またまた買ったばかりのアマチュア無線機を盗まれてしまった。これで二回目だ。盗まれたのは、スタンダードのFT60という2万円程度のハンディ機だが、ヤフオクやメルカリなどに出品される可能性があるので、登録しておかねばならない。
前回は八重洲FT857で、買ったときは、ずいぶん高価だった。
車に入れてあったが、夜中、鍵がかかったまま盗まれた。鍵が壊された形跡がない。監視カメラがあったが、すべて盗まれたと思われる時間帯の映像が消えていた。
復活ソフトを使って復元してみたら、消えた動画が出てきたが、肝心の時間帯のファイルだけ壊れていた。
相当に高度な手口だ。朝からかかりきりだが、まだ時間がかかる。警察への複雑な手続きも必要なので、ブログを更新している暇がない。終わって時間があれば書くつもりだが、今日は30年前に書いた山ブログを再掲しておく。
犯人の見当はついているが、明瞭な証拠がなければ、警察はとりあってもくれないので、証拠の確保が大変だ。
このような窃盗犯罪の多くが、実は比較的近所の住人であることを知っておいた方がいい。
いろいろ、ひっくりかえしてるうちに、ダニの噛み跡だらけになった。梅雨はこれだからね……。バルサンも蚊取り線香も肺が悪いとダメージが大きいし、困ったもんだ。
****************************************************************
第一話 藤原岳(1165m)1991年
名古屋付近に住む山好きの人なら、日帰りで手頃なハイキング登山を楽しめる藤原岳を知らない人はいない。鈴鹿では、御在所岳の次に知られた山である。
山名の由来は、当然、麓の藤原町から名付けられたと思われ、少し調べてみた。
伊勢の国には本居宣長の影響を受けた国学の伝統が連綿と受け継がれ、優れた地方史が数多く、員弁には近藤杢・実親子がいて質の高い町村史や史談などが編纂されている。
この本には平安初期に藤原仲成が嵯峨天皇に謀反して都を追われ(810年、薬子の乱)、袴ヶ越と呼ばれた藤原岳野尻の山中に隠れ住んだことなどが記されていた。
805年に最澄が比叡山に延暦寺を開き、わずか2年後の807年、天台宗観音寺(現、聖宝寺)や大安寺が開山している。すでにこの頃、耕地に恵まれた員弁付近は先進的な地域になっていたようだが、藤原町付近が集落として成立するのは古文献によれば鎌倉時代以降のことらしい。
一帯を開いたのが藤原氏の後裔だったから藤原と名付けられたと考えるのが自然だが、調べてみると、藤原岳の名の方が古いと思われる資料も多い。藤原氏は「源平藤橘」四姓の実質筆頭であって、日本史上、最大の祖姓である。
私は、4~7世紀頃、天皇家の先祖とともに朝鮮半島から集団でやってきた鉄器と騎馬文化をもった民族の後裔と考えている。彼らは九州北部~若狭に至る山陰地方に上陸して拠点を置き、九州・山陽道・関西・東海道に強大な勢力を広げ、米作文化をもたらした中国江南系の先住弥生人と激しく争いながら権力の主導権を奪い、円墳を遺した弥生人系ヤマト王朝から、方形墳を遺した騎馬民族系大和王朝に権力を移し変えた。その血筋は、一貫して天皇家とともに日本の貴族・武家支配階級の本流にあった。
だが、藤原氏の祖とされる中臣鎌足が、高千穂降臨の案内役たる猿田彦命の随臣の第23世子孫と称したことは、藤原氏の出自に微妙な陰影を与えている。「大化改新」に大功のあった鎌足は、669年、天智天皇から居住地の奈良県高市郡藤原の地名をとって「藤原」姓を与えられ、これが全国の藤某姓の発端となった。
藤原以外にも藤のつく佐藤、伊藤、近藤、武藤、斉藤、藤井、藤田、藤村、また黒田、落合、星野などの姓も藤原氏の変姓と考えられている。いずれも日本史に頻繁に登場する最大級の姓名で、武家の先祖は大抵、この一族に行き着くのである。
かつて、私の仕事先に二之湯さんという珍しい名字の方がいて、出生地を聞いてみると藤原町であった。員弁街道沿いに同名の酒屋があった。この方は港でトラック運転手をしておられたが、風貌は人品骨柄卑しからず、濃い眉、優しく大きな目、エラの張った堂々とした人相で、剛胆にして沈着、まさしく古武士の風格をもった方であった。
過去に、私は藤原氏の子孫とされる遠州の京丸藤原氏や平泉藤原氏のご子孫も拝顔したことがあるが、いずれも上に書いた特徴をもち、古武士を連想させる風格をお持ちであった。天皇・秦氏・紀氏など騎馬民族・貴族系の人相は薄い眉、切れ長の一重瞼が特徴なのだが、私の知る藤原氏の後裔と思われる人々は、どういうわけか目が大きい二重瞼の人が多く、天皇系の血筋の外見的特徴と似ていない。あるいは蝦夷の血が入っているのであろうか。
女性では、縁があるかどうか不明だが、NHKアナの森田美由紀さんが藤原氏の女性ならこのような人相になるだろうと思うタイプである。
彼女は可愛いタイプの美人というわけではないが、若い頃から十年以上もNHKの顔としてメインアナを続けていることから分かるように、淑やかななかにも芯に強いものを秘め、誰からも信頼される確実な能力と冷静な胆力の持ち主に見受けられる。これほど安心して見ていられる人も少ない。私など、彼女のファンで名字が変わったら悔しい思いをするだろうと常々考えていた。未だに変わらないのは、本人には申し訳ないが、ファンとしては夢が醒めずにありがたい。
藤原町周辺には、こうした古武士的風貌と精神性をもった藤原氏の子孫が多いかもしれない。小さな山里なのに重厚な人物、とりわけ学者を多く輩出している。豊かな自然と伝統は大きな人間を生み出すのである。
ところで、鈴鹿や藤原岳の名は、いつ頃から現れるのだろうか。
近藤実著「員弁史談」によれば、天保7年(1830年)に発刊された木版地図に「藤原岳」の山名が記されていた。同図には鈴鹿山というのは仙ヶ岳付近にあたり、入道岳、冠岳(鎌ヶ岳?)、御三所岳(御在所岳)、国見山、釈迦岳、藤原岳、熊坂岳(御池岳?)、三国岳などが記されている。
