玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

「市史」に見る川崎平右衛門と小金井桜、加藤嘉六

2023-09-03 22:07:16 | 意見・エッセー

海岸寺

 小金井橋近くにある「海岸寺」に、小金井桜の由来が書いてある「小金井桜樹碑」と言う石碑があることは以前から知っていましたが、漢字ばかりで手に負えないと思い敬遠してきました。最近碑は誰が建立したのか気になり始め、インターネットで検索してみました。それによると建立者は川崎平右衛門正孝(こちら)の孫平蔵と大久保狭南の娘婿石永貞子亭(ていしてい)と分かりました。



小金井桜樹碑

 碑文のいくつかは玉川上水や小金井桜に興味がある方はご存知と思いますが、サクラの花びらが水毒を消すと言う効用(非科学的)や、サクラの根が土手の崩落を防ぐ、花の盛りに人の目を楽しませてくれる、五日市街道の夏の往来には旅人に休憩の場をもたらす、など恩恵について書かれているとのことでした。しかし最も重要なことは小金井桜植樹の由来に始まり、桜花の賞賛、川崎平右衛門の功績が記されているとのことです。

 今回ネット検索によって、この碑文の元となったものは寛政9年(1797)に刊行された大久保狭南(漢学者)の「武野(ぶや)八景」で、「金橋桜花」(小金井橋から眺めた桜並木)、「六所挿秧」(現府中市)、「立野月出」(現国分寺市)、「玉川観魚」(現日野市)など武蔵野の八景が紹介された名所案内紀行文を編纂したものであることが分かりました。そして、この「武野八景」刊行以降「小金井桜」が江戸の町に知れ渡るようになったと書かれています。では碑文にはどう書かれているか見てみましょう。

武州多摩郡。玉川上水。小金井橋上下両岸桜樹。有廟時。川崎平右衛門定孝之所種。大凡古者十里餘。今二里間千株餘云。初定孝。及武野墾闢役。與而有功。遂解褐司郡。於是乎。請而承 朝命。採芳野及諸邦名種。雑種之。  以下省略

 訓読が併載されていますので、分かりやすく記します。

 武州多摩郡玉川上水の小金井橋、上下両岸の桜樹は有廟(徳川吉宗・有徳院)の時、川崎平右衛門定孝の種(う)うる所なり。大凡古は十里余と云う。初め定孝、武野墾闢(武蔵野新田開発)の役に及び、与(あずか)って功有。遂に褐(粗服・低い身分)を司郡(代官)に解く。是に於うて(おいて)朝命を承り、芳野(大和吉野山)及び、諸邦の名種を採り、之を雑(まじ)へ種(う)う。郡民子来し風職亟に畢る(植樹は地域住民も加わって行われたの意)。実に元文二年(1637)丁巳の歳也。其の挙は、衆根(多根)の深く堤中に入りて、長に壊闕の患無からんことを慮る。則ち両岸の樹数均しくして、南岸は葉茂り、北岸の花の盛りなるは豈徒ならんや。其の陰陽を相、其の便宜を度り、春は艶陽に随って往来の目を悦ばしめ、夏は炎光障り、行旅を憩わしむ。且つ開花は鮮美、映じて清潔を加う。落英(花びら)繽紛、浮んで汚穢せず。且つ又吾が東方(江戸)の医家、一二(僅か)の方函(処方)に桜じょ(桜の皮)及び花、を総て解毒の剤に用うれば則水毒も亦解くべしと。況や両岸の千株相蔭暎し、直流して径に東都に入れば何の毒か之有らん。億兆(万民)の餐炊の用、煎茶第一の水、鬼神に薦め、公侯に羞むる所なり。誠忠にして心を用うるは、仁政の一助に庶(近)からん。前こと十余年、余、娘婿石子亨を誘い、郷里親旧と多摩郡中の名区(名勝)を歴覧し、優たる者八所を撰び、子亨と其の目(題辞)を議定し、各に題辞を附し、事実を審にす。その一つ金橋桜花、即ち此所也。遂に題して武野八景と為し、梓(出版)し以て世に公す。是に於いて、人は奇勝察し、一覧せんと欲する者尠なからず。爾後、遊人春毎に相倍(二倍三倍)し、野路綿綿、人肩摩し、馬蹄連なる。騒人詩客(文人)の吟詠相競い、異説稍間起す。余、吾が題辞の相混乱して、以て鹵莽(粗略)と為さんことを恐れ、子亨と同く、定孝の孫川崎平蔵を押立村に就き、終始を質訪し、三人相謀りて石に刻し、違を永世に防がんとす(多くの文人らが来訪することで、異説が間々生じる状況になることを危惧し、異説を永久に防ぐことを目指したの意)。銘に曰く。

「武野八景」刊行 寛政9年(1797)、「小金井桜樹碑」建立 文化7年(1810)

