歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大洲市・如法寺 毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像と判明

2018年10月02日 | Weblog
 奈良国立博物館は1日、愛媛県大洲市の如法寺が所蔵する毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像であることが分かったと発表した。 別の仏像の調査で偶然見つけ、CTスキャンなどを使い調査を行ったという。
 像は高さ約28cmで、木粉などを混ぜた漆を塗った木心乾漆造りだった。心木と乾漆の間に麻布が張られていることもわかった。
 甲冑を身に纏い、左手で宝塔を捧げ持ち、振り上げた右手には戟(げき、武器)を持ち、斜に構える姿。両足は2体の邪鬼を踏みつけている。
 乾漆造りが奈良時代に流行したことや、甲冑を纏っている点、彩色の技法などから奈良時代中期(8世紀半ば)頃と判定した。
 如法寺に伝わる地誌「富士山志(とみすさんし)」では、江戸時代に大洲藩士が大坂勤めの時、奈良・信貴山(朝護孫子寺)で出会った僧侶から毘沙門天立像を譲り受け、藩主の菩提寺である同寺に寄進したとの記述がある。
 仏像は奈良国立博物館の「なら仏像館」で公開されている。
[参考:共同新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、NHKニュース]


追記 2018.10.3
芸大コレクション展を観に行ったところ、ちょうど芸大保管の木心乾漆造月光菩薩像が展示されていました。
東京国立博物館保管日光菩薩像とともに、もとは京都・高山寺蔵薬師如来像と一具をなしていたそうです。
これらは京都府亀岡市・金輪寺の旧像と伝わります。
製作時期は如法寺の毘沙門天立像よりやや新しく8世紀後半とみられています。
芸大コレクション展は11月11日まで芸大美術館で開催されています。


過去の関連ニュース・情報
 亀岡市・金輪寺
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亀岡市・佐伯遺跡 奈良時代創建の寺院跡か

2018年01月20日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、亀岡市稗田野町の佐伯遺跡で、奈良から平安時代の柱穴や大量の軒丸瓦や、仏塔を模した土製の「瓦塔(がとう)」の一部が見つかったと発表した。寺院の痕跡と見られる。
 佐伯遺跡は縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡で、調査は2015年度に始まり、奈良時代に役所があり集落が形成されていたと推測されている。
南北に並ぶ方形柱穴(一辺1m弱)10個を南北24mにわたり連なって確認。東西には柱穴がないことから、建物ではなく比較的規模の大きい塀があったと考えられるという。付近からは瓦塔の屋根の一部や、蓮華紋が刻まれた軒丸瓦や丸瓦など大量の瓦が出土した。瓦塔や瓦の形式などから8世紀の奈良時代から9世紀の平安時代前期にかけの遺構とみられる。綾部市の綾中廃寺(注)と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられるという。
 約100m離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。
 同市内ではこれまで、丹波国分寺・国分尼寺を中心に4カ所で古代寺院跡が出土しており寺院や役所のある佐伯遺跡は地域の拠点だった可能性があるとみている。
 20日午前10時半から現地説明会がある。
[参考:京都新聞、産経新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報 
2017.1.⒛ 佐伯遺跡で奈良時代の建物跡など出土
佐伯遺跡で、奈良時代の掘っ立て柱建物跡3棟が見つかった。建物跡は方位を北にそろえて建てられていた。
 蹄脚円面硯(ていきゃくえんめんけん、直径約20cm)や、「正福」と記された墨書土器も見つかった。
 ほかにも平安時代の掘立柱建物跡2棟や緑釉陶器などが発掘された。[参考:朝日新聞]

(注) 綾中廃寺
綾部郷の中央部には七堂伽藍のあった所という伝承があり、近からは古代寺院の礎石や軒丸瓦・同平瓦、風鐸の風招(銅製)、須恵器などが出土している。 軒丸瓦のうちには山田寺式(7世紀末)と藤原宮式(8世紀初)のものがある。

佐伯遺跡の西北約5kmのところにある、天台宗神尾山金輪寺(亀岡市宮前町宮川神尾山)は延暦2年(783)に西願上人により創建というので、気になる寺院である。日本最初の医学書『医心方』を著した丹波康頼(912-995)の五輪塔があり、本尊の薬師如来像は、康頼の六代後の基康が康頼の念持仏を胎内に納めたものを寄進したと伝わる。
現在、東京国立博物館「仁和寺と御室派のみほとけ」展で「医心方(巻一、巻九)」(12世紀、国宝)が展示されている。

2018.1.30追記
約1か月後に、東大寺二月堂で行われるお水取り(修二会)、それに先がけて若狭のお水送りの行事が行われる。
いろいろと調べていくと、若狭神宮寺(神願寺)と和久寺(福知山市)、綾中廃寺(綾部市)、佐伯遺跡(亀岡市)から出土する瓦が、各々同型の瓦、すなわち山田寺式(7世紀末)ないし藤原宮式(8世紀初)が出土している可能性がある。より詳しい資料を探してみたい。

<佐伯遺跡>柱穴や軒丸瓦出土 奈良〜平安の寺院か 亀岡 /京都

佐伯遺跡地図


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木津川市・文廻池遺跡 須弥山を表す三彩陶器が出土

2008年08月12日 | Weblog
 京都府木津川市の文廻(ぶんまわし)池遺跡(現在、馬場南遺跡)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。
 今回見つかった陶板の中には縦約15cm、横20cmの大きなものもあり、波や流れる水、雲など、須弥山特有の文様が描かれていた。大きな陶板は今のところ数点、小片は数十点。
 組み立てると高さ数mの須弥山の工芸品になるとみられるが、仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。
 三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
 現場は平城宮跡の北東約5km。約5千㎡の住宅予定地を京都府教委などが調査している。土器や瓦から、奈良時代・8世紀中頃~後半の仏教施設や儀礼場の跡とみられる。近くでは、高句麗系とみられる飛鳥時代・7世紀初めの最古級の高麗寺跡(国史跡)があり、聖武天皇が都を置いた恭仁京(740~44年)の宮殿跡もある。
 同じ場所から、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡や「神尾寺」と書かれた墨書土器も出土している。
 現地を訪れた考古学者は「三彩は、代表的な寺院跡からでも数点見つかるかどうかだ。驚いている。平城宮と同じ瓦も見つかり、かかわりが考えられる」と話している。

〈須弥山〉インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
[参考:朝日新聞]

備考
①三彩陶器/須弥山模様
 須弥山模様の三彩陶器は、松阪市伊勢寺町の伊勢寺廃寺でも出土されている。
 三彩陶器は小さい壺などが一般的であるが、須弥山を具現化したものか、あるいは仏像の台座ではないかと考えられている。時期も8世紀中頃から後半。奈良三彩らしい。
②神尾寺
 墨書土器に書かれた神尾寺を近辺で見つけるのは難しい。長岡京跡をさらに越えて150km先の亀岡市にある、金輪寺(きんりんじ)の裏山にあった神尾山城は別名神尾寺城とも本目城ともいう。天正年間(1573-1592)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったというが、この本目城とは神尾山城を指すと推定されている。当時神尾山は本目庄の中にあったからである。金輪寺は山号を神尾山といい、天台宗として延暦2年(783)に西願上人により創建され、一時衰退するが、寛治年間(1087~1093)に明恵上人により再興され、堂宇が建ち並び隆盛を極めたという。今は本山修験宗に属する。
 創建時期の783年頃、あるいは正式名がまだ決まっていなかったそれ以前の段階では神尾寺と称したのではないだろうか、それとも別の近い場所に神尾寺と呼んだ寺院があったのであろうか。


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