また天明4年(1782年)桑名藩の文書にも藤原岳の名が記されていた。このあたりが判明している一番古い記録だが、実際には、それより遙かに遠い昔から藤原岳の呼び名が存在したことは疑う余地がない。したがって、この一帯が藤原氏後裔の居住地であったことは古くから知られていたようだ。
鈴鹿の地名考証も多説あり、今のところ「スズタケ」説が有力である。その冠名地域については、資料によってひどくまちまちで、鈴鹿峠付近・仙ヶ岳が鈴鹿山、藤原岳が鈴鹿岳になっていたりする。どうやら現在の鈴鹿連峰の広い範囲を指していたようだ。
藤原岳は、往古、その遠望によって袴之腰、あるいは袴ヶ越と呼ばれていた。
別に多志田山や野尻山の名も残っている。石灰岩採掘によって姿を変えた今では、どこが袴の腰なのか指摘するのも難しい。荒廃した採掘崖の全体像がそれに似ているような気もするが、明治時代に撮影された採掘前の藤原岳には、なだらかな多志田尾根が写っていて、今とかなり形が違っていた。あるいは、峠を意味する「越し」なのかもしれない。
冬の晴れた日なら、名古屋市内はもちろん、尾三平野の広い範囲から特異な山容を望むことができる。麓のセメント工場によって高度差800mにも及ぶ東側全面を削り取られた痛々しい姿が、「あれが藤原岳だ」と、どこからでも特定できる指標になっているのは皮肉なものだが、人は見える山、つまり「共通の話題にできる山」に登ってみたいのである。
深田久弥は、鈴鹿から御在所岳か藤原岳のどちらかを百名山に選びたかったと書いている。しかし、御在所岳は当時すでにロープウェイが設置され、山頂も遊園地化されるほど開発が進んでいたのと、藤原岳は標高や雰囲気がもの足らないという理由で、結局、鈴鹿からは選ばれなかった。
南の御在所岳と好一対、鉄道駅から直接登れるほど交通にも恵まれ、日曜祭日など登山道をすれ違うのにも苦労するほど大勢のハイカーが訪れる、名実ともに鈴鹿山脈を代表する山の一つなのだが、御在所岳が、その気になればロープウェイやリフトを利用してほとんど歩かずに登頂できるの対して、藤原岳は最寄りの西藤原駅の標高が160m、表登山道である大貝戸道から山頂までの標高差は1000mに及び、黙々と汗を流さなければ頂に立つことができない。しかも、御在所のように目を楽しませる派手な景観もなく、ありふれた杉の植林と地味な雑木の山肌が続くばかりである。
久弥の躊躇した標高の低さに騙されて、鼻歌気分で初登頂を目指した人々は、景観もなく暑苦しいばかりの登山道で悲鳴をあげることになる。中央高地の有名山岳でも標高差1000m以内で登れる山がいくらでもあるのだ。誰も、1000mそこそこの、こんな低山の登山道がこれほど苦しい登りだと思っていない。
だが、「山の真実の価値は標高や評判にあるのではない」と考える人々にとって、つまり「登った」という結果よりも、黙々と歩く過程を大切にする渋い登山観を持っている人にとっては、これはもう立派な価値ある山岳といえよう。
山頂に到着したつもりで避難小屋の付近を見回すと、真の山頂が、いったん深い笹藪を下った後、登り返さなければ辿り着けないことを知らされる厳しさも、渋さを増していてよい。そして、やっとの思いで登った山頂には、期待しただけの心地よさが待っているとはいえないが、苦労の分だけ納得できるものはある。
二十数年前の夏、私がはじめて登頂したときは、山頂の小さな禿地の石灰岩にマムシがとぐろを巻いて出迎えてくれた。冷や汗はかいたが、心地よい涼しさとはいいがたかった。
山頂からの眺望には見事な原生林もない、御在所のような迫力のあるアルペン的景観もない、背丈の低い雑木と笹藪の続く稜線を吹き抜ける風も中央高地のそれと比べて鈍くさく感じる。どうもすっきりしない、山の爽やかさがない、何かが違う。「この重い雰囲気はいったい何なのだ」と私は不思議に思った。
それでも、私は手頃で便利なこの山に四季折々、様々のコースから登った。通算では30回以上も登っているだろう。
20代の元気盛りのころは、登山口から山頂まで走るように駆け上がり、2時間を必要としなかった。40代になった今では、2時間でも登れなくなった。その代わり、若い頃には目に留まらなかった、目立たない良さ、美しさを堪能する心のゆとりもできた。
早春の雪割草、節分草、片栗、石灰岩質特有の北方系ラン科貴種植物、オオイタヤメイゲツの紅葉などが疲れた心を慰めてくれて、この山の良さをしみじみと味わえる年になっってしまったのかと、嬉しさよりも悲しみに似た感慨がある。
20年くらい前には、山野草を集団で盗掘して歩く善良な中高年のグループがたくさんあって、彼らによってこの山域のクマガイソウやエビネランなど貴種植物が根こそぎといっていいほど壊滅させられた。彼らに罪の意識はまるでなかった。彼らにとっては、「植物採集」という健康で高雅な趣味だったのである。
もちろん、冷涼で清浄な山上でしか適応できない北方系貴種植物が平地の民家で根付くはずもなく、盗掘した全員が枯れた鉢を抱えて恨めしげに見つめるだけの結果に終わっているはずである。
釣りブームがそうであるように、今、目先の小さな自分の欲を満たそうとするばかりで、すばらしい自然を保存し、後世の人々により楽しい思いをさせてあげようという自然保護意識に思いの至る人は少ない。「今自分が楽しめさえすればよいのだ、誰が他人においしいものを残してやるものか!」というのが正直な本音であろう。
そうした人々の多い結果、政府・役所が主導で、残り少ない自然の遺産を目先の利益のためにしゃぶり尽くそうとする浅ましい姿ばかりが目につくのは情けない限りだ。子孫のことを真剣に考える政治家・役人など見たことがない。これが、今日の日本のありのままの姿である。目や耳をを塞がずに事実を見つめよう。改革はさらけ出すところから始まるのだ。
