江戸時代には、「四大飢饉」をはじめとして、35回もの深刻な飢饉が発生したという。
その理由は、「マウンダー極小期」という太陽活動の低下によって、地殻変動、火山噴火、小氷期による冷害が続いたからである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%A5%B5%E5%B0%8F%E6%9C%9F
家康が江戸幕府を開闢し、歴史上もっとも強固な安定政権を樹立してまもなく、1645年~1715年(犯罪が激増し、大岡忠相の全盛期)に、太陽黒点が著しく減少し、太陽磁気活動が弱まったことで、異常気象による冷害が続けて起きた。
マウンダー極小期中の30年間に、観測された黒点数は、約50を数えるだけであった。通常であれば4 - 5万個程度が発生する。
太陽からのエネルギーが減少し、地球のオゾン層に到達して吸収される紫外線が減ったことで、寒冷化をもたらしたのである。
マウンダー極小期は中世における寒冷期の遠因であり、この時期のヨーロッパ、北米大陸、その他の温帯地域において冬は著しい酷寒に震え、暦の上では夏至であっても夏らしさが訪れない年が続いた。
http://brandnew-japan.info/archives/565
北半球平均気温は極小期の前後と比べて0.1 - 0.2度低下したのではないかとされている。特徴としては、晴天率が減り、肌寒い降雨が異常に増えた。
飢えのあまり人肉も…江戸時代「天明の飢饉」の原因や死者数とは?
https://cherish-media.jp/posts/11029
江戸時代に起きた4大飢饉。
〇寛永の大飢饉(1642~1643)
◎享保の大飢饉(1732)
◎天明の大飢饉(1782~1787)
◎天保の大飢饉(1833~1839)
江戸時代で最も規模が大きかったのは「天明の大飢饉」、265年続いた江戸時代のうち、天明の年号が使われたのは西暦1781~1788年の8年間。
第10代将軍・徳川家治(1737~1786)在任期間は1760年から亡くなる1786年まで。
・田沼意次が老中として政治改革を行ったことで知られる。
天明年間には、冷害にとどまらず、大規模な自然災害が連続した。
1つ目の災害は岩木山の噴火 1783(天明3)年4月、
2つ目の災害は浅間山の噴火 1783(天明3)年8月、
当時の浅間山は5月から噴火活動が続いており、江戸にも火山灰が降ったという記録があった。その中でも8月に起きた大爆発が川をふさぎ、洪水となって多くの村が壊滅しました。
参考、浅間の噴火で、前世は生贄人柱として命を捧げた少女、渋川村のタエだった。
https://www.youtube.com/watch?v=oAxrBq6C3nQ&t=2837s&ab_channel=%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E5%8B%9D%E5%B7%B3
東京・葛飾区に設置されている「浅間山噴火川流溺死者供養碑」。利根川や江戸川の下流までも大洪水で被害を受けたことが記されている。
東北北部の岩木山と関東甲信越の浅間山で起きた2件の噴火は成層圏にまで上昇した二酸化硫黄ガスによって日射量を減らし、多くの地域に冷害となって襲い掛かかった。
特に間に挟まれた東北地方は深刻で、10年ほど前から起きていた冷害に追い打ちをかけられた。
http://naoko-graz.blog.jp
岩木山・浅間山の噴火とほぼ同時期の1783年6月に、アイスランドのラキ火山とグリムスヴォトンが相次いで噴火した。
この噴火は、火山ガスが成層圏に上がって日照を遮る苛酷噴火となり、ヨーロッパに厳冬・洪水・干ばつなどの異常気象をもたらし、フランス革命の原因に挙げられている。
気温低下により、アイスランド人口の1/5に当たる餓死者を出す地獄絵図になった。
「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」と呼ばれる三大改革があったが、享保と寛政の間に「田沼時代」と書かれた年表もある。
「年号+改革」とは呼ばれなかった田沼意次の政治改革。その政策がなぜ天明の大飢饉を生む原因となったのか?
