原爆忌 げんばくき 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日長崎市にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。(合本俳句歳時記新版 角川書店)
週刊朝日創刊50周年記念
朝日新聞でみる世相50年(朝日新聞社1972)
1945年6月10日空襲による爆撃を身をもって体験した。しかし、何分65年もムカシの記憶であり、記憶違いや、明らかな誤りもないとは言えない。赦されよ。
町史には、次の様な記述がある。「昭和20年6月10日、B29、250キロ爆弾投下による被爆状況。
T海軍航空隊即ち予科練は、7、8割の施設が灰じんとなり、281名の尊き少年航空兵を失った。その他負傷者115名(病院収容後26名死亡)。当日は日曜日であったので、多くの父兄が遠方から予科練の子弟に面会に来ていたが、そのうち面会人の方の死亡13名、A地区台地の奥行300メートルほどの防空壕の入り口付近に爆弾が投下され壕がつぶれ、中に避難していた少年兵が右のような結果となったのである。
B29 250キロ爆弾及び焼夷弾投下による各被害状況。
○A地区
死者 13名
負傷者 多数
焼失家屋 集会所ほか15戸
付属家屋物置納屋約30棟
○T地区
直撃死亡 10名
直撃家屋 6棟
負傷者 10数名
大破焼失家屋 15棟
○A地区、T地区の爆弾穴跡200箇所以上に及ぶ
○H地区
死者 5名(内直撃弾にて家族4名死亡)
旧F村
S地区
死者 16名
負傷者 約15名
直撃全焼家屋 4棟
家屋半壊 60棟以上
F小学校は、直撃弾を受けたるも、日曜日のため学童不在、不幸中の幸であった。爆弾投下穴跡60箇所以上に及び、K湖に相当数落ちたらしい。
○T地区(F村)
死者 7名
負傷者 10数名
全焼全壊家屋 10数棟
殆どの家が大破した。
爆弾穴跡 96箇所
ボクは正直云って「沖縄慰霊の日」を全く忘れていた。朝日新聞コラム「天声人語」で、ゴルフの宮里藍さん(25)が米国ツアーで今季4勝目をあげ、世界ランクの首位に立った快挙を取り上げ、
▼世界一を育んだ「日本の亜熱帯」は観光資源でもある。米軍基地がなければ、大自然とリゾートの楽園だろう。そんな夢想を許さない、がんじがらめの現実の下で沖縄は「慰霊の日」を迎えた。本土防衛の捨て石が、20万の命と共に捨てられた日である▼65年を経て、島はなお爆音と硝煙の中にある。基地負担をどう軽くするかの算段は、日米合意で振り出しに戻った。沖縄言葉(うちなーぐち)で通じ合えるほどの関係を首相が築かない限り、普天間は動くまい。国政の関心は参院選に移り、昨日の党首討論も基地を掘り下げなかった▼沖縄タイムス紙上で、宮古島の詩人市原千佳子さんが嘆いていた。「日米共同声明は沖縄(日本)が今なお米占領下にあることを示した……我々の戦後はしつこい」と。米国とのしつこい交渉だけが、霊を慰める道である。
と記したのを読んで、「あ、今日は沖縄慰霊の日」を知ったのである。
沖縄戦から比べれば、わが村の爆撃の惨状などはその比ではあるまい。しかし、あの日(1945年6月10日)あのときの状況は町民として後世に伝えなくてはなるまいと思った。
残念ながら、今では町民も殆どこの日のあったことを忘れ去っている。「慰霊祭」と云えば過去の記録を捜して見ると、10月末町主催の「戦没者追悼式」が行われた記録がある。
謹啓
仲秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。
さて、先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民あげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、町戦没者追悼式下記により挙行いたします。
つきましては、ご多用中のところ誠に恐縮に存じますが、ご臨席賜りますようご案内申し上げます。 謹言
記
日時 平成 年月日 午前10時30分(9時30分受付開始・11時45分式典終了)
会場 町体育館
※準備の都合上 月 日までに、返信容葉書に出席の有無をご記入の上返送くださるようお願い申し上げます。
平成 年 月
町長 氏 名