開発を錦の御旗に掲げ、節度を知らず、心ある住民の顰蹙を無視して強引に進められた自治体の「開発事業」は、誰もが危惧し予想した通り、のきなみ無惨に挫折し、残った莫大な負債を住民に押しつけ、首謀者は責任逃れに汲々と喘ぐ今日なのだが、「国破れて山河あり」どころか、最後の拠り所の山河自体を壊滅させているのだから取り返しがつかない。
こうしたご時世に及んでも、いまだ貴種山野草採取を勧める雑誌が堂々と発刊されているのには恐れ入るが、最近では、登山道周辺をボランティアで清掃する人たちが増えたのを見て恥じるようになったのか、手にショベルをもって大きな袋を抱えた中高年の集団も滅多に見かけなくなった。もっとも、もはや彼らの立ち入れそうな場所の貴種植物は取り尽くされている。
沢登りの途中、危険な源流域で、細々と生き残ったこれらの貴種植物が再び増え始めているのを見つけると、ほっとした気分になる。壊滅したかと思ったクマガイソウの群落も復活しつつある。この分なら、何もかも失なわれたと思っても千年もすれば元通りになるかもしれない。馬や鹿より馬鹿な人間さえいなければの話だが。
私がこの山に登り始めた頃、東京から帰省した70年代はじめ頃のことだが、今の避難小屋の付近は戦前から続く皇族の名を冠したスキー場で、立派な登山・スキー小屋があり管理人さんもいた。当時は藤原岳大貝戸道上部で常襲雪崩による遭難の多発が問題になるほど冬季の積雪も半端ではなかったのだ。
すでにこの頃、スキーを担いで数時間も登らねばならない藤原スキー場は、歩かずにすむ便利な近在のスキー場に客を奪われて見向きもされなくなっていた。また、地球温暖化の影響を受けて日本全土に雪が少なくなり、スキーを楽しめるほどの深雪も見なくなった。古いスキー板が放り出された小屋は荒れるに任せ、やがて取り壊され、ある日、気がついたら跡地に立派な二階建ての避難小屋が建てられていた。
そのころ、一時的にクロカンスキーのブームがあって、私など古いワイヤ締めの山スキーしか持っていなかったが、クロカン気分でシールをつけて、この稜線を歩くのが楽しみだった。そして、いつでもスキー場を独占することができた。
何よりも登山しか知らないダサイ私は、カッコいい車に乗って原色に身を包んだ美女を引き連れてスキー場を闊歩する連中にひどい劣等感を感じていたから、連綿と続くこの稜線を、どこまでも果てなく一人で歩き続けたいと思っていたのだ。誰も見ていない厳しい稜線では肩身の狭い思いをしなくてすんだから。
広大な稜線を独り占めにして山スキーで歩くのは、すばらしく爽快である。条件がよければ、藤原山上から白船峠やコグルミ谷に至り、現在の伊勢幹線送電塔を縫うように冷川谷を降りたり、鞍掛峠からの306号線を滑り降りることもできたが、近年は雪不足のため自由に滑れるのは稜線近くに限られるようになり、やがて行きたいとも思わなくなった。
治田鉱山
藤原岳の行政区域は、三重県と滋賀県にまたがる。員弁郡藤原町・北勢町、神埼郡永源寺町で、三重県側が伊勢湾、員弁川水系の多志田川、青川の源流となり、滋賀県側が琵琶湖水系、愛知川支流、茶屋川の源流となる。
地図を見れば一目瞭然、明らかに、山域の広さの割に流出する沢が少ない。これは藤原岳周辺が有数の石灰岩地帯で、地下深く伏水流に穿たれた無数の洞水路が形成され、地表を流れる沢水を吸収してしまうためである。したがって、登山者にとっては水利の悪さが問題になる。山麓にはすばらしい湧水が多くあるのに、中腹より上では、ほとんど水を得られない。だから稜線上のキャンプは水を持ち上げねばならず大変である。
また、室町時代から大正時代に至るまで有数の鉱山であって、山麓から稜線近くまで「マブ」と呼ばれた無数の坑道が掘られ、内部で複雑に交錯し、それらも地下水路になっている。この周辺の沢登りのとき、思わぬ場所に坑道の水抜き穴と思われる湧水洞を発見することがある。
藤原岳周辺の鉱業地を総称して「冶田(はった)鉱山」という。鉱山諸業の中心地となったのが現在の北勢町新町、昔の冶田村だったからである。江戸時代の一時期、生野銀山や別子銅山と肩を並べるほどの銅の産出があったと記録されている。
治田鉱山の歴史には、信長の妹、お市の孫娘であり、家康の孫娘でもある千姫の物語が登場する。千姫の母は淀君の妹「お江」で、父は2代将軍秀忠である。家康は治田鉱山の運上金を、秀頼の自害した大阪城から救出され、桑名藩、本多忠刻に再降嫁した千姫の化粧料として与えた。
このため、治田郷は江戸時代、近在から独立して特異な地位を保ち続け、戦後も、異常に大きな入会区を所有することになり、員弁郡では際だって豊かで恵まれた地域になった。
主な採掘場所は、セメント用石灰採掘で無残な姿をさらす藤原岳多志多尾根の多志田山、大貝戸道付近の野尻山、青川から冶田峠に至る青川左岸、孫太尾根付近の南河内山、冶田峠を越えて茨川に下った付近の藤原岳西尾根、蛇谷山などであった。(この「山」は「鉱山地」という意味で、頂上ピークを指すわけではない)
鈴鹿山地を歩く登山者で、この山域に壮年樹林の少ないのを訝しむ者が多い。山麓から山頂に至るまで、戦後の杉の植林以外に大規模な森が見あたらない。どこを向いても短年齢の藪山ばかりである。
これは、戦時中の無謀伐採もあるが、治田鉱山に莫大な量の木炭と柱材を必要としたことが主な理由であろう。鈴鹿山地の至る所の沢筋に炭焼き竃の痕跡があり、雑木は木炭に加工されて銅精錬のための還元性燃料として利用され、ブナや針葉樹は坑道の支木として利用された。
私は日本中の山を歩いたつもりだが、樹林の薄い山々を見かけると、まず鉱山と窯業を疑う。両者とも莫大な木材を消費して森林の幽玄な姿を奪う。窯業の場合、陶土になる花崗岩質の土壌と火力を求めるために松材を植林する傾向があるので見当がつく。鈴鹿の場合は、両方とも混在し、南方、四日市方面の山では万古焼きの燃料として利用され、伐木跡地にはやはり松材が植えられている。北方の森は治田鉱山に利用されたであろう。
