私がコンピュータに縁を持ったのは、1980年前後で、最初に購入したのがシャープMZ80だった。当時は、パックマンのような素朴なゲームと、BASICで作業用のプログラムを作って計算機代わりに使う程度だったが、次にNEC98ノートを購入してから、たくさんの文章をワープロとして作り、さらに初期のパソコン通信にも使った。
以来、現在に至るまで十数台のパソコンを使ってきた。もっとも多い使用法は、ネットでの情報収集とワープロでの文書作成だった。
もう40年以上もパソコンで文書を作ってきたので、ペンを使っての手書き文書作りが極めて不得手になってしまい、たまにペン入力すると、おそろしく文字が下手になっていることを思い知らされる。
また、ワープロはATOKを使っているので、変換効率が良いのはいいが、頼り切ってしまうので、漢字を忘れることおびただしい。
しかし30歳くらいまで、日本はコンピュータ社会ではなかったので、子供時代、若者時代は、すべてアナログ文書システムであり、認識の基礎がアナログになっていて、私の頭の中は、基本的にアナログ日本語でできている。
ただ、書かないことによるペン入力の劣化が深刻なだけだ。
劣化といえば、かなり前にNHKクロゲンで放映された番組で、プラントオペレータたちの日本語劣化ぶりが凄くて、オペレータの若者が漢字マニュアルを読めないという報道番組があった。(さすがにネット上で番組を発見できなかった)
なんで、こうなるかといえば、理工系のカリキュラムでは、もっぱら計算とプログラム管理ばかりになってしまい、「マニュアルを理解する」という文系の行程が軽視されるようになっているからだ。
この番組が放映された頃は、バリバリの反原発活動家だったので、原発運転員が漢字マニュアルを読めず、運転操作について不十分な理解しかないとすれば、とても恐ろしいことだと思った。
そして、それは311フクイチ事故のプロセスで、運転員たちが、たくさんの警報のなかで何をしてよいか分からなくなり、適切な対策ができなかったという報告を見て、当時の予感が正しかったことを知った。
社会のコンピュータ化というのが、人類史における発展の必然という視点からは、避けて通ることのできない事象であるとは思うが、それによって、人間が何を得て、代わりに何を失ってゆくのかを正しく把握することは、「持続可能な未来」を考える上で、絶対に必要な作業だ。
コンピュータ問題を簡単にいうと、膨大な知識・記憶の集積が、瞬時に問題の解答を見つけて教えてくれるというものがコンピュータの本質であるとするなら、それがもたらす反作用は、我々が脳味噌を働かせて苦労しながら長い時間をかけて回答を見つける不便な作業が不用になり忘れ去られてゆくことだ。
人間社会は、一つのものを得れば、必ず一つのものを失うというのが弁証法的本質である。
人間は苦労することで、はじめて得られるもの、苦労しなければ得られないものをたくさん持っている。コンピュータが我々の思考を代理してくれるなら、我々は思考のプロセスを失ってゆくのは当然のことなのだ。
現代の我々が、老化のなかで、コンピュータのなかった昔よりも激しく認知能力が劣化し、多くの人々が認知症を患ってゆく理由のなかに、社会のコンピュータ化がないはずがない。
私は、コンピュータ導入当初、プログラムを自作しなければ、ほとんど何もできなかったことで、これは人間の能力を開拓する上で有効なアイテムだと思ったのだが、その後、ありとあらゆる便利プログラムが登場して、自分でプログラムを作る必要がほぼなくなった。
そればかりか、OSでも、私が理解し掌握できたのはMSDOS3程度までで、WINDOWSが登場してからは、まるでチンプンカンプンに複雑化し、コンピュータを支配し使いこなすことが不可能になった。
そして、気づいてみれば、私はコンピュータに支配され、使われている自分を発見することになった。
コンピュータに対し没主体的にさせられた我々の社会は、やがてAI社会と称するオーウェルが73年前に予言した超管理社会へと移行しようとしている。
http://www.news-digest.co.uk/news/features/18977-dystopia-and-george-orwells-1984-70th-anniversary.html
この管理社会では、人間の主体性が強く規制され、何もかもプログラム通りに行動することを権力によって強要される社会になっている。
こんなビジョンは、独裁権力にとって夢のような魅力的な社会であり、世界の独裁権力が、こぞってAI管理社会の導入に夢中になっている。
世界の独裁権力を牽引する中国共産党は、「雄安新区」という超管理スーパーシティを実際に建設して、まるで「プリズナー6」のような生活が実現している。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm1874091
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo&ab_channel=TOKYOMX
もちろん日本でも、ダボス会議主催者に名を連ねる竹中平蔵が「スーパーシティ構想」の名の下で、淡路島にそんな管理社会を実現することを推進している。
これは、ダボス会議の「グレートリセット」構想のなかに組み込まれた独裁権力社会のビジョンだ。これを提唱したのは、「ワクチンで人口調節」を提起している原発推進のビルゲイツとアルゴアだ。
もしも、竹中やビルゲイツの思惑どおりに、コンピュータAIによる超監視社会=スーパーシティが実現したなら、人類に何がもたらさせるのか? 我々はしっかりと理解しなければ、とてつもない恐ろしい未来が待っていると私は思う。
だが、「グレートリセット」という虚構は、GAFAMという巨大な経済利害勢力にとって、桁違いの凄まじい利権をもたらすため、人間社会のコミュニケーションを牛耳っているGAFAMが、反対意見を抑圧し、押しつぶしながら強行していることにより、恐ろしいほどの勢いで社会を変えつつあることを知らねばならない。
ビルゲイツやアルゴアの推進している原発電気システム(リニアやEV車が典型だ)など、私のように反対意見を言おうものなら、たちまち、ツイッターやフェイスブックなどのメディアから追放され、ブログでも、ヤフーは無断削除し、FC2でも、グーグル検索から意図的に外されるという事態になっている。
政府権力GAFAMに都合の悪い情報は、徹底的に排除され隠蔽されているのだ。
こんな視点で、ウソのない未来予測をする必要があるのだが、これから我々の社会で何が起きるのか、2018年ではあるが、一定の予測をした本が世に出た。
竹中平蔵は「90歳まで我々を働かせる」と言っているのだが、権力者の傲慢な思惑にもかかわらず、我々の未来は実に悲惨で不安定なものだ。
日本をじわじわ蝕んでいる「静かなる有事」に気づいてますか 2043年、ついにこの国は… 2018年5月8日
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55466
街は高齢者だらけ
日本が少子高齢社会にあることは、誰もが知る「常識」である。だが、自分の身の回りでこれから起きることをわかっている日本人は、いったいどれくらいいるだろうか?