尚、当日ご参列の際に、お手数ですが本紙をご持参下さるようお願い致します。
又、当日の服装は略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい。
この漱石全集は、全く招かざるお客さんであった。
正月次男が小生の部屋に持ち込んできて、そのままにしておいた。置き場がなかったからである。しかし、いつまでもべた置きで放っておいてはいけない呵責に苛まれてきた。
今日、やっと書架から雑本を持ちだし、席を漱石先生に譲った。
下段には、あまり漱石の作品を評価したくなさそうなD・キーンの著作を並べたが、特に他意はない。
但し三島由紀夫全集(新潮社1,000部限定版)や、鴎外全集(岩波書店37巻)とは別室とした。
「6月10日魔の90分」:屋口正一より(昭和25年8月9日撮影)
ボクはこれまで、六月十日という日に特別の想いを抱いてきた。弊ブログバックナンバーを検索してみたら、やはり同じタイトルで「六月十日」に関連するものが複数をかぞえることができる。
1945(昭和20)年6月10日午前、村は米空軍B29の約1時間、2波に亘る爆撃で、平穏だった村が一転して「屍の街」と化してしまったのである。
当時の報道機関は、(新聞とラジオ放送しかない)軍のきびしい管制下にあったのだろう、空襲の惨事は一般には伝わらなかった。
町史や、町教育委員会編纂による「町と予科練」、同好会文集などにも、この日の惨状体験の思い出話が何編も載せられているが、
当日は、「雲一つない快晴の日」であったり、「曇天」 であったりする。
また敵機についても、グラマンF6Fと、P51を艦載機として混同したり、カーチスP51と書いている例もあり、必ずしも正確でない。(ボクの記憶が確証とは言えないが…)。
半世以上経って、しかも高齢者の記憶であるからある程度ヤムを得ないことであろう。
平成7年8月15日、T中学校・T高等女学校 動員学徒の集い実行委員会の手によって編まれた文集「戦いのなかの青春」誌が手元にある。その中に、当時高等女学校4年生だったU.M子さんの『勤労動員学徒の日記抄』が載っている。
ちょうどボクとだいたい同じ世代であり、書かれてある環境もほぼ同じである。あの頃あこがれの的であった高女生の考え方が伺われ、ボクも青春に返ったような錯覚で一気に読んでしまった。
昭和20年3月卒業した私達は、4月2日(月曜日)から「国思隊」という名前で養成所へ行く事になり、皆で不平をいうとH中尉より怒られて全員森の中で
重大ないまの戦局をこんこんと聞かされて、泣きながらあきらめる。
今日から挙手の礼を練習して敬礼をさせられる事になった。
午後土運びをして疲れた。
(今思うと、女学校卒業したのに殆どのクラスメイトが動員されていたことが不思議に思われ当時の当時の身分はどうなっていたのでしょう)
昭和20年4月3日
山の上で木の株切りをした。ノコギリでギイコギイコひいてなかなか切れない。暑くて汗まみれなのに、欠席者が多いとH中尉に叱られる。
4月4日
雨で外仕事が出来ず、ヤスリかけをする。半分以上欠席で欠席者の家へ電話をかけろといわれ、Aさんと二人で庁舎へ行ってかけたが、記録なのでなかなか出なくて1人40分も待たされてしまい、H中尉に「明日友人の家を家庭訪問して連れて来い』と言われた。出ている人が怒られて悲しい。
4月6日
今日は溝掘り、廠長巡視が1時にあるというので、雨でも作業を休めず皆ずぶ濡れになってしまった。H中尉が後で焚き火をしてあたらせてくれた。
4月7日
今日も土建作業をしていたら10時空襲になり待避をしたが、この近くに壕がなく、山の中をウロウロしていた。午後材木運びをした。
4月15日
廠長訓示の後、第二工場からトタン運び。H学生(技術委託学生)が2度づつ運んだので「もうよいから帰れ」と言ってくれたのに、H中尉が「終わるまでやめてはダメだ」と6時迄やらされて腕が抜けそうだった。帰り真っ暗い夜道をお腹が空いてOさんの雑嚢に入っていた生のスルメを2枚もムシャムシャ食べながら歩いた。空にはOH中尉のアゴのような月が出ていた。「ガダルカナル戦詩集」を読んで寝る。
4月18日
