監督: ベネット・ミラー
出演: フィリップ・シーモア・ホフマン, キャサリン・キーナー
『カポーティ』、観ました。
1959年11月、カンザス州で農家の一家4人が惨殺される事件が発生した。
その手口は家長は喉をかき切られ、他の者は手足を縛られた上、顔面を銃で
撃たれるという凄惨きわまりないものだった。小説「ティファニーで朝食を」で
作家としての名声を高めた男、トルーマン・カポーティは事件にショックを受けると
同時に、これを文章にしたいという欲求に駆られる‥‥。
観終わって一晩経つというのに余韻が消えない。こいつはしばらくオイラの
中で尾を引きそう。最近観た映画では最も衝撃的で、同時に心をかき乱された
内容だった。いや、それはトルーマン・カポーティの著書『冷血』が、実際に
あった惨殺事件を参考としたノンフィクション小説であったとか、その凶悪事件の
残虐性について言っているのではない。《自分の中に自分の知らない“もう一人の
自分”がいる…》。人間なら誰しもが併せ持つ“善と悪との二面性”。その“凶悪な
自分”をズバリと言い当てられた、そんな気がしたからだ。勿論、その存在に
気付きながらも、認めたくない、認めようとしないのは、オイラも同じ。オレの中に
“もう一人のオレ”がいる。“そいつ”は冷酷に薄ら笑いを浮かべながら、偽善の
仮面を被ったオレの様子を遠くの方からじっと窺(うかが)う。そして、“そいつ”は
何かの切欠(きっかけ)で目を覚まし、オレの意思とは離れたところで、人(相手)を
傷付けたくて仕方ないのだ。
さて、この映画を観た人ならば、あるひとつの事柄で共通し、必然的に浮かび
上がってくる構図がある。それは“静寂の中に潜む邪悪”だろう。名もなき静かな
村の一軒家で起こった一家惨殺事件。一方、その事件に惹かれ、のめり込んで
いくカポーティ。その彼もまた、事件の取材を続けていく過程で、犯人の一人に
“特別な感情”を抱きながらも、その反面で、男の死刑執行を今か今かと待ち望む
“邪悪な、もう一人の自分”に気付いていく。映画は、それに合わすように、全体を
“静かで洗練された映像”と、カポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの
“抑制された演技”で統一される。オレは見掛けとは違う、その内に潜む恐怖に
震撼し、《何か》に怯えながら、その後の主人公の行き先をそっと見守る、、、
‥‥と、ここまで書いた時、ふと我に返って、オレは自分で自分を苦笑する。
その惨劇と、その邪悪に憑(と)り付かれ、崩壊していくカポーティを見ながら、
ゾクゾクと胸の高鳴りを抑え切れないでいたのは、他ならぬ“オレ自身”では
あるまいか。今、やっと分かった…、その時、オレが怯えていた《何か》とは、
オレの体の中で確かに脈打つ“冷たい血”だったんだ。
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