日本は劇的に変わっていく。例えば、25年後の2043年の社会を覗いてみよう。
年間出生数は現在の4分の3の71万7000人に減る。すでに出生届ゼロという自治体が誕生しているが、地域によっては小中学校がすべて廃校となり、災害時の避難所設営に困るところが出始める。
20〜64歳の働き手世代は、2015年から1818万8000人も減る。社員を集められないことによる廃業が相次ぎ、ベテラン社員ばかりとなった企業ではマンネリ続きで、新たなヒット商品がなかなか生まれない。
高齢化率(総人口に占める65歳以上人口の割合)は36・4%にまで進む。高齢者の数が増えるのもさることながら、80代以上の「高齢化した高齢者」で、しかも「独り暮らし」という人が多数を占める。
こうした高齢者が街中に溢れる社会とは、一体どんな様子だろうか?
いま、東京や大阪といった大都会では、ラッシュアワーには5分と待たずに電車やバスがやってくる。なぜ、そんな過密ダイヤで運行できるのかといえば、乗客の大多数が人の流れについていける「若い世代」だからだ。
たまに、杖をついた高齢者が、駅員の手を借りて乗降する場面に出くわす。ただ、それはあくまで少数派であり、駅員の手際よい作業でそんなに多くの待ち時間を要するわけではない。
しかし、2043年とは、総人口の7人に1人が80歳以上という社会だ。独り暮らしであるがゆえに否応なしに外出する機会は増えるが、若い世代の「流れ」についていける人ばかりではない。こんな過密ダイヤはとても続けられない。
80代ともなれば、動作は緩慢になり、判断力も鈍る人が増える。こうした高齢者が一度に電車やバスを利用するのだから、駅員は乗降のサポートに追われ、ダイヤ乱れなど日常茶飯事となるのだ。
新幹線や飛行機だって同じだ。現在でも空港の保安検査場に長い列ができているが、機内への移動も含め、スムーズな移動は年々期待できなくなる──。
残念ながら、皆さんが生きている間は、人口減少や少子高齢化が止まらない。過去の少子化の影響で、今後は子供を産むことのできる若い女性が激減していくためだ。
人口減少のスピードは凄まじい。国立社会保障・人口問題研究所(以下、社人研)の推計によれば、2015年の国勢調査で約1億2700万人を数えた総人口は、わずか40年後には9000万人を下回り、100年も経たずして5000万人ほどに減少する。
われわれは、極めて〝特異な時代〟を生きているのである。
ただ、こうした数字を漫然と追いかけ、社会の変化を大くくりに把握していたのでは、少子高齢化や人口減少問題の実像はつかめない。ましてや、それが自分の暮らしにどう関わってくるのかを理解できないだろう。
それでは、いつまで経っても真の危機意識が醸成されないではないか。もっと、リアリティーをもって、「未来」を想像する力が求められている。
人間というのは〝不都合な真実〟に直面したとき、往々にして見て見ぬふりをするものだ。それどころか、気休めにもならない楽観的なデータをかき集めて、〝不都合な真実〟を否定しようとする人さえ出てくる。
皆さんは、「ダチョウの平和」という言葉をご存じだろうか?