足尾や古河を見れば分かるように、銅精錬の煙には強烈な毒性があり、付近の樹木は立ち枯れる。最盛期の往時には、藤原岳・治田峠一帯は毒煙によって荒廃した死の山と化し、見渡す限り草木が生えぬ不毛の荒山になっていたであろう。
私が、初めて登った藤原岳で感じた光景の重さは、こうした自然に対する人為的迫害の歴史の重さではなかったか。人によって迫害された自然に幽玄や美を感じ取ることはできない。人の心を癒してくれる豊かな景観がない。藤原岳は癒えきっていないのである。
集められた鉱夫たちは、主に多田銀山(兵庫県猪名川町)の者が多かった。多田銀山にあった甘露寺が死亡鉱夫の供養のために青川上流の三鉱谷付近に開山したほどで、後に衰退に伴って新町に移転した。新町付近に住み着いた者の多くが、鉱山とともに全国を渡り歩いた者の子孫で、幕府直轄領、桑名藩領、忍藩領と所属が転々と変わったこともあって、伊勢冶田郷は周辺郷から独立した特別な扱いを受けた。
もっとも盛況を見たのは寛保・延享の1740年代で、全国有数の銅産出があったが、その後、目立った産出は記録されていない。多くの山師が一攫千金を当てこみ、夢破れては去っていった。
治田鉱山は400年間にわたって銀銅産出の盛衰を繰り返し、大正年間、維新に活躍した鉱山師、薩摩の五代友厚の二女、藍による大規模な試掘を最後に幕を閉じた。
現在、青川・冶田峠登山道に残る手掘りのトンネルは、明治の末に五代藍の資金で掘られたものである。目的は険悪な青川隘狭部迂回路を短縮し、三鉱谷上部から孫太尾根を突き抜ける水抜きを兼ねた大坑道を掘って、水没放棄された過去の坑道を生かすとともに新鉱脈を得ることだった。
だが、この坑道試掘が670m進んだところで、藍は父から譲られた資金を使い果たし、独身のまま、東京オリンピックの年に新町で世を去った。以来、伊勢治田鉱山は廃れ、無数の坑道も落ち葉に埋もれた。当時、採掘された品位の低い鉱石が、精錬されぬまま三鉱谷上部に放置されているのがもの悲しい。
藍は、封建的な男尊女卑の価値観の色濃く残る地方で、維新の功臣の娘とはいえ、女性の身でありながら鉱山経営を行い、周囲から驚きの目で見られた。この時代の常として、男社会に出る女性の杭は容赦なく打たれる。藍には「男女両性の女山師」という尊称なのか蔑称なのか分からない呼称を奉られ、新町でも近づく者もなかった。
私は、鈴鹿の沢を過去に50回以上遡行し、青川・冶田峠筋にも5回ほど入渓している。青川登山道は、登山口からいきなり渡渉の連続で、増水時には膝下まで入水することになり普通のハイカーには厳しいコースである。しかし、多志田尾根や孫太尾根が石灰岩採取のために通行禁止となった今となっては、藤原岳南・東面のコースはここしか残されていない。
このコース沿いに、鈴鹿有数と思える優れた沢のバリエーションルートがある。銚子谷である。私は過去4回、銚子谷を遡行した。五代トンネルをくぐった先に冶田峠道と三鉱谷、桧谷、銚子谷の分岐があって、左にとると銚子谷である。出会いから結構厳しく沢登の醍醐味を十分に味わえる楽しいルートである。しばらくで落差15mほどの銚子大滝があって、右岸を巻くことになる。
私は、この巻きのトラバースで、4回のうち3回も山蛭にやられた。無事だったのは11月の遡行だけである。危険な高所のトラバース中、ルンゼに積もった落ち葉の中を沢タビで歩くと、チクッとした感触があって、「やられた!」と思っても、腰も下ろせず、危険で立ち止まるわけにもゆかない。そのままガラン谷に出て、銚子谷に戻るのだが、タビを脱ぐと数十匹の蛭が足に貼り付いていた。
その瞬間の気持ちは言葉では言い表せない。「ウワー」と声にならない叫び声をあげて駆け出したい気分である。戦争で被弾し、自分が致命傷を負ったことを知ったときの気分に似ているかもしれない。
貼り付いた蛭をそのままむしり取ると、口器が体内に残って必ず化膿する。塩をかければ一番よいが持参していない。自分の血でどんどん黒く膨れあがり、やがてポロリと落ちる蛭は山中で熊に遭遇するより始末が悪い。熊なら、見つけて「オーイオーイ」と優しく声をかければ何事もなくすむが、蛭は後がキツイ。出血が多く、なかなか治らない。それなのに私は懲りずに、その後も同じ場所で蛭にやられ続けた。
このとき、私は恐怖のあまりガラン谷を銚子谷と取り違え竜ヶ岳北峰に出てしまった。ガラン谷の源流は、ぽっかりと大きな口を開け、大量の水を噴き出す大きな洞であった。間違えたおかげで、帰路、青川に停めた自分の車に帰り着くのに苦労させられた。
この銚子大滝の上、恐怖の山蛭地帯、ガラン谷との出合の小さな平地に「オマキヶ根」という地名が残っている。ここには明治にオマキさんという女性が亭主と二人で小さな坑道を掘っていた。坑道を誰にも見せず、裕福だったことから、「オマキは金を見つけて貯めている」という噂が飛び交った。亭主の死後、オマキは流れ者と一緒になり何処かに去った。
村の者は付近を必死になって探したが、とうとう金も金鉱石も見つからなかった。私はガラン谷の源流にあった噴出洞こそ、オマキマブ(坑道をマブと言った)の水抜きではないかと思ったものだ。治田鉱山史に五代藍とオマキの名は、「女山師」の尊称とともに残っている。
明治末期、鉱業の衰退とともに、既存の鉱業設備を利用して新たな産業需要を開拓するための模索が続いた。ある者は藤原岳の膨大な石灰資源に目を付け、石灰岩を焼き、土壌改良材にすることを思い立った。これは、浅間山大噴火の降灰が伊勢にも及んだ際、灰被り地の収量が上がったことから、灰に肥料効果があることに気づいたと記されている。
大正・昭和の時代、この石膏肥料は濃尾・伊勢平野で広く利用されるようになり、土壌中和による農地の健全化に大きく貢献した。この石灰鉱業が後に白石鉱業や小野田セメント藤原工場になった。
だが一方で、産業によって失われた景観は絶対に取り戻せない。秩父の武甲山がそうであるように、藤原岳もやがてこの世から消えて行く定めにあるのかもしれない。武甲山では、もはや私の歩いた登山道は消滅している。藤原岳が同じ目に遭ったなら、どんなに悲しいことだろう。
