写真の人物をご存知でしょうか。すでに30年ほど前の1975年、38歳で亡くなったルポライター、児玉隆也氏です。
マスコミに進みたいという高校生も多いですね。単に有名人に会えるからという他愛のないものから、いわゆるジャーナリズムの世界にあこがれる正統派まで、多くの人をひきつけます。私だってマスコミというのはどんな世界かのぞいてみたい気がします。
ただ、ロシアで 『プーチニズム』 を書いたアンナ・ポリトコフスカヤ氏は殺害されましたし、日本では、マスコミで大きな事件が報じられるたびに、ジャーナリストでなくても、繰り返し不可解な“自殺”があると、『日本がアルゼンチンタンゴを踊る日』 を書いたベンジャミンフルフォード氏は指摘するように、見かけ以上に複雑ですね。
また、衝撃を受けた一冊、『日経新聞の黒い霧(大塚将司)』 を読んでも、弱い立場にいる人間が権力者を告発するのは、いかに日本が民主国家だと言っても容易ではない、どころか首尾よく終えるのは極めて難しいとわかります。
本書で描かれるのは、それに挑戦した児玉隆也氏の短い人生です。ジャーナリズムにあこがれた一人で、必死の努力で、その夢がかない名声の頂点に近付く直前に、残念ながら病に倒れてしまった人物です。
彼は田中角栄に食いさがろうとし、志半ばで病に倒れてしまうのですが、筆者の坂上遼氏は児玉氏とは全く面識もない第三者。熱心な一ファンとして6年もかけて本書を書き上げたそうです。
児玉氏は戦中の極貧の環境下、8歳で父親を亡くすも、苦学をし早稲田大学を卒業。つてに頼って、工場での職をしている間に、記事などの投稿作品などが認められ、念願の出版業界に身を置くようになります。
父親が亡くなった時、棺が買えず、タンスを棺おけがわりに遺体を寝かし、大八車で火葬場へ運んだのは、まだ氏が小学校2年生の時のことです。そんな少年がやがて権力の隆盛を誇っていたあの田中角栄を追い詰める記事を書くようになっていったわけです。
その後数々のレポートやスクープなどが認められ、ついに編集長にまで上りつめますが、結局、その地位を捨て、フリーのジャーナリスト、いわゆるルポライターとして独立します。生活はどんなに苦しくとも自分の書きたいものが書きたいという信念です。
ところが独立したとたんに襲った病魔。ガンになってしまいます。今でこそ、ガンは誰でも口にする言葉ですが、当時ガンは隠さなくてはならない病気でした。家族やまわりの苦悩は深まりますが、本人はそれを知ったあと『ガン病棟の99日』という闘病記を出しました。日本で初めての“ガンの闘病記”だそうです。
死の直前、丸谷才一氏の推薦で、知の巨人、立花隆氏の“田中角栄研究”と児玉氏の“淋しき越山会の女王” がある賞を共同受賞し、もう大宅壮一の時代は終わったと指摘されたことがことの他うれしかったそうです。
ただし、正義感をふりかざしてばかりいたり、きれいごとだけを言っていたのでは、取材も進みません。冒頭で述べたように、どれほど美しい心や情熱があるからといっても、権力側はそうやすやすとスクープ価値のある情報が出て行くのを許しませんから、児玉氏の方もありとあらゆる手段を講じたようです。
筆者である坂上氏が、本書のために取材しているあいだも、あからさまな取材拒否や、児玉氏に批判的な反応がたくさんあったそうです。かつてのファンとしての複雑な感想も添えられています。
結局、取材した結果、そういうネガティブな内容も含めて、悲運の正義漢として持ち上げるのではなく、無念の天才ルポライターとして人間くさく書かれています。
実にさまざまな無念が描かれています。人生の師と仰ぐ三島由紀夫に最後の最後で認められなかった無念。
そして彼の死後、彼を題材にした映画とドラマができるはずだったのが、時の政治家のあからさまな圧力で流れてしまったのも無念でしょう。
どうりで “立花隆と双璧” 児玉隆也と言っても人が知らないはずです。
マスコミに行きたいという高校生には、一見華やかに見えるジャーナリストの活動の影に、さまざまな制約や大きな犠牲が伴っていることを知るのにも良い一冊だと思います。
やはり人生どこかでは、リスクをとる覚悟が必要。受験はその最初の経験かもね。その経験が人生に大きくプラスに働きますように!
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『無念は力 -伝説のルポライター児玉隆也の38年』坂上遼
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