危険が差し迫ると頭を穴の中に突っ込んで現実を見ないようにする様を指した比喩だ(実際のダチョウの習性とは異なるとの指摘もあるようだが)。日々の変化を把握しづらい人口減少問題こそ、この「ダチョウの平和」に陥りがちな難題である。
それは切迫感が乏しいぶん、どこか人ごととなりやすい。何から手を付けてよいのか分からず、現実逃避をしている間にも、状況は時々刻々と悪くなっていく。そして、多くの人がそれを具体的にイメージできたときには、すでに手遅れとなってしまう──。
どこかズレている
「ダチョウの平和」ですぐ思い起こすのが、他ならぬ安倍晋三首相の発言である。
2017年10月の総選挙に際して行った記者会見で、少子高齢化を「国難とも呼ぶべき事態」と位置づけ、突如として、増税される消費税の使途変更を宣言した。
国の舵取り役たる総理大臣の言葉は重い。首相の発言を耳にした私は、「ようやく、少子高齢化への対応に本腰で取り組むことにしたのか」と期待を抱かずにはいられなかった。
だが、それが全くの「ぬか喜び」であったことを思い知らされるのに、多くの時間を要しなかった。
安倍首相の口から続けて飛び出した対策が、幼児教育・保育、高等教育の無償化だったからである。「国難」と大上段に構えた割には、スケールがあまりに小さい。スケールの大小だけでなく、「どこかズレている」と感じた人も多かったのではないだろうか。
深刻な少子化にある日本においては、子育て世代が抱える不安を解消しなければならない。だから、教育・保育の無償化について、「全く無意味だ」などというつもりはない。
だがしかし、今後の日本社会では高齢者が激増する一方で、少子化が止まる予兆がない。このままでは勤労世代が大きく減り、社会システムが機能麻痺に陥る。日本という国自体が無くなってしまうことが懸念されるからこそ、「国難」なのである。
その対応には、ダイナミックな社会の作り替えが不可避だ。私が首相に期待したのは、人口が激減する中にあっても「豊かさ」を維持するための方策であり、国民の反発が避けられない不人気な政策に対し、真正面から理解を求める姿であった。
「具体的な変化」に置き換える
「ズレ」は、首相や議員だけでなく、イノベーション(技術革新)や技術開発の現場にも見つかる。少子高齢化に伴う勤労世代の減少対策として、人工知能(AI)やロボットなどに期待が高まっているが、開発者たちは本当に少子高齢社会の先を見据えているだろうか?
その典型が、話題の超高精細映像システム「8K」だ。鮮明な画像で楽しみたいと心待ちにする人も少なくないだろう。「8K」技術そのものに、ケチをつけるつもりは毛頭ない。むしろ、厳しい開発競争に打ち勝った技術者たちの努力には賞賛の拍手を送りたい。
ただし、超高齢社会を睨んだとき、追い求めている技術が果たして、超高精細映像システムでよいのかが疑問なのである。今後どんなにクリアな画像を実現したとしても、老眼鏡ではせっかくの性能を楽しめない。
高齢者たちが求めているのは高画質ではなく、むしろ「音」にある。耳が遠くなり、ボリュームを大きくしてテレビを見ている人は多い。聞き取りやすい小型スピーカーを搭載したテレビを安く手に入れたいという声は少なくないはずだ。
技術開発とは、社会の課題克服のためにある。ならば、開発者たちは高齢者のニーズをもっと聞くべきであろう。
「ズレ」といえば、最近普及してきたインターネット通信販売(以下、ネット通販)もそうだ。〝買い物難民〟対策の切り札の如くに語る人も少なくない。
だが、ちょっと待っていただきたい。ネット通販が本当に切り札と言えるのだろうか?
荷物を運ぶ人手は少子化に伴って減りゆく。〝買い物難民〟対策だと言って普及させればさせるほど需要が掘り起こされ、トラックドライバー不足はより深刻になる。
無人のトラックが走り回る時代も遠くないとされるが、トラック自らが荷棚から個別のお届け物をより分け、重い荷物を玄関先まで運んでくれるわけではあるまい。少子高齢社会において、ネット通販が遠からず行き詰まることは簡単に想像できよう。
こうした「ズレ」をなくすには、少子高齢化や人口減少によって起こる大きな数字の変化の意味を、想像力を豊かに働かせて、あなたの身の回りに起こる「具体的な変化」に置き換えるしかない。
全く新しいアプローチで
『未来の年表2』は、タイトルでもお分かりのように、ベストセラーとなった前著『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』の続編である。今後続く私の「未来シリーズ」の第2弾という位置づけだ。
前著において私は、少子高齢社会にあって西暦何年に何が起こるかを「人口減少カレンダー」を作成することで俯瞰した。こうしたアプローチは多くの読者の支持を得た。「人口減少の危機をかなり具体的にイメージできた」という感想も多く頂いた。
他方、私は限界も感じていた。前著では、少子高齢化や人口減少を、全体の姿をなかなか現さない巨大なモンスターにたとえたが、「人口減少カレンダー」だけでは、モンスターの全貌をとらえきれないと思ったのだ。
安倍首相や8Kテレビ開発者の「ズレ」も、モンスターの図体が大き過ぎるからこそ、生じたのだろう。ならば、今回は全く新しいアプローチで迫ろうと思う。
そのヒントは、読者の皆さまから頂いた。
私はかねて講演に招かれる機会が多いのだが、前著『未来の年表』を刊行して以降、その数は激増した。はるかイギリスのテレビ局をふくめ、バラエティ番組やラジオ番組、月刊誌や週刊誌などさまざまなメディアからインタビューを受ける機会も増えた。
数多くのお便りも頂戴した。その中でとりわけ多かったのが、「自分の日常生活で何が起こるのかを教えてほしい」というリクエストである。
ある講演会が終わったときのことだ。数年後に定年を迎えるという女性会社員に呼び止められた。そしてこう言われたのである。