前回は八重洲FT857で、買ったときは、ずいぶん高価だった。
車に入れてあったが、夜中、鍵がかかったまま盗まれた。鍵が壊された形跡がない。監視カメラがあったが、すべて盗まれたと思われる時間帯の映像が消えていた。
復活ソフトを使って復元してみたら、消えた動画が出てきたが、肝心の時間帯のファイルだけ壊れていた。
相当に高度な手口だ。朝からかかりきりだが、まだ時間がかかる。警察への複雑な手続きも必要なので、ブログを更新している暇がない。終わって時間があれば書くつもりだが、今日は30年前に書いた山ブログを再掲しておく。
犯人の見当はついているが、明瞭な証拠がなければ、警察はとりあってもくれないので、証拠の確保が大変だ。
このような窃盗犯罪の多くが、実は比較的近所の住人であることを知っておいた方がいい。
いろいろ、ひっくりかえしてるうちに、ダニの噛み跡だらけになった。梅雨はこれだからね……。バルサンも蚊取り線香も肺が悪いとダメージが大きいし、困ったもんだ。
****************************************************************
第一話 藤原岳(1165m)1991年
名古屋付近に住む山好きの人なら、日帰りで手頃なハイキング登山を楽しめる藤原岳を知らない人はいない。鈴鹿では、御在所岳の次に知られた山である。
山名の由来は、当然、麓の藤原町から名付けられたと思われ、少し調べてみた。
伊勢の国には本居宣長の影響を受けた国学の伝統が連綿と受け継がれ、優れた地方史が数多く、員弁には近藤杢・実親子がいて質の高い町村史や史談などが編纂されている。
この本には平安初期に藤原仲成が嵯峨天皇に謀反して都を追われ(810年、薬子の乱)、袴ヶ越と呼ばれた藤原岳野尻の山中に隠れ住んだことなどが記されていた。
805年に最澄が比叡山に延暦寺を開き、わずか2年後の807年、天台宗観音寺(現、聖宝寺)や大安寺が開山している。すでにこの頃、耕地に恵まれた員弁付近は先進的な地域になっていたようだが、藤原町付近が集落として成立するのは古文献によれば鎌倉時代以降のことらしい。
一帯を開いたのが藤原氏の後裔だったから藤原と名付けられたと考えるのが自然だが、調べてみると、藤原岳の名の方が古いと思われる資料も多い。藤原氏は「源平藤橘」四姓の実質筆頭であって、日本史上、最大の祖姓である。
私は、4~7世紀頃、天皇家の先祖とともに朝鮮半島から集団でやってきた鉄器と騎馬文化をもった民族の後裔と考えている。彼らは九州北部~若狭に至る山陰地方に上陸して拠点を置き、九州・山陽道・関西・東海道に強大な勢力を広げ、米作文化をもたらした中国江南系の先住弥生人と激しく争いながら権力の主導権を奪い、円墳を遺した弥生人系ヤマト王朝から、方形墳を遺した騎馬民族系大和王朝に権力を移し変えた。その血筋は、一貫して天皇家とともに日本の貴族・武家支配階級の本流にあった。
だが、藤原氏の祖とされる中臣鎌足が、高千穂降臨の案内役たる猿田彦命の随臣の第23世子孫と称したことは、藤原氏の出自に微妙な陰影を与えている。「大化改新」に大功のあった鎌足は、669年、天智天皇から居住地の奈良県高市郡藤原の地名をとって「藤原」姓を与えられ、これが全国の藤某姓の発端となった。
藤原以外にも藤のつく佐藤、伊藤、近藤、武藤、斉藤、藤井、藤田、藤村、また黒田、落合、星野などの姓も藤原氏の変姓と考えられている。いずれも日本史に頻繁に登場する最大級の姓名で、武家の先祖は大抵、この一族に行き着くのである。
かつて、私の仕事先に二之湯さんという珍しい名字の方がいて、出生地を聞いてみると藤原町であった。員弁街道沿いに同名の酒屋があった。この方は港でトラック運転手をしておられたが、風貌は人品骨柄卑しからず、濃い眉、優しく大きな目、エラの張った堂々とした人相で、剛胆にして沈着、まさしく古武士の風格をもった方であった。
過去に、私は藤原氏の子孫とされる遠州の京丸藤原氏や平泉藤原氏のご子孫も拝顔したことがあるが、いずれも上に書いた特徴をもち、古武士を連想させる風格をお持ちであった。天皇・秦氏・紀氏など騎馬民族・貴族系の人相は薄い眉、切れ長の一重瞼が特徴なのだが、私の知る藤原氏の後裔と思われる人々は、どういうわけか目が大きい二重瞼の人が多く、天皇系の血筋の外見的特徴と似ていない。あるいは蝦夷の血が入っているのであろうか。
女性では、縁があるかどうか不明だが、NHKアナの森田美由紀さんが藤原氏の女性ならこのような人相になるだろうと思うタイプである。
彼女は可愛いタイプの美人というわけではないが、若い頃から十年以上もNHKの顔としてメインアナを続けていることから分かるように、淑やかななかにも芯に強いものを秘め、誰からも信頼される確実な能力と冷静な胆力の持ち主に見受けられる。これほど安心して見ていられる人も少ない。私など、彼女のファンで名字が変わったら悔しい思いをするだろうと常々考えていた。未だに変わらないのは、本人には申し訳ないが、ファンとしては夢が醒めずにありがたい。
藤原町周辺には、こうした古武士的風貌と精神性をもった藤原氏の子孫が多いかもしれない。小さな山里なのに重厚な人物、とりわけ学者を多く輩出している。豊かな自然と伝統は大きな人間を生み出すのである。
ところで、鈴鹿や藤原岳の名は、いつ頃から現れるのだろうか。
近藤実著「員弁史談」によれば、天保7年(1830年)に発刊された木版地図に「藤原岳」の山名が記されていた。同図には鈴鹿山というのは仙ヶ岳付近にあたり、入道岳、冠岳(鎌ヶ岳?)、御三所岳(御在所岳)、国見山、釈迦岳、藤原岳、熊坂岳(御池岳?)、三国岳などが記されている。
