歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

長野県中野市 立ケ花表遺跡 須恵器の窯跡出土

2008年09月11日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは10日、立ケ花表遺跡で、8世紀後半ごろ(奈良時代後半~平安時代初め)とみられる須恵器の窯跡3基が出土したことを発表した。
 うち1基は、傾斜を利用した、長さ12・4m、幅1・6-2m、深さ40cm。焚き口から木を燃やす部分までは傾斜、須恵器を焼いたとみられる部分は平たんなのが特徴でこのような形態の窯は県内では初めてとしている。
 同遺跡は高丘丘陵の東側斜面に位置。この丘陵には、ほかに17遺跡あり約50基の窯跡が出土しており、須恵器生産の拠点と位置付ける。
 同センターは13日午前9時半から正午まで、現地地説明会を開く。
[参考:信濃毎日新聞]

 立ケ花表遺跡は昭和44年12月に発見された。1号址は大破されていたが、糸切底を持つ残存遺物が見つかっており9世紀初頭の窯跡、2号址はヘラ起こし底であることから8世紀末葉と推定された。2号址上方約22mのところに2基の窯跡(3号址、4号址)があることがわかった。
[参考:中野市立ヶ花表山古窯址調査/金井汲次氏]
 同遺跡は、7本の銅戈が出土した同市柳沢遺跡の南南東3kmの位置にある。

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発掘された日本列島2008 寺福童遺跡 銅戈

2008年08月24日 | Weblog
 福岡県小郡市寺福童の寺福童(てらふくどう)遺跡では、2004年7月に弥生時代の銅戈9本(全長40cm)が見つかった。
 当時の人達が銅戈を繰り返し埋め直す祭祀を行っていたとみられることが昨年の調査で分かった。
 銅戈は五穀豊穣を祈る農耕の儀式に使われていたとみられる。
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宗像市・田熊石畑遺跡 弥生中期の青銅武器が出土 一墳墓から全国最大の数

2008年06月21日 | Weblog
 福岡県宗像市は21日、同市田熊2丁目で発掘調査を進めていた弥生時代の「田熊石畑(たぐまいしはた)遺跡」の墳墓から、同時代中期ころ(約2200年前)の青銅器の細形銅剣4本と銅戈1本が出土したと発表した。
 弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
 銅剣は長さ27‐43cm、銅戈は長さ24cmで、武器として実用的な細形。
 性別は分からないが頭骨とともに深さ約80cmの土中で見つかった。
 被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。
 近くから装飾品の翡翠製垂飾1点、碧玉製管玉十数点も発掘された。これらは髪飾りだった可能性がある
 墳墓は南北に縦2m、幅70cm、高さ80cmで、木棺墓か土壙墓かは断定できない。
 北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代、国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、福岡市早良区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」と福岡県古賀市の「馬渡束ケ浦遺跡(まわたりそくがうら)」で、銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
 中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。

専門家の意見
 柳田康雄・国学院大教授(考古学)「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」
 九州歴史資料館・西谷正館長「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」
[参考:西日本新聞、読売新聞]
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中野市・柳沢遺跡 昨年10月・11月に出土した大阪湾型とみられた銅戈7本のうち1本は九州型と判明

2008年03月01日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは、昨年末に同遺跡から出土した「銅戈が形状の異なる2種類があったことを発表した。同時に見つかったのは国内で初めてという。 出土した7本(22~36cm)のうち長さ34cmの1本が、刀に刻まれた「樋と呼ばれる2本の溝が杉の葉のような「綾杉文という文様が刻まれており、 「Vの字形に先端でくっついた九州型。残りの6本は、「ハの字形に先端で離れている大阪湾型であった。 九州型は、広島県、高知県までの西日本で出土する一方、大阪湾型は近畿地方で出土し、同時に出土した例はないという。 また、同時代の祭器「銅鐸《も確認され、銅戈と一緒に出土するのは東日本で初という。いずれも、紀元前2世紀ごろに作られ、紀元前後に埋められたとみられる。
[読売新聞、朝日新聞、共同通信]
 昨年、同遺跡からは銅鐸片2点が出土したが、調査の結果2点は一致することが分かった。周囲の土を落とした結果、胴体部分の鐸身(たくしん)に「流水文があり、上部のつり手の部分に縁があることなどから、比較的古い型の「外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)1式とした。
[信濃毎日新聞 2008.3.1]

<これまでの発見の経緯>
 弥生時代の「銅戈《(大阪湾型)2本出土    2007年10月23日
 銅鐸と銅戈5本、一緒に埋紊 東日本初、長野・柳沢遺跡  2007年11月1日
 新たに青銅製祭器「銅鐸(推定高さ20cm)の破片2点と銅戈5本が見つかった。銅戈はやりの穂先に似た形で、大阪湾周辺で多く見つかっている「大阪湾型とみられる。 → このうちの1本は今回、九州型と分かった(H20.2.28)
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