小松(場所の名前)のところで材木運びをした。仕事は辛いがお国の為だ。お昼は道路脇の草の上で食べた。朝、母が作ってくれた蒸しパンを3人で分けて食べながら、映画「勝利の日まで」「跡に続くを信ず」の感想を話し合った。沖縄の戦局もだんだん不利になり、父母達はこの戦争は負けるかも知れないと心配しているが、私は必勝の信念を持って毎日をがんばっている。
5月23日
朝大雨でカッパ着て自転車で行くが、向かい風で雨が頭にかかって目が見えなくて困った。これが勝利への道と思うと、困難がむしろ楽しく感じられる。
5月29日
午前中空襲でB29が500機も来た。お昼頃空が真っ黒になった。横浜が燃えているらしい。その中、火の粉が、炭みたいのまで飛んできた。恐ろしい。
6月10日
朝6時空襲、近くの航空隊に爆弾が投下され、大きな響き、B29が次から次へ飛んでくる。10時解除になってもT駅の近くに憲兵が立っていて先に行かせてくれない。予科練に面会に来た家族もたくさん足止めされてお気の毒でした。
6月17日
若草工場でタイム取りをした、Aさんがグミを持ってきて。H学生に皆で甘いと嘘をいってすすめたので、本気で食べて怒った。串柿の配給あり。4円。
選挙の前哨戦の幕は、普段はさる宗教団体の推薦する政党の候補予定者のポスターから、切って落とされる。
参院戦ともなると、1つは都道府県単位の選挙区選挙で、個人に投票する選挙であり、242名の参議院議員のうち、146名が選挙区選挙で選ばれるそうな。
もう1つが比例代表選挙で、政党に所属していないと立候補できないらしいが、有権者は政党名で投票するか、立候補した人の名前で投票するか、自由に選択することができるという。
いざ選挙選になって、県内に氾濫する立て看板のうち、県内まんべんなく行き渡るには、後援会が強力な宗教団体の組織力であり、この政党の支持者はすさまじい底力を発揮することは言うまでもない。
弱小だと、ポスターの数も当然少なくなる。
そこへいくと、今回の選挙前哨戦の異変!今朝 隣村の友人の処に用件あり、出向いたら、
途中1キロの道中、このポスターが8件(枚)!も立っているではないか。
カメラに収めるのに車から降りて覗いたら、その宗教とは全く関係のない、かつて政権与党だったJ党から、一等先飛び出した猛者氏の創った政党の時局演説会のポスターだったのである。主催した隣市支部名が記されていた。
誰、それ?!何党!?
それば読者諸兄の賢明なご想像にお任せしたい。そんでわ。
主題を「平和の大切さ」と書き込んだだけで、何かきな臭い思いが先行してしまって本文の書き込みが全く先に進まなかった。
<当時の少年たちの憧れであり、予科練の代名詞といわれた制服 の「七つボタン」七つのテーマと空間とで構成された展示からは今と変わらぬ少年たちの青春群像に触れることができます。
そして尊い命と平和への認識をふかめることができます。>
この写真とともに、記念館開館案内チラシの中に書かれた解説である。
なんと、A4判1枚のチラシの中に、「命の尊さと平和の大切さ」という詞が3カ所に繰り返し述べられているのである。そればかりではない、町のH.Pをみても、新聞や町の広報誌にも、町長談話にも必ずこの「命の尊さ、平和の大切さ」が空念仏のように頻出する。
だが、その詞とは裏腹に、記念館内で気になったのは、少年らへの当時の美辞麗句、時として本質を覆い隠す美しい言葉が多いことだ。
まず玄関に入ると、正面大きなガラス窓に次のような言葉が刷りこまれてある。
< 予科練の少年たちは特別な少年ではなかった。
普通の少年で、強いて違っているところといえば、大空を愛し、
格別に飛行機が好きだったという位であったろうか。
彼らはあまりに純真であり、それ故には情にもろく
血と涙が多すぎる、そんな性格の少年が多かった。
そのような少年達が、困難に対して献身した、燃えた、
そして八割が戦死した。
倉町秋次という署名。
そして、その入り口のガラスを通して大きな写真が目に入るのは、昭和を代表する写真家、土門拳が土浦海軍航空隊で撮影したという予科練習生たちの写真だが、ここには陰鬱な隊内の様子は微塵も写っていない。
むしろ楽しそうな隊内生活が写し出されているではないか。
ボクは今このことを書きながら、平行して「きけ わだつみのこえー日本戦没学生の手記」を手元に置いていた。冒頭渡邊一夫が「感想」と題するまえがきがある。