また天明4年(1782年)桑名藩の文書にも藤原岳の名が記されていた。このあたりが判明している一番古い記録だが、実際には、それより遙かに遠い昔から藤原岳の呼び名が存在したことは疑う余地がない。したがって、この一帯が藤原氏後裔の居住地であったことは古くから知られていたようだ。
鈴鹿の地名考証も多説あり、今のところ「スズタケ」説が有力である。その冠名地域については、資料によってひどくまちまちで、鈴鹿峠付近・仙ヶ岳が鈴鹿山、藤原岳が鈴鹿岳になっていたりする。どうやら現在の鈴鹿連峰の広い範囲を指していたようだ。
藤原岳は、往古、その遠望によって袴之腰、あるいは袴ヶ越と呼ばれていた。
別に多志田山や野尻山の名も残っている。石灰岩採掘によって姿を変えた今では、どこが袴の腰なのか指摘するのも難しい。荒廃した採掘崖の全体像がそれに似ているような気もするが、明治時代に撮影された採掘前の藤原岳には、なだらかな多志田尾根が写っていて、今とかなり形が違っていた。あるいは、峠を意味する「越し」なのかもしれない。
冬の晴れた日なら、名古屋市内はもちろん、尾三平野の広い範囲から特異な山容を望むことができる。麓のセメント工場によって高度差800mにも及ぶ東側全面を削り取られた痛々しい姿が、「あれが藤原岳だ」と、どこからでも特定できる指標になっているのは皮肉なものだが、人は見える山、つまり「共通の話題にできる山」に登ってみたいのである。
深田久弥は、鈴鹿から御在所岳か藤原岳のどちらかを百名山に選びたかったと書いている。しかし、御在所岳は当時すでにロープウェイが設置され、山頂も遊園地化されるほど開発が進んでいたのと、藤原岳は標高や雰囲気がもの足らないという理由で、結局、鈴鹿からは選ばれなかった。
南の御在所岳と好一対、鉄道駅から直接登れるほど交通にも恵まれ、日曜祭日など登山道をすれ違うのにも苦労するほど大勢のハイカーが訪れる、名実ともに鈴鹿山脈を代表する山の一つなのだが、御在所岳が、その気になればロープウェイやリフトを利用してほとんど歩かずに登頂できるの対して、藤原岳は最寄りの西藤原駅の標高が160m、表登山道である大貝戸道から山頂までの標高差は1000mに及び、黙々と汗を流さなければ頂に立つことができない。しかも、御在所のように目を楽しませる派手な景観もなく、ありふれた杉の植林と地味な雑木の山肌が続くばかりである。
久弥の躊躇した標高の低さに騙されて、鼻歌気分で初登頂を目指した人々は、景観もなく暑苦しいばかりの登山道で悲鳴をあげることになる。中央高地の有名山岳でも標高差1000m以内で登れる山がいくらでもあるのだ。誰も、1000mそこそこの、こんな低山の登山道がこれほど苦しい登りだと思っていない。
だが、「山の真実の価値は標高や評判にあるのではない」と考える人々にとって、つまり「登った」という結果よりも、黙々と歩く過程を大切にする渋い登山観を持っている人にとっては、これはもう立派な価値ある山岳といえよう。
山頂に到着したつもりで避難小屋の付近を見回すと、真の山頂が、いったん深い笹藪を下った後、登り返さなければ辿り着けないことを知らされる厳しさも、渋さを増していてよい。そして、やっとの思いで登った山頂には、期待しただけの心地よさが待っているとはいえないが、苦労の分だけ納得できるものはある。
二十数年前の夏、私がはじめて登頂したときは、山頂の小さな禿地の石灰岩にマムシがとぐろを巻いて出迎えてくれた。冷や汗はかいたが、心地よい涼しさとはいいがたかった。
山頂からの眺望には見事な原生林もない、御在所のような迫力のあるアルペン的景観もない、背丈の低い雑木と笹藪の続く稜線を吹き抜ける風も中央高地のそれと比べて鈍くさく感じる。どうもすっきりしない、山の爽やかさがない、何かが違う。「この重い雰囲気はいったい何なのだ」と私は不思議に思った。
それでも、私は手頃で便利なこの山に四季折々、様々のコースから登った。通算では30回以上も登っているだろう。
20代の元気盛りのころは、登山口から山頂まで走るように駆け上がり、2時間を必要としなかった。40代になった今では、2時間でも登れなくなった。その代わり、若い頃には目に留まらなかった、目立たない良さ、美しさを堪能する心のゆとりもできた。
早春の雪割草、節分草、片栗、石灰岩質特有の北方系ラン科貴種植物、オオイタヤメイゲツの紅葉などが疲れた心を慰めてくれて、この山の良さをしみじみと味わえる年になっってしまったのかと、嬉しさよりも悲しみに似た感慨がある。
20年くらい前には、山野草を集団で盗掘して歩く善良な中高年のグループがたくさんあって、彼らによってこの山域のクマガイソウやエビネランなど貴種植物が根こそぎといっていいほど壊滅させられた。彼らに罪の意識はまるでなかった。彼らにとっては、「植物採集」という健康で高雅な趣味だったのである。
もちろん、冷涼で清浄な山上でしか適応できない北方系貴種植物が平地の民家で根付くはずもなく、盗掘した全員が枯れた鉢を抱えて恨めしげに見つめるだけの結果に終わっているはずである。
釣りブームがそうであるように、今、目先の小さな自分の欲を満たそうとするばかりで、すばらしい自然を保存し、後世の人々により楽しい思いをさせてあげようという自然保護意識に思いの至る人は少ない。「今自分が楽しめさえすればよいのだ、誰が他人においしいものを残してやるものか!」というのが正直な本音であろう。
そうした人々の多い結果、政府・役所が主導で、残り少ない自然の遺産を目先の利益のためにしゃぶり尽くそうとする浅ましい姿ばかりが目につくのは情けない限りだ。子孫のことを真剣に考える政治家・役人など見たことがない。これが、今日の日本のありのままの姿である。目や耳をを塞がずに事実を見つめよう。改革はさらけ出すところから始まるのだ。
開発を錦の御旗に掲げ、節度を知らず、心ある住民の顰蹙を無視して強引に進められた自治体の「開発事業」は、誰もが危惧し予想した通り、のきなみ無惨に挫折し、残った莫大な負債を住民に押しつけ、首謀者は責任逃れに汲々と喘ぐ今日なのだが、「国破れて山河あり」どころか、最後の拠り所の山河自体を壊滅させているのだから取り返しがつかない。