「私が聞きたかったのは、政府や国会議員にならなければできない政策ではなく、自分の定年退職後にどんな社会が待っているのかということです。私たちがいま備えておくべきこと、これからできることは何なのかを知りたいと思っている人は多いはずです」
また、年配の中堅企業経営者からのお便りにはこう綴られていた。
「人口減少の深刻さはよく分かりました。企業レベルとしてもできることはあるはずです。どこから始めればよいのかを知りたい」
前述した電車やバスの乗降問題などはほんの一例だが、人口減少や少子高齢化をより正確に、より深く理解しようと思うならば、個人の身の回りで起こり得ることを、より具体的にイメージする必要がある。
少しばかり想像力を働かせてみることが、「ちょっと方向違い」な政策や商品開発を減らすことに間違いなくつながってゆく。
ギフトカタログのように
そこで『未来の年表2』は、あなたの身近なところで起こる変化を、より具体的にイメージするための手助けをしようと思う。
今回は、少子高齢化や人口減少が人々の暮らしにどのような形で降りかかってくるかを、あなたの生活に即しながら明らかにする。言うなれば、これからあなたに起きることを、お中元やお歳暮のギフトカタログのように一覧してみようというのだ。
もちろん、それは個人的な妄想や願望、思い込みではいけない。データや知見に基づいた精緻な予測を前提とする必要がある。
人はいろいろな顔を持って暮らしている。職場や地域社会、家庭といったどの生活シーンにおいても少子高齢化や人口減少の影響を避けられない。しかも、その人の年齢や住む場所、性別などによって、見える未来も、降りかかる影響も大きく異なることだろう。
この問題を真に理解し、うまく立ち回っていくためには、さまざまなシーンを「あなた自身の問題」として具体的に置き換えなければならない。
したがって第1部では、少子高齢化や人口減少によって起きるであろうことを、家庭、職場、地域社会といったトピックスに分けてカタログ化する。若い読者にもわかりやすく内容を理解してもらうために、「人口減少カタログ」を各トピックに載せた。
第1部目次(抜粋)
◎伴侶に先立たれると、自宅が凶器と化す
◎亡くなる人が増えると、スズメバチに襲われる
◎東京や大阪の繁華街に、「幽霊屋敷」が出現する
◎高級タワマンが、「天空の老人ホーム」に変わる
◎80代が街を闊歩し、窓口・売り場は大混乱する
◎オフィスが高年齢化し、若手の労働意欲が下がる
◎親が亡くなると、地方銀行がなくなる
◎若者が減ると、民主主義が崩壊する
◎ネット通販が普及し、商品が届かなくなる
◎オールド・ボーイズ・ネットワークが、定年女子を「再就職難民」にする
前著『未来の年表』が年代順というタテ軸を用いて俯瞰したのに対し、本書は「人口減少カレンダー」で起きる出来事を「ヨコ軸」、すなわち面としての広がりをもって眺める。そうした試みによって、人口減少社会とはどんな姿なのかをより立体的に把握できると考えたからだ。
もちろん、すべての生活シーンを再現できるわけではない。「これから儲かるビジネスは何ですか?」などというストレートな質問を頂くことも少なくないが、私はジャーナリストであり、ビジネスコンサルタントやマーケットリサーチャー、ましてや予言者ではない。
人口動態から社会の変化の兆しを先読みすることはできても、あまたある職種に今後起こりうることをすべて知る術を持っているわけではない。
しかし、主だった生活シーン、ビジネスシーンへの影響をデータの裏付けをもって疑似体験できるように描けたならば、それが結果として、ビジネスチャンスや個々人のライフプランづくりに役立つことになるだろう。
小さな子供を持つ親御さんならば、「子供の将来」への不安も小さくないだろう。『未来の年表2』はそれを考えるヒントにもなる。
どこかズレている政治家や官僚、古い体質の企業経営者の変化を待っているだけでは、もはや遅い。地域や一般社員、個々人のレベルで「今できること」を着実に進めることが極めて重要となってきている。
一人ひとりの取り組みが日本社会の価値観や〝常識〟を変え、いつか世論となり、社会ニーズとなっていく。われわれが政府や企業を動かしていかなければ、この国は衰退の道を歩み続ける。
私は少子高齢化を「静かなる有事」と名付けたが、近年の出生数の減り幅の拡大ぶりを見ると刻々と進んでいる印象だ。人口減少のスピードは思ったより速くなるかもしれない。まさにいまが日本の正念場ともいえる。
時間はさほど残されているわけではない。過去の成功体験にしがみつき、人口減少や少子高齢化対策に逆行するような愚行は許されないのである。
*************************************************************
引用以上
上のなかに「ダチョウの平和」で示されていることは、今の日本人の習性について、まことに的確に本質をついていると思う。
ダチョウは、危機が迫ってくると、穴の中に頭を入れて、現実を見ないようにするのだ。昔あった「コマワリ君」という漫画のなかにも、危機が迫ると、「私は壁」と言いながら、自分は壁になったつもりで現実を逃避するアクションがあった。
私が冒頭で示したコンピュータ社会の本質的な欠陥である、「便利さと引き換えに失うもの」は、まさに人々が「ダチョウの平和」のなかに閉じこもってゆくように飼い慣らされるということなのだ。
便利さに埋もれて、自分に本当に必要な能力が失われてく現実を見ようとしない。前にも述べたが、歩かなければ認知症がやってくる。文字を書かなければ、文章と論理と不便がもたらす能力が失われてゆく。
コンピュータに頼り切った社会が、どれほど恐ろしいものか、ほとんど誰も理解していない。それを書けば、社会から排除されてゆく。
今、我々に本当に必要なものは、コンピュータやAI自動車による便利さなのか、もう一度、深く問い直さなければならないのではないか?