 ここで思い出したのが、小金井桜の川崎平右衛門説には明確な資料(幕府の記録)がないという話です。年代を調べてみると、この書は川崎平右衛門没後30年、この地を離れて50年後に刊行されています。

小金井市教育委員会刊「名勝小金井 桜絵巻」小金井桜年表には

元文2年(1737)府中押立村名主川崎平右衛門定孝。幕命により武蔵野新田地先の玉川上水両岸に山桜を植えたと言われる。また、延享4年(1747)この頃まで小金井堤に桜を植え続けたといわれる。

 とあります。また、昔から小金井市のチラシや冊子などの刊行物や新聞などのマスコミには必ずと言ってよいほど、上記のように説明され続けて来ました。そこで、小金井桜川崎平右衛門植樹説の根拠を調べてみることにしました。

「小平市史 近世編」と「小金井市史 資料編 小金井桜」

 先ず、「小金井市史 資料編 小金井桜」では後半の解説 Ⅰ近世の小金井桜(2)桜樹の植栽

玉川上水堤に初めて桜並木が造成された当時の文書は未だ発見されていない。

「御代官川崎平右衛門発起書」(資料20)には

「関前新田より上鈴木迄、上水堀に添う道手の山方、五日市辺よりの江戸道について、凡そ二里程の間の上水堀際に桜並木を仕立てた。是は(花見に)差し向く人出があり、新田の賑わいの為に植付けさせた」

と記されている。また享和3年(1803)、多摩郡野口村(現東村山市)在住の八王子千人同心小島文平は「玉川上水起元卉に野火留分水口之訳書」(資料21)に、

平右衛門殿が官命によって和州吉野・常州桜川等の桜の実を蒔き、上鈴木新田より梶野新田の辺迄、御上水の両縁一里二十四町の間に植えた。利左衛門(鈴木新田名主)も実を蒔き苗を仕立て植えたが、これは有徳院様(徳川吉宗)が内々に好まれたもので、上意により新田掛の町奉行大岡越前守殿が差図して植えたと聞いている。

と記している。

桜樹植栽の経緯とその年代については、江戸時代の地誌や紀行文にも様々な記述がみられる。寛政7年(1795)、石子亨は、「武野遊草」(資料74)に土地の古老から聞いた話として川崎平右衛門が元文の頃に植えたと記している。なお、(中略)

 小金井桜の植栽年代には寛永(1624~1644)・承応(1652~1655)・享保(1716~1736)等の異説もあったが、文化七年(1810)建立の「小金井桜樹碑」(資料127)に、元文二年(1736)に幕府の命により川崎平右衛門が植えたこと、土手の保護や水毒を消す等の目的があったことが刻まれた。以来、近代に至るまで多くの文献がこの碑の存在に触れ、碑文全文を掲載する文献も見られる(資料69, 104)。こうして小金井桜の元文二年起源説が定着していったが、「小金井市誌Ⅱ 歴史編」では元文年間(1736~1741)は早きに失するとして、寛保年間(1741~1743)が妥当であろうとしている。

 以上のように桜樹の最初の植え付け時期や具体的な経緯については、関係文書の出現を待たなければならないが、~以下省略

 この件について、小金井市生涯学習課文化財担当高木翼郎氏は、川崎平右衛門説の資料(幕府の記録)がないことは知っているとの回答でした

 一方、「小平市史 近世編 川崎定孝の桜植樹」には

元文検地(元文元年、1736)ののち、新田世話役の川崎は、新田開発と並行して、玉川上水の両岸に桜を植える政策を実施した。これが、今日の「小金井桜」の発端とされる。中略

しかしこの桜の植樹については、不明な点が多い。まず、いつ植えたか様々な説がある。(それぞれの解説は省略)①寛永年間(1624~44)説(最も古い) ②承応3年(1654)説 ③寛文10年(1670)説 ④享保年間(1716~36)説 ⑤元文2年(1737)説 ⑥元文3年(1738)説 ⑦元文年間(1736~41)説 ⑧元文~延享年間(1736~48)説 ⑨寛延年間(1748~51)説 

 以上のように桜の植樹については、寛永年間から寛延年間まで幅広い説がある。このうち④~⑧はいずれも吉宗の享保の改革の時期であり、享保有力説の根拠となっているが、すでに近世において桜の植樹の時期を特定することは難しくなっていた。

と明解に書かれているとは驚きでした。

 小金井桜はかつて名所と言われるほど見事な桜花を咲かせたのであるから、その歴史を全否定するつもりはありませんが、川崎平右衛門が植えたと言う説は情報の乏しい時代、村人の言い伝えによって培われたものではないかと思われ、幕府の公式記録がない事実は静かに浸透して行って欲しいものだと思っています。

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参考資料

小金井市史 資料編 小金井桜、平成21年(2009)3月31日 小金井市発行
小平市史 近世編、平成24年10月20日 小平市発行
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