『ゲド戦記』、映画館で観ました。
無数の島から出来たアースシーでは、様々な異変が起こり始めていた。聖なる
生き物である竜が共食いを始め、家畜は疫病に倒れ、農民は田畑を捨て、
職人は技を忘れていく。世界の均衡を崩すものの正体をつきとめる旅に出た
大賢人ゲドは、国を捨てた王子アレンと出会う‥‥。
この作品を、“監督・宮崎駿”で観てみたかった気持ちは勿論‥‥ある。ただ、
もしも、“監督・宮崎駿”だったら、これほど分かり易くて直接的にテーマが
伝わる映画になったかどうか‥‥。最近の『ハウル』や『千と千尋』を観ても
チョットこねくり回し過ぎ、詰め込み過ぎの印象は抜けきれず、観ていてどうも
窮屈に感じちゃう。で、この『ゲド戦記』はといえば、近年の宮崎作品の特徴
でもある“難解さ”を全部取っ払って、新人監督が自由な発想から“シンプルさ”に
拘(こだわ)って、チャレンジしているのが伝わってくる。例えば、映画中盤、
ヒロインを野原に一人立たせて、アカペラの曲をほとんどフルコーラスで
歌わせる。その澄み切った歌声は、この病んだ世界に響き渡るように、ボクの
心にも染みてくる。こういうのって、小難しい理論とか理屈じゃない、むしろ、
テクニックに溺れちゃうと出来ない部分だと思うんだ。ボクは思わずその場面に
引き込まれてしまったし、同時に「自分自身が如何に薄汚れてしまったのか」を
感じ取ることが出来た。当然ながら、父・宮崎駿と比べればまだまだ足らない
ところもあるとは思うが、“初監督作”ということを考慮すれば、及第点は
楽々クリアして、「良く出来ました」の判は押してもいいとボクは思うけどね。
まぁ、とはいうものの、映画を観ていてどうもスッキリしない点もちらほら。
まず、大きな所の疑問点は、主人公の少年が父を殺す理由がよく分からない。
自分がダメな人間で、父が偉大過ぎるから??、父が優れた王で、子より民の
事ばかり気に掛けるから??、うーん、それだけだとしたら少々弱い気もするし、
いや、それ以前に、何故主人公の心と身体が善悪に分かれてしまったのか??、
もう少し詳しく説明があっても良かったと思う。次に、ラストでヒロインが
〇〇〇だったというオチは、ある程度(原作を読んでない)ボクの中でも
想定の範囲内ではあったのだけど、そこでも何故?、どうして?、観る側には
釈然としない部分があるのではないか。更に、細かい部分では、映画の
プロローグで思わせ振りに出てきたキャラが、その後は一切登場しなかったり…。
結局のところ、原作のスケールがあまりにも壮大過ぎるために、2時間では
とてもまとめ切れずに、多くの説明不足が噴出してしまったように感じる。
それと、この内容だとタイトルにもある“戦記”にはなってないしね。
実は、このレビューを書き終わった今になってふと気付いたのだけど、
もしや、父が築いた王国で“自分の居場所が見つからない息子”が本作監督の
《宮崎吾郎》、その主人公である“息子に殺された偉大な父”が《宮崎駿》
と受け取れなくはないのか。常に“偉大な父”と比較される息子の苦しみ…、
常に「宮崎駿の息子」と呼ばれ、決して「宮崎吾郎」と呼ばれない者の悲しみ…、
宮崎吾郎は「宮崎吾郎」であって、「宮崎駿」ではない筈なのに(涙)。
物語のラストで、主人公が自分の“本当の名前”を呼ばれて、魔法の呪縛から
解き放たれるのは、きっとそういうことなのかもしれない。