以来、現在に至るまで十数台のパソコンを使ってきた。もっとも多い使用法は、ネットでの情報収集とワープロでの文書作成だった。
もう40年以上もパソコンで文書を作ってきたので、ペンを使っての手書き文書作りが極めて不得手になってしまい、たまにペン入力すると、おそろしく文字が下手になっていることを思い知らされる。
また、ワープロはATOKを使っているので、変換効率が良いのはいいが、頼り切ってしまうので、漢字を忘れることおびただしい。
しかし30歳くらいまで、日本はコンピュータ社会ではなかったので、子供時代、若者時代は、すべてアナログ文書システムであり、認識の基礎がアナログになっていて、私の頭の中は、基本的にアナログ日本語でできている。
ただ、書かないことによるペン入力の劣化が深刻なだけだ。
劣化といえば、かなり前にNHKクロゲンで放映された番組で、プラントオペレータたちの日本語劣化ぶりが凄くて、オペレータの若者が漢字マニュアルを読めないという報道番組があった。(さすがにネット上で番組を発見できなかった)
なんで、こうなるかといえば、理工系のカリキュラムでは、もっぱら計算とプログラム管理ばかりになってしまい、「マニュアルを理解する」という文系の行程が軽視されるようになっているからだ。
この番組が放映された頃は、バリバリの反原発活動家だったので、原発運転員が漢字マニュアルを読めず、運転操作について不十分な理解しかないとすれば、とても恐ろしいことだと思った。
そして、それは311フクイチ事故のプロセスで、運転員たちが、たくさんの警報のなかで何をしてよいか分からなくなり、適切な対策ができなかったという報告を見て、当時の予感が正しかったことを知った。
社会のコンピュータ化というのが、人類史における発展の必然という視点からは、避けて通ることのできない事象であるとは思うが、それによって、人間が何を得て、代わりに何を失ってゆくのかを正しく把握することは、「持続可能な未来」を考える上で、絶対に必要な作業だ。
コンピュータ問題を簡単にいうと、膨大な知識・記憶の集積が、瞬時に問題の解答を見つけて教えてくれるというものがコンピュータの本質であるとするなら、それがもたらす反作用は、我々が脳味噌を働かせて苦労しながら長い時間をかけて回答を見つける不便な作業が不用になり忘れ去られてゆくことだ。
人間社会は、一つのものを得れば、必ず一つのものを失うというのが弁証法的本質である。
人間は苦労することで、はじめて得られるもの、苦労しなければ得られないものをたくさん持っている。コンピュータが我々の思考を代理してくれるなら、我々は思考のプロセスを失ってゆくのは当然のことなのだ。
現代の我々が、老化のなかで、コンピュータのなかった昔よりも激しく認知能力が劣化し、多くの人々が認知症を患ってゆく理由のなかに、社会のコンピュータ化がないはずがない。
私は、コンピュータ導入当初、プログラムを自作しなければ、ほとんど何もできなかったことで、これは人間の能力を開拓する上で有効なアイテムだと思ったのだが、その後、ありとあらゆる便利プログラムが登場して、自分でプログラムを作る必要がほぼなくなった。
そればかりか、OSでも、私が理解し掌握できたのはMSDOS3程度までで、WINDOWSが登場してからは、まるでチンプンカンプンに複雑化し、コンピュータを支配し使いこなすことが不可能になった。
そして、気づいてみれば、私はコンピュータに支配され、使われている自分を発見することになった。
コンピュータに対し没主体的にさせられた我々の社会は、やがてAI社会と称するオーウェルが73年前に予言した超管理社会へと移行しようとしている。
http://www.news-digest.co.uk/news/features/18977-dystopia-and-george-orwells-1984-70th-anniversary.html
この管理社会では、人間の主体性が強く規制され、何もかもプログラム通りに行動することを権力によって強要される社会になっている。
こんなビジョンは、独裁権力にとって夢のような魅力的な社会であり、世界の独裁権力が、こぞってAI管理社会の導入に夢中になっている。
世界の独裁権力を牽引する中国共産党は、「雄安新区」という超管理スーパーシティを実際に建設して、まるで「プリズナー6」のような生活が実現している。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm1874091
https://www.youtube.com/watch?v=xgPmUrNNfbo&ab_channel=TOKYOMX
もちろん日本でも、ダボス会議主催者に名を連ねる竹中平蔵が「スーパーシティ構想」の名の下で、淡路島にそんな管理社会を実現することを推進している。
これは、ダボス会議の「グレートリセット」構想のなかに組み込まれた独裁権力社会のビジョンだ。これを提唱したのは、「ワクチンで人口調節」を提起している原発推進のビルゲイツとアルゴアだ。
もしも、竹中やビルゲイツの思惑どおりに、コンピュータAIによる超監視社会=スーパーシティが実現したなら、人類に何がもたらさせるのか? 我々はしっかりと理解しなければ、とてつもない恐ろしい未来が待っていると私は思う。
だが、「グレートリセット」という虚構は、GAFAMという巨大な経済利害勢力にとって、桁違いの凄まじい利権をもたらすため、人間社会のコミュニケーションを牛耳っているGAFAMが、反対意見を抑圧し、押しつぶしながら強行していることにより、恐ろしいほどの勢いで社会を変えつつあることを知らねばならない。
ビルゲイツやアルゴアの推進している原発電気システム(リニアやEV車が典型だ)など、私のように反対意見を言おうものなら、たちまち、ツイッターやフェイスブックなどのメディアから追放され、ブログでも、ヤフーは無断削除し、FC2でも、グーグル検索から意図的に外されるという事態になっている。
政府権力GAFAMに都合の悪い情報は、徹底的に排除され隠蔽されているのだ。
こんな視点で、ウソのない未来予測をする必要があるのだが、これから我々の社会で何が起きるのか、2018年ではあるが、一定の予測をした本が世に出た。
竹中平蔵は「90歳まで我々を働かせる」と言っているのだが、権力者の傲慢な思惑にもかかわらず、我々の未来は実に悲惨で不安定なものだ。
日本をじわじわ蝕んでいる「静かなる有事」に気づいてますか 2043年、ついにこの国は… 2018年5月8日
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55466
街は高齢者だらけ
日本が少子高齢社会にあることは、誰もが知る「常識」である。だが、自分の身の回りでこれから起きることをわかっている日本人は、いったいどれくらいいるだろうか?