…略。 初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、或る時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与へるようなことがあってはならぬといふのが、その理由であった。僕もそれは尤もだと思った。その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かへって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍暗黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思ひ、これら痛ましい若干の記録は、追ひつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考へた。そして、影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐へられないとも思ひ、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したやうな痛ましい記録を、更に痛ましくしたやうな言辞を戦前戦後に弄して、若い学徒を煽てあげてゐた人々が、現に平気で平和を享受してゐることを思ふ時、純真なるがまゝに、扇動の犠牲になり、しかも今は、白骨となってゐる学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。…略。
1、本會を「日本野鳥の會」と称し、鳥類に関する研究、鳥類愛護の思想普及を以て目的とす。
2、本會は其の目的を達成する為め左の事項を定む
イ、毎月1回雑誌「野鳥」を編輯し梓書房をして刊行せしむ
ロ、随時見学旅行、展覧会、講演会、談話會、撮影會等を開催して、会員相互の交詢親睦を図る。
3、本会の趣旨目的を賛成し、左記により会費を前納するものを以て会員とす
イ、普通会員 年額 5圓也
ロ、特別会員 一時金弐百圓也
4、本會は、雑誌「野鳥」の配布を受くると共に投稿の自由を有し、本會の主催する凡ての計画に対して特典を享受し得るものとす
5、本會の事務所を東京市杉並区井萩3ノ41、中西悟堂方に置く
だいたい、買った本を全部隅から隅まで読むなんてこと自体、下品なことなのだ。永江朗さんは、「本を最後まで読むのはアホである」(『「不良のための読書術』ちくま文庫、唐沢俊一さんは「古書は集めるためににあるものである。読むものではない!」(『古本マニヤ雑学ノート』ダイヤモンド社、のちに幻冬舎)、とそれぞれ名言を吐いている。これぞ、プロというものだ。(「古本でお散歩」ちくま文庫、岡崎武志)
序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから
かしこ
土屋 セツ子
1945年3月10日、18歳の私は弟2人と東京。向島の親類宅にいた。灯火管制の、真っ暗な2階窓から見た隅田川対岸の浅草は既に真っ赤。ひどく恐ろしくなり、弟と手をつなぎ東の葛飾方面に逃げることにした。
隅田川では、逃げ場を失い飛び込んで溺れた人が、水面を覆うように流れていた。煤けた顔で無表情に、ただ人の流れに沿い歩く被災者たち。背負ったわが子が既に焼死しているのも気付かず、あてもなく歩く女性も目にした。
家はすぐに全焼し、見渡す限り焼け野原。家が焼けると何も感じなくなるのか、焼夷弾が雨のように落ちる中をただ歩いた。死体は道に幾重にも重なっていた。
6歳の頃、両親を失い、兄は招集で戦地に赴いていた。疎開先もない私たちは都内の親類の家をさまよい続けた。
兄は数年後、シベリア抑留後に帰ってきたが、私も兄も互いの苦労を言わぬまま時は過ぎた。兄は昨年旅立った。
梶山君は自分でなにからなにまでやらねば済まない独裁者だったので、他人のまかすことは出来なかった。野党に金を渡す場合も自分一人で渡す。ところが、小沢君は必ず人を介すか、立ち合わせて金を渡す。この差は大きい。小沢方式では証人がいるので、あとでもらっていないとトボけられない。
野党の宮沢内閣不信任あんの提出を、梶山幹事長が押さえられなかったのは、金の渡し方が下手だったということが大きい。
この辺りのところでも、小沢君のほうが梶山君より金の使い方が一枚上手である。