こうしたご時世に及んでも、いまだ貴種山野草採取を勧める雑誌が堂々と発刊されているのには恐れ入るが、最近では、登山道周辺をボランティアで清掃する人たちが増えたのを見て恥じるようになったのか、手にショベルをもって大きな袋を抱えた中高年の集団も滅多に見かけなくなった。もっとも、もはや彼らの立ち入れそうな場所の貴種植物は取り尽くされている。
沢登りの途中、危険な源流域で、細々と生き残ったこれらの貴種植物が再び増え始めているのを見つけると、ほっとした気分になる。壊滅したかと思ったクマガイソウの群落も復活しつつある。この分なら、何もかも失なわれたと思っても千年もすれば元通りになるかもしれない。馬や鹿より馬鹿な人間さえいなければの話だが。
私がこの山に登り始めた頃、東京から帰省した70年代はじめ頃のことだが、今の避難小屋の付近は戦前から続く皇族の名を冠したスキー場で、立派な登山・スキー小屋があり管理人さんもいた。当時は藤原岳大貝戸道上部で常襲雪崩による遭難の多発が問題になるほど冬季の積雪も半端ではなかったのだ。
すでにこの頃、スキーを担いで数時間も登らねばならない藤原スキー場は、歩かずにすむ便利な近在のスキー場に客を奪われて見向きもされなくなっていた。また、地球温暖化の影響を受けて日本全土に雪が少なくなり、スキーを楽しめるほどの深雪も見なくなった。古いスキー板が放り出された小屋は荒れるに任せ、やがて取り壊され、ある日、気がついたら跡地に立派な二階建ての避難小屋が建てられていた。
そのころ、一時的にクロカンスキーのブームがあって、私など古いワイヤ締めの山スキーしか持っていなかったが、クロカン気分でシールをつけて、この稜線を歩くのが楽しみだった。そして、いつでもスキー場を独占することができた。
何よりも登山しか知らないダサイ私は、カッコいい車に乗って原色に身を包んだ美女を引き連れてスキー場を闊歩する連中にひどい劣等感を感じていたから、連綿と続くこの稜線を、どこまでも果てなく一人で歩き続けたいと思っていたのだ。誰も見ていない厳しい稜線では肩身の狭い思いをしなくてすんだから。
広大な稜線を独り占めにして山スキーで歩くのは、すばらしく爽快である。条件がよければ、藤原山上から白船峠やコグルミ谷に至り、現在の伊勢幹線送電塔を縫うように冷川谷を降りたり、鞍掛峠からの306号線を滑り降りることもできたが、近年は雪不足のため自由に滑れるのは稜線近くに限られるようになり、やがて行きたいとも思わなくなった。
治田鉱山
藤原岳の行政区域は、三重県と滋賀県にまたがる。員弁郡藤原町・北勢町、神埼郡永源寺町で、三重県側が伊勢湾、員弁川水系の多志田川、青川の源流となり、滋賀県側が琵琶湖水系、愛知川支流、茶屋川の源流となる。
地図を見れば一目瞭然、明らかに、山域の広さの割に流出する沢が少ない。これは藤原岳周辺が有数の石灰岩地帯で、地下深く伏水流に穿たれた無数の洞水路が形成され、地表を流れる沢水を吸収してしまうためである。したがって、登山者にとっては水利の悪さが問題になる。山麓にはすばらしい湧水が多くあるのに、中腹より上では、ほとんど水を得られない。だから稜線上のキャンプは水を持ち上げねばならず大変である。
また、室町時代から大正時代に至るまで有数の鉱山であって、山麓から稜線近くまで「マブ」と呼ばれた無数の坑道が掘られ、内部で複雑に交錯し、それらも地下水路になっている。この周辺の沢登りのとき、思わぬ場所に坑道の水抜き穴と思われる湧水洞を発見することがある。
藤原岳周辺の鉱業地を総称して「冶田(はった)鉱山」という。鉱山諸業の中心地となったのが現在の北勢町新町、昔の冶田村だったからである。江戸時代の一時期、生野銀山や別子銅山と肩を並べるほどの銅の産出があったと記録されている。
治田鉱山の歴史には、信長の妹、お市の孫娘であり、家康の孫娘でもある千姫の物語が登場する。千姫の母は淀君の妹「お江」で、父は2代将軍秀忠である。家康は治田鉱山の運上金を、秀頼の自害した大阪城から救出され、桑名藩、本多忠刻に再降嫁した千姫の化粧料として与えた。
このため、治田郷は江戸時代、近在から独立して特異な地位を保ち続け、戦後も、異常に大きな入会区を所有することになり、員弁郡では際だって豊かで恵まれた地域になった。
主な採掘場所は、セメント用石灰採掘で無残な姿をさらす藤原岳多志多尾根の多志田山、大貝戸道付近の野尻山、青川から冶田峠に至る青川左岸、孫太尾根付近の南河内山、冶田峠を越えて茨川に下った付近の藤原岳西尾根、蛇谷山などであった。(この「山」は「鉱山地」という意味で、頂上ピークを指すわけではない)
鈴鹿山地を歩く登山者で、この山域に壮年樹林の少ないのを訝しむ者が多い。山麓から山頂に至るまで、戦後の杉の植林以外に大規模な森が見あたらない。どこを向いても短年齢の藪山ばかりである。
これは、戦時中の無謀伐採もあるが、治田鉱山に莫大な量の木炭と柱材を必要としたことが主な理由であろう。鈴鹿山地の至る所の沢筋に炭焼き竃の痕跡があり、雑木は木炭に加工されて銅精錬のための還元性燃料として利用され、ブナや針葉樹は坑道の支木として利用された。
私は日本中の山を歩いたつもりだが、樹林の薄い山々を見かけると、まず鉱山と窯業を疑う。両者とも莫大な木材を消費して森林の幽玄な姿を奪う。窯業の場合、陶土になる花崗岩質の土壌と火力を求めるために松材を植林する傾向があるので見当がつく。鈴鹿の場合は、両方とも混在し、南方、四日市方面の山では万古焼きの燃料として利用され、伐木跡地にはやはり松材が植えられている。北方の森は治田鉱山に利用されたであろう。
足尾や古河を見れば分かるように、銅精錬の煙には強烈な毒性があり、付近の樹木は立ち枯れる。最盛期の往時には、藤原岳・治田峠一帯は毒煙によって荒廃した死の山と化し、見渡す限り草木が生えぬ不毛の荒山になっていたであろう。