日本は劇的に変わっていく。例えば、25年後の2043年の社会を覗いてみよう。
年間出生数は現在の4分の3の71万7000人に減る。すでに出生届ゼロという自治体が誕生しているが、地域によっては小中学校がすべて廃校となり、災害時の避難所設営に困るところが出始める。
20〜64歳の働き手世代は、2015年から1818万8000人も減る。社員を集められないことによる廃業が相次ぎ、ベテラン社員ばかりとなった企業ではマンネリ続きで、新たなヒット商品がなかなか生まれない。
高齢化率(総人口に占める65歳以上人口の割合)は36・4%にまで進む。高齢者の数が増えるのもさることながら、80代以上の「高齢化した高齢者」で、しかも「独り暮らし」という人が多数を占める。
こうした高齢者が街中に溢れる社会とは、一体どんな様子だろうか?
いま、東京や大阪といった大都会では、ラッシュアワーには5分と待たずに電車やバスがやってくる。なぜ、そんな過密ダイヤで運行できるのかといえば、乗客の大多数が人の流れについていける「若い世代」だからだ。
たまに、杖をついた高齢者が、駅員の手を借りて乗降する場面に出くわす。ただ、それはあくまで少数派であり、駅員の手際よい作業でそんなに多くの待ち時間を要するわけではない。
しかし、2043年とは、総人口の7人に1人が80歳以上という社会だ。独り暮らしであるがゆえに否応なしに外出する機会は増えるが、若い世代の「流れ」についていける人ばかりではない。こんな過密ダイヤはとても続けられない。
80代ともなれば、動作は緩慢になり、判断力も鈍る人が増える。こうした高齢者が一度に電車やバスを利用するのだから、駅員は乗降のサポートに追われ、ダイヤ乱れなど日常茶飯事となるのだ。
新幹線や飛行機だって同じだ。現在でも空港の保安検査場に長い列ができているが、機内への移動も含め、スムーズな移動は年々期待できなくなる──。
残念ながら、皆さんが生きている間は、人口減少や少子高齢化が止まらない。過去の少子化の影響で、今後は子供を産むことのできる若い女性が激減していくためだ。
人口減少のスピードは凄まじい。国立社会保障・人口問題研究所(以下、社人研)の推計によれば、2015年の国勢調査で約1億2700万人を数えた総人口は、わずか40年後には9000万人を下回り、100年も経たずして5000万人ほどに減少する。
われわれは、極めて〝特異な時代〟を生きているのである。
ただ、こうした数字を漫然と追いかけ、社会の変化を大くくりに把握していたのでは、少子高齢化や人口減少問題の実像はつかめない。ましてや、それが自分の暮らしにどう関わってくるのかを理解できないだろう。
それでは、いつまで経っても真の危機意識が醸成されないではないか。もっと、リアリティーをもって、「未来」を想像する力が求められている。
人間というのは〝不都合な真実〟に直面したとき、往々にして見て見ぬふりをするものだ。それどころか、気休めにもならない楽観的なデータをかき集めて、〝不都合な真実〟を否定しようとする人さえ出てくる。
皆さんは、「ダチョウの平和」という言葉をご存じだろうか?
