石舟斎は柳生宗厳(むねよし)の号である。剣客上泉秀綱に新陰流を学び、柳生新陰流の剣術の祖になった。戦国時代は松永久秀に属したが、最後は徳川に仕えた。
この丘の台地は小さな山里の見通しが利く場所にある。
さらに一段高くに屋敷になっていたであろう敷地が広がる
現在、芳徳禅寺という寺になっている。
屋敷内の図があるが、手作りで、すっきりしたものだ。
屋敷の本堂の裏手には前栽がある。禅とは名ばかりの枯山水。
紅葉が目立つ風景は、正面からの風景とは違い、素朴な自然のままである。
知行2000石の地方の豪族である。新陰流で名を馳せた柳生一族の故郷である。城があるでもなく、豊かな産物があるわけでもない。剣一筋に生きた人たちの鄙びた里である。後になって12000余石となった。
砦のような物が出来ていたであろう。石舟斎は柳生宗厳(むねよし)の号である。剣客上泉秀綱に新陰流を学び、柳生新陰流の剣術の祖になった。戦国時代は松永久秀に属したが、最後は徳川に仕えた。
この丘の台地は小さな山里の見通しが利く場所にある。
さらに一段高くに屋敷になっていたであろう敷地が広がる
現在、芳徳禅寺という寺になっている。
屋敷内の図があるが、手作りで、すっきりしたものだ。
屋敷の本堂の裏手には前栽がある。禅とは名ばかりの枯山水。
紅葉が目立つ風景は、正面からの風景とは違い、素朴な自然のままである。