田沼は、10代将軍徳川家治の老中として政治改革に着手。経済発展のため「重商主義」と呼ばれる商業中心の政策を行い、商業を農業よりも優先させた。
その結果、農業を放棄した農民が続出し農村部の荒廃が深刻化。そこに異常気象と火山の噴火によって東北をはじめとする大凶作が起こった。
杉田玄白(1733~1817)
江戸時代中期の医者(蘭学医)で「解体新書」「蘭学事始」の著者として知られる杉田玄白は、「後見草」という著の中で天明の大飢饉の惨状に触れている。
『次第に食べ物は尽きて、果ては草木の根や葉まで食糧となるものは食べないということはなかった。』
『貧しい者は生産する術がなく、家族を見捨てて彷徨い物乞いとなった。しかし、行く先々も飢饉だったので日に千人二千人の流民たちは餓死していた。』
『農村から出ていくことができない者たちは、食べられる物を全て食べつくし、死者の人肉を切り取って食べていた』
『子供の首を切り、頭の皮を剥いで火に炙り、脳みそと草木の根葉と一緒に炊いて食べた者もいた』
『ある人の話では、陸奥のなんとかという橋の下で人の死骸を切り裂き、人肉をカゴに入れている人がいた。何に使うのか訊いたところ、草木の葉と混ぜて犬の肉と言って売るのだと言う。』
「後見草」に書かれたように死者の肉だけでなく生きていた子供を殺してまで人肉を食べるしかなかった状況は、「極限状態に追い込まれた動物の本能」が勝っていた。
中国の歴史では、人間は立派な食料と位置づけられていた。
地獄絵図…写真がなかった江戸時代に描かれた天明の大飢饉の絵
http://shibayan1954.blog101.fc2.com
下の画像は江戸時代の人口をグラフ化したもの。天明の大飢饉にあたる部分が日本全人口がどのように変化を与えたか見てみよう。
【天明の大飢饉直前】
1774(安永3)年:2599万人
1780(安永9)年:2601万人(6年間で2万人増加)
【大飢饉期間】
1786(天明6)年:2508万人(6年間で93万人減少)
【大飢饉終焉直後】
1792(寛政4)年:2489万人(6年間で19万人減少)
1798(寛政10)年:2547万人(6年間で58万人増加)
上の数字で大飢饉の影響がいかに大きいかが分かる。
直前6年で微増だった人口が、同じ6年という期間で一気に93万人、さらに次の6年も合わせると112万人も減っている

次の6年では一気に60万近い人口増加が起きていることからも、飢饉の凄まじさを感じ取れる。
天明の飢饉では、津軽藩などで人肉食の地獄絵図が展開されたのと対照的に、山形、米沢藩では、餓死者を一人も出さなかったといわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2
天明の大飢饉で鷹山の政策が活きたのは田沼意次とは反対に農地開発に力を入れたことと、藩で備蓄米をストックし、飢饉の際に民衆へ提供したことで死者が出なかった。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
東北地方で餓死者ゼロ!白河藩主は他の藩主と何が違った?
https://www.worldwide-transition.info
松平定信(1759~1829)
「寛政の改革」を主導した老中として有名だが、それ以前は白河藩(今の福島県白河市周辺)の藩主だった。
定信が老中として国政を担うようになったのは、天明の大飢饉で領内の一人も餓死者を出さなかったことを評価されてのことだといわれている。
松平定信が他の東北藩主と違ったのは、鷹山と同じく藩の備蓄米をしっかり管理していたこと。多くの藩主は藩や領民の備蓄米を江戸や大坂へ廻して財を確保したために大飢饉が来ても対処できる食糧がなかった。
定信は農業を重視し、いざという時に備えた慎重政策を採っていたために民衆の生命を救うことができた。
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英テムズ川が再び完全に凍結する?