危険が差し迫ると頭を穴の中に突っ込んで現実を見ないようにする様を指した比喩だ(実際のダチョウの習性とは異なるとの指摘もあるようだが)。日々の変化を把握しづらい人口減少問題こそ、この「ダチョウの平和」に陥りがちな難題である。
それは切迫感が乏しいぶん、どこか人ごととなりやすい。何から手を付けてよいのか分からず、現実逃避をしている間にも、状況は時々刻々と悪くなっていく。そして、多くの人がそれを具体的にイメージできたときには、すでに手遅れとなってしまう──。
どこかズレている
「ダチョウの平和」ですぐ思い起こすのが、他ならぬ安倍晋三首相の発言である。
2017年10月の総選挙に際して行った記者会見で、少子高齢化を「国難とも呼ぶべき事態」と位置づけ、突如として、増税される消費税の使途変更を宣言した。
国の舵取り役たる総理大臣の言葉は重い。首相の発言を耳にした私は、「ようやく、少子高齢化への対応に本腰で取り組むことにしたのか」と期待を抱かずにはいられなかった。
だが、それが全くの「ぬか喜び」であったことを思い知らされるのに、多くの時間を要しなかった。
安倍首相の口から続けて飛び出した対策が、幼児教育・保育、高等教育の無償化だったからである。「国難」と大上段に構えた割には、スケールがあまりに小さい。スケールの大小だけでなく、「どこかズレている」と感じた人も多かったのではないだろうか。
深刻な少子化にある日本においては、子育て世代が抱える不安を解消しなければならない。だから、教育・保育の無償化について、「全く無意味だ」などというつもりはない。
だがしかし、今後の日本社会では高齢者が激増する一方で、少子化が止まる予兆がない。このままでは勤労世代が大きく減り、社会システムが機能麻痺に陥る。日本という国自体が無くなってしまうことが懸念されるからこそ、「国難」なのである。
その対応には、ダイナミックな社会の作り替えが不可避だ。私が首相に期待したのは、人口が激減する中にあっても「豊かさ」を維持するための方策であり、国民の反発が避けられない不人気な政策に対し、真正面から理解を求める姿であった。
「具体的な変化」に置き換える
「ズレ」は、首相や議員だけでなく、イノベーション(技術革新)や技術開発の現場にも見つかる。少子高齢化に伴う勤労世代の減少対策として、人工知能(AI)やロボットなどに期待が高まっているが、開発者たちは本当に少子高齢社会の先を見据えているだろうか?
その典型が、話題の超高精細映像システム「8K」だ。鮮明な画像で楽しみたいと心待ちにする人も少なくないだろう。「8K」技術そのものに、ケチをつけるつもりは毛頭ない。むしろ、厳しい開発競争に打ち勝った技術者たちの努力には賞賛の拍手を送りたい。
ただし、超高齢社会を睨んだとき、追い求めている技術が果たして、超高精細映像システムでよいのかが疑問なのである。今後どんなにクリアな画像を実現したとしても、老眼鏡ではせっかくの性能を楽しめない。
高齢者たちが求めているのは高画質ではなく、むしろ「音」にある。耳が遠くなり、ボリュームを大きくしてテレビを見ている人は多い。聞き取りやすい小型スピーカーを搭載したテレビを安く手に入れたいという声は少なくないはずだ。
技術開発とは、社会の課題克服のためにある。ならば、開発者たちは高齢者のニーズをもっと聞くべきであろう。
「ズレ」といえば、最近普及してきたインターネット通信販売(以下、ネット通販)もそうだ。〝買い物難民〟対策の切り札の如くに語る人も少なくない。
だが、ちょっと待っていただきたい。ネット通販が本当に切り札と言えるのだろうか?
荷物を運ぶ人手は少子化に伴って減りゆく。〝買い物難民〟対策だと言って普及させればさせるほど需要が掘り起こされ、トラックドライバー不足はより深刻になる。
無人のトラックが走り回る時代も遠くないとされるが、トラック自らが荷棚から個別のお届け物をより分け、重い荷物を玄関先まで運んでくれるわけではあるまい。少子高齢社会において、ネット通販が遠からず行き詰まることは簡単に想像できよう。
こうした「ズレ」をなくすには、少子高齢化や人口減少によって起こる大きな数字の変化の意味を、想像力を豊かに働かせて、あなたの身の回りに起こる「具体的な変化」に置き換えるしかない。
全く新しいアプローチで
『未来の年表2』は、タイトルでもお分かりのように、ベストセラーとなった前著『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』の続編である。今後続く私の「未来シリーズ」の第2弾という位置づけだ。
前著において私は、少子高齢社会にあって西暦何年に何が起こるかを「人口減少カレンダー」を作成することで俯瞰した。こうしたアプローチは多くの読者の支持を得た。「人口減少の危機をかなり具体的にイメージできた」という感想も多く頂いた。
他方、私は限界も感じていた。前著では、少子高齢化や人口減少を、全体の姿をなかなか現さない巨大なモンスターにたとえたが、「人口減少カレンダー」だけでは、モンスターの全貌をとらえきれないと思ったのだ。
安倍首相や8Kテレビ開発者の「ズレ」も、モンスターの図体が大き過ぎるからこそ、生じたのだろう。ならば、今回は全く新しいアプローチで迫ろうと思う。
そのヒントは、読者の皆さまから頂いた。
私はかねて講演に招かれる機会が多いのだが、前著『未来の年表』を刊行して以降、その数は激増した。はるかイギリスのテレビ局をふくめ、バラエティ番組やラジオ番組、月刊誌や週刊誌などさまざまなメディアからインタビューを受ける機会も増えた。
数多くのお便りも頂戴した。その中でとりわけ多かったのが、「自分の日常生活で何が起こるのかを教えてほしい」というリクエストである。
ある講演会が終わったときのことだ。数年後に定年を迎えるという女性会社員に呼び止められた。そしてこう言われたのである。