私が、初めて登った藤原岳で感じた光景の重さは、こうした自然に対する人為的迫害の歴史の重さではなかったか。人によって迫害された自然に幽玄や美を感じ取ることはできない。人の心を癒してくれる豊かな景観がない。藤原岳は癒えきっていないのである。
集められた鉱夫たちは、主に多田銀山(兵庫県猪名川町)の者が多かった。多田銀山にあった甘露寺が死亡鉱夫の供養のために青川上流の三鉱谷付近に開山したほどで、後に衰退に伴って新町に移転した。新町付近に住み着いた者の多くが、鉱山とともに全国を渡り歩いた者の子孫で、幕府直轄領、桑名藩領、忍藩領と所属が転々と変わったこともあって、伊勢冶田郷は周辺郷から独立した特別な扱いを受けた。
もっとも盛況を見たのは寛保・延享の1740年代で、全国有数の銅産出があったが、その後、目立った産出は記録されていない。多くの山師が一攫千金を当てこみ、夢破れては去っていった。
治田鉱山は400年間にわたって銀銅産出の盛衰を繰り返し、大正年間、維新に活躍した鉱山師、薩摩の五代友厚の二女、藍による大規模な試掘を最後に幕を閉じた。
現在、青川・冶田峠登山道に残る手掘りのトンネルは、明治の末に五代藍の資金で掘られたものである。目的は険悪な青川隘狭部迂回路を短縮し、三鉱谷上部から孫太尾根を突き抜ける水抜きを兼ねた大坑道を掘って、水没放棄された過去の坑道を生かすとともに新鉱脈を得ることだった。
だが、この坑道試掘が670m進んだところで、藍は父から譲られた資金を使い果たし、独身のまま、東京オリンピックの年に新町で世を去った。以来、伊勢治田鉱山は廃れ、無数の坑道も落ち葉に埋もれた。当時、採掘された品位の低い鉱石が、精錬されぬまま三鉱谷上部に放置されているのがもの悲しい。
藍は、封建的な男尊女卑の価値観の色濃く残る地方で、維新の功臣の娘とはいえ、女性の身でありながら鉱山経営を行い、周囲から驚きの目で見られた。この時代の常として、男社会に出る女性の杭は容赦なく打たれる。藍には「男女両性の女山師」という尊称なのか蔑称なのか分からない呼称を奉られ、新町でも近づく者もなかった。
私は、鈴鹿の沢を過去に50回以上遡行し、青川・冶田峠筋にも5回ほど入渓している。青川登山道は、登山口からいきなり渡渉の連続で、増水時には膝下まで入水することになり普通のハイカーには厳しいコースである。しかし、多志田尾根や孫太尾根が石灰岩採取のために通行禁止となった今となっては、藤原岳南・東面のコースはここしか残されていない。
このコース沿いに、鈴鹿有数と思える優れた沢のバリエーションルートがある。銚子谷である。私は過去4回、銚子谷を遡行した。五代トンネルをくぐった先に冶田峠道と三鉱谷、桧谷、銚子谷の分岐があって、左にとると銚子谷である。出会いから結構厳しく沢登の醍醐味を十分に味わえる楽しいルートである。しばらくで落差15mほどの銚子大滝があって、右岸を巻くことになる。
私は、この巻きのトラバースで、4回のうち3回も山蛭にやられた。無事だったのは11月の遡行だけである。危険な高所のトラバース中、ルンゼに積もった落ち葉の中を沢タビで歩くと、チクッとした感触があって、「やられた!」と思っても、腰も下ろせず、危険で立ち止まるわけにもゆかない。そのままガラン谷に出て、銚子谷に戻るのだが、タビを脱ぐと数十匹の蛭が足に貼り付いていた。
その瞬間の気持ちは言葉では言い表せない。「ウワー」と声にならない叫び声をあげて駆け出したい気分である。戦争で被弾し、自分が致命傷を負ったことを知ったときの気分に似ているかもしれない。
貼り付いた蛭をそのままむしり取ると、口器が体内に残って必ず化膿する。塩をかければ一番よいが持参していない。自分の血でどんどん黒く膨れあがり、やがてポロリと落ちる蛭は山中で熊に遭遇するより始末が悪い。熊なら、見つけて「オーイオーイ」と優しく声をかければ何事もなくすむが、蛭は後がキツイ。出血が多く、なかなか治らない。それなのに私は懲りずに、その後も同じ場所で蛭にやられ続けた。
このとき、私は恐怖のあまりガラン谷を銚子谷と取り違え竜ヶ岳北峰に出てしまった。ガラン谷の源流は、ぽっかりと大きな口を開け、大量の水を噴き出す大きな洞であった。間違えたおかげで、帰路、青川に停めた自分の車に帰り着くのに苦労させられた。
この銚子大滝の上、恐怖の山蛭地帯、ガラン谷との出合の小さな平地に「オマキヶ根」という地名が残っている。ここには明治にオマキさんという女性が亭主と二人で小さな坑道を掘っていた。坑道を誰にも見せず、裕福だったことから、「オマキは金を見つけて貯めている」という噂が飛び交った。亭主の死後、オマキは流れ者と一緒になり何処かに去った。
村の者は付近を必死になって探したが、とうとう金も金鉱石も見つからなかった。私はガラン谷の源流にあった噴出洞こそ、オマキマブ(坑道をマブと言った)の水抜きではないかと思ったものだ。治田鉱山史に五代藍とオマキの名は、「女山師」の尊称とともに残っている。
明治末期、鉱業の衰退とともに、既存の鉱業設備を利用して新たな産業需要を開拓するための模索が続いた。ある者は藤原岳の膨大な石灰資源に目を付け、石灰岩を焼き、土壌改良材にすることを思い立った。これは、浅間山大噴火の降灰が伊勢にも及んだ際、灰被り地の収量が上がったことから、灰に肥料効果があることに気づいたと記されている。
大正・昭和の時代、この石膏肥料は濃尾・伊勢平野で広く利用されるようになり、土壌中和による農地の健全化に大きく貢献した。この石灰鉱業が後に白石鉱業や小野田セメント藤原工場になった。
だが一方で、産業によって失われた景観は絶対に取り戻せない。秩父の武甲山がそうであるように、藤原岳もやがてこの世から消えて行く定めにあるのかもしれない。武甲山では、もはや私の歩いた登山道は消滅している。藤原岳が同じ目に遭ったなら、どんなに悲しいことだろう。