https://ag-skin.com/daily/skinblog.cgi?mode=2&sn=5446
ジャルコヴァ教授は新モデルを使い、2030年に始まる第26太陽周期で、太陽の活動が著しく低下することを予測。記者会見で次のように説明した。「第26太陽周期で、2つの磁気波はまるで鏡に映されたように相殺しあい、(地球は)『マウンダー極小期』のような状況になると推測できる」。
この時期は、英テムズ川が完全に凍結したことでも知られる。米ニューヨーク市ではニューヨーク湾が凍って自由の女神やスタッテン島まで歩いていけた。またアイスランドは周囲が海氷に閉ざされたため、貿易や漁業に大きな被害がでた。飢饉に見舞われて人口がほぼ半分になったとの記録さえある。
世界の科学者達はすでに2015年にミニ氷河期が来ると警告している。
イギリスにあるノーザンブリア大学のバレンティーナ・ザーコバ教授はこのように伝えている。ザーコバ教授の予想だと、97%の確率でミニ氷河期は訪れる
マウンダー極小期は今回が初めてではなく、1645年から1715年までの70年間続いた。
この頃の日本では、寒さによる飢饉が発生し、農村では一揆が起こり、大変な凶作が続いた。
江戸時代のマウンダー極小期中の一揆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%8F%86
1652年(承応元年):小浜藩領承応元年一揆
1677年(延宝5年):郡上一揆(延宝)
1686年(貞享3年):貞享騒動(加助騒動)
1690年(元禄3年):山陰・坪谷村一揆
延宝2年(1674年)には5月中旬より晴天はなく3ヶ月もの期間、雨が降り続いた。太陽活動が弱まると曇りが多くなる。太陽の磁場で宇宙線が地球に入らない役割をしているが、マウンダー極小期では太陽活動が弱まり宇宙線が多く大気圏内を突破し、ミューオンという粒子の一部がイオン化され大気中で水滴になりやすい。
「小氷期」には世界中で飢饉が頻発し、人々の争いが各地で起こり、歴史は世界規模な混迷の時代に突入する。
マウンダー極小期終盤に日本では富士山の噴火も経験している。1707年12月16日(宝永4年)旧暦 11月23日 宝永大噴火、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火だった。
極小期に入る直前は、大規模な政変や新型コロナような出来事が多く起こるとも言われている。ザーコバ教授の計算によるとマウンダー極小期に入る確率は97%と予測されている。厳しい冬におよそ夏らしくない冷夏、夏のない年すらあったという。
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気候の巨大な変化は人心にも大きな影響を及ぼすといわれる。
例えば、日照量は、鬱を招き自殺者の数と関係がある。もっとも日照量の少ない地方が、もっとも自殺者が多くなるのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/doriki/diary/200606060000/
マウンダー極小期の再来は、確実に自殺ブームの到来を告げている。私でさえ、間質性肺炎が悪化して呼吸が苦しかった日々は、毎日自殺することばかり考えていた。
ただ、私に嫌がらせをしてきたた人間に復讐することを希望として生き抜いたのだ。もっとも、呼吸が改善してからも報復心が収まらないのは、宇宙で二番目に悪い霊性進化の星に生きているせいだろうか?
これから、冷害による食料不足、飢餓、核攻撃と放射能汚染、フクイチ放射能被曝による発癌、巨大震災など、およそ考えられるあらゆる苦難が我々を待ち構えている。
ウクライナの人々の運命を他人事と考えるな。それは我々の運命だ。天明飢饉が過去の風化したドラマと考えるな。それは、これから再びやってくる。
我々は、江戸時代の人と違って、鍬一本での開墾さえできない。自分で作物を育てたことがないから、どうやれば食料を生産できるのか、知らない者が大半だ。
自動コンロの使い方を知っていても、竈や囲炉裏での火のおこし方さえ知らない。だが、戦争が大きくなれば、確実に生活インフラが破壊され、食料も消える。
このままでは、天明時代と同じように、野山や街角に餓死者の遺体が散乱し、それを片付ける者さえいないという惨状がやってくる。
どうやって寒気に耐え凌ぐのか? どうやって食料を得るのか? どうやって飲料水を確保するのか?
インフラが崩壊させられたなら、原始的な生活しか残されていない。
どうやって寒冷化に耐え、生き抜くのか? 詳細なシュミレーションを繰り返すことしか生き延びる手段がなくなる時代だと、覚悟すべきなのだ。