「私が聞きたかったのは、政府や国会議員にならなければできない政策ではなく、自分の定年退職後にどんな社会が待っているのかということです。私たちがいま備えておくべきこと、これからできることは何なのかを知りたいと思っている人は多いはずです」
また、年配の中堅企業経営者からのお便りにはこう綴られていた。
「人口減少の深刻さはよく分かりました。企業レベルとしてもできることはあるはずです。どこから始めればよいのかを知りたい」
前述した電車やバスの乗降問題などはほんの一例だが、人口減少や少子高齢化をより正確に、より深く理解しようと思うならば、個人の身の回りで起こり得ることを、より具体的にイメージする必要がある。
少しばかり想像力を働かせてみることが、「ちょっと方向違い」な政策や商品開発を減らすことに間違いなくつながってゆく。
ギフトカタログのように
そこで『未来の年表2』は、あなたの身近なところで起こる変化を、より具体的にイメージするための手助けをしようと思う。
今回は、少子高齢化や人口減少が人々の暮らしにどのような形で降りかかってくるかを、あなたの生活に即しながら明らかにする。言うなれば、これからあなたに起きることを、お中元やお歳暮のギフトカタログのように一覧してみようというのだ。
もちろん、それは個人的な妄想や願望、思い込みではいけない。データや知見に基づいた精緻な予測を前提とする必要がある。
人はいろいろな顔を持って暮らしている。職場や地域社会、家庭といったどの生活シーンにおいても少子高齢化や人口減少の影響を避けられない。しかも、その人の年齢や住む場所、性別などによって、見える未来も、降りかかる影響も大きく異なることだろう。
この問題を真に理解し、うまく立ち回っていくためには、さまざまなシーンを「あなた自身の問題」として具体的に置き換えなければならない。
したがって第1部では、少子高齢化や人口減少によって起きるであろうことを、家庭、職場、地域社会といったトピックスに分けてカタログ化する。若い読者にもわかりやすく内容を理解してもらうために、「人口減少カタログ」を各トピックに載せた。
第1部目次(抜粋)
◎伴侶に先立たれると、自宅が凶器と化す
◎亡くなる人が増えると、スズメバチに襲われる
◎東京や大阪の繁華街に、「幽霊屋敷」が出現する
◎高級タワマンが、「天空の老人ホーム」に変わる
◎80代が街を闊歩し、窓口・売り場は大混乱する
◎オフィスが高年齢化し、若手の労働意欲が下がる
◎親が亡くなると、地方銀行がなくなる
◎若者が減ると、民主主義が崩壊する
◎ネット通販が普及し、商品が届かなくなる
◎オールド・ボーイズ・ネットワークが、定年女子を「再就職難民」にする
前著『未来の年表』が年代順というタテ軸を用いて俯瞰したのに対し、本書は「人口減少カレンダー」で起きる出来事を「ヨコ軸」、すなわち面としての広がりをもって眺める。そうした試みによって、人口減少社会とはどんな姿なのかをより立体的に把握できると考えたからだ。
もちろん、すべての生活シーンを再現できるわけではない。「これから儲かるビジネスは何ですか?」などというストレートな質問を頂くことも少なくないが、私はジャーナリストであり、ビジネスコンサルタントやマーケットリサーチャー、ましてや予言者ではない。
人口動態から社会の変化の兆しを先読みすることはできても、あまたある職種に今後起こりうることをすべて知る術を持っているわけではない。
しかし、主だった生活シーン、ビジネスシーンへの影響をデータの裏付けをもって疑似体験できるように描けたならば、それが結果として、ビジネスチャンスや個々人のライフプランづくりに役立つことになるだろう。
小さな子供を持つ親御さんならば、「子供の将来」への不安も小さくないだろう。『未来の年表2』はそれを考えるヒントにもなる。
どこかズレている政治家や官僚、古い体質の企業経営者の変化を待っているだけでは、もはや遅い。地域や一般社員、個々人のレベルで「今できること」を着実に進めることが極めて重要となってきている。
一人ひとりの取り組みが日本社会の価値観や〝常識〟を変え、いつか世論となり、社会ニーズとなっていく。われわれが政府や企業を動かしていかなければ、この国は衰退の道を歩み続ける。
私は少子高齢化を「静かなる有事」と名付けたが、近年の出生数の減り幅の拡大ぶりを見ると刻々と進んでいる印象だ。人口減少のスピードは思ったより速くなるかもしれない。まさにいまが日本の正念場ともいえる。
時間はさほど残されているわけではない。過去の成功体験にしがみつき、人口減少や少子高齢化対策に逆行するような愚行は許されないのである。
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引用以上
上のなかに「ダチョウの平和」で示されていることは、今の日本人の習性について、まことに的確に本質をついていると思う。
ダチョウは、危機が迫ってくると、穴の中に頭を入れて、現実を見ないようにするのだ。昔あった「コマワリ君」という漫画のなかにも、危機が迫ると、「私は壁」と言いながら、自分は壁になったつもりで現実を逃避するアクションがあった。
私が冒頭で示したコンピュータ社会の本質的な欠陥である、「便利さと引き換えに失うもの」は、まさに人々が「ダチョウの平和」のなかに閉じこもってゆくように飼い慣らされるということなのだ。
便利さに埋もれて、自分に本当に必要な能力が失われてく現実を見ようとしない。前にも述べたが、歩かなければ認知症がやってくる。文字を書かなければ、文章と論理と不便がもたらす能力が失われてゆく。
コンピュータに頼り切った社会が、どれほど恐ろしいものか、ほとんど誰も理解していない。それを書けば、社会から排除されてゆく。
今、我々に本当に必要なものは、コンピュータやAI自動車による便利さなのか、もう一度、深く問い直さなければならないのではないか?