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『ゆとりよりも夢を!衣の袖からエリート教育の鎧(よろい)が見える』 2002年 元旦

2005年08月10日 | コラム・備忘録
■■■ 2002年のコラムです ■■■


 2002年は日本の教育政策において、間違いなく歴史的大転換の年になるはずですが、依然先行き不透明なまま、いよいよゆとり教育元年を迎えます。 

 実は今回の指導要領改定において見落としてはならない点は、この制度が"ゆとり""生きる力"などの情緒的な言葉とは全く反対の、"エリート教育に対する国の資源の集中"を意図しているということです。

 大幅に指導内容を易しくするだけでなく、通知表を相対評価から絶対評価へ変更する(1や2をつける必要がなくなる)のですから、いわゆる落ちこぼれはどこからも見えなくなります。親はもちろん本人さえ気付かないでしょう。

 そうしておいてから文部科学省は、昨今の学力低下批判を見事に逆手にとった形で、各都道府県のいくつかの公立小中学校を対象にした「学力向上フロンティア構想」を、高校には「スーパーサイエンスハイスクール」などという構想を発表しました。

 様々なコーティングを施していますが、要するにこれらは紛れも無く"公費によって運営されるエリート養成校"なのです。国がエリートの育成を目指すこと自体は当然ですが、問題はそれ以外の圧倒的大多数の教育サービスを大幅に減らすことです。

 予算が足りないからといって公立一般校における30人学級すら拒否しておきながら、エリ-トには集中的に税金を投入するというとんでもない公教育が始まってしまうのです。

 今後公立高校の先生方は、3割削減した内容しか身につけていない新入生を、完全週休二日制の中でいったいどのように科目の増える大学入試(2004年)に対応させようというのか?

 このままでは通常の義務教育だけを受けた者は私立生と同じ土俵に上ることすらできません。私立校では御三家といわれる麻布、開成、武蔵をはじめ、多くの学校で今回の改訂にともなった週休二日の導入を拒否しています。

 しかし、本来なら逆に公立の先生方こそ、普通の生徒のために、自らの週休二日を固辞し、敢然と新指導要領反対の声を上げていただきたいのです。

 同時に、なぜ国公立大学が入試科目を増やすかといえば、特別な教育を受けたエリートだけが入学してくれれば良いということであり、また、大学の上位30校に重点的に予算配分するというトップ30政策もまさにその延長線上にあるという教育改革の全体像が見えてきます。

 より良いものに資源集中するためには犠牲者も出る、これではまるで企業におけるリストラと同じ構図です。

 世界中で自国民全体の学習レベルを下げるような改革をしているのは日本だけですが、少数のエリートが国を引っ張り、他の者はゆとりの生涯教育などという理想郷のような社会構造がはたして可能でしょうか?

 現状でさえ高卒の多くの若者は就職できず、スタートから社会参加の権利を奪われてしまっています。しかも国の天文学的な借金のため、今後、教育だけでなく年金、医療などのサービスもますます低下の一途をたどることは確実です。
 
 知識の偏在が貧富の格差につながり、更には社会階層の固定化へという歴史的流れは洋の東西を問いません。矜持を失った個人、ダイナミズムを失った社会が持つ自殺者の増加、治安の悪化という現象が既に身の回りで起きています。

 今こそ、すべての生徒に対して質の高い教育が求められていますが、残念なことに、かつて世界一優秀で勉強好きだった日本の子供は、いつの間にか先進国の中では学習時間が最も少なくなってしまいました。

 新指導要領の実施がそれに追い討ちをかけます。中学3年生の理数を例にとれば、授業数は概ねイギリスの6割、アメリカの半分、オーストリアの4割しかなくなり、学校は年間165日も休みになるのですから。

 皮肉なことに"ゆとり教育"によって、エリートに向けた受験競争は逆に激化し大学のランク付けはより明確になるでしょう。それに参加しない者に対しては十分な教育が保障されず休みばかりが増え、自ら学ぶ以外ないのです。

 大学を出れば生活が保証されるというわかりやすい時代はとっくに終わっており、ただでさえ社会全体が勉強の動機付けを見つけにくくなってしまっています。そこにこのエリート教育が持ち込まれれば更なる混乱は必至です。

 学校でますます勉強しなくなってしまう子供たちを学習へといざなうためには、大人自身が学ぶ姿を見せるしかありません。今の時代のつけを子供の将来にまわすことをやめ、ともに学び努力する者として、世代間の信頼関係を築き、価値観を共有することが不可欠です。

 今の子供が自ら学ぶために必要なものは、曖昧で情動的なゆとりなどではなく、学習の中から生まれるもっと具体的な個々の生きがいであり、夢であると信じます。