歴歩

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明日香村・石神遺跡 湖西古窯跡群産の須恵器が初出土

2018年04月13日 | Weblog
 奈良文化財研究所(奈文研)の調査で、天武天皇が築いた飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)時代に官庁があったとみられる明日香村の石神遺跡で、静岡県浜名湖西岸の湖西古窯跡群産の須恵器が供膳具(食器)として使用されていたことがわかった。
 湖西古窯跡群の須恵器は関東の集落などで多く出土しているが、飛鳥での供膳具としての使用が明らかになったのは初めて。
 石神遺跡から出土した飛鳥浄御原宮期とみられる須恵器の産地を分析したところ、調査対象の約4%、供膳具に限ると5%弱を湖西窯産が占めていた。 尾張産の須恵器が多かったという。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報 
 湖西古窯跡群
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牧之原市・白百合遺跡 榛原庁舎で土器(壺)棺、長頸瓶、山茶碗など出土品を展示中

2010年04月21日 | Weblog
 しずおかKさんから「牧之原市・白百合遺跡」のトラックバックをいただいた。
 牧之原市というとピントこない。それもそのはず、筆者が知っているのは相良町の時代。2005年に榛原町と合併して牧之原市になった。
 相良町の頃には、150号線沿いの手打ちそばや「はしもと」でよく昼食を摂った。特に、大根おろしがたくさん入った「おろしそば」が好物だった。今頃の時期は新芽の出た茶畑が鮮やかだし、6月になると「大鐘家」(国重要文化財)のあじさいがきれいである。 (写真は大鐘家の裏山に咲くあじさいから片浜海岸を観た方向にかけて)
 さて、白百合遺跡の出土展は牧之原市長・西原しげき氏もブログで書いている。市には専門の調査員が一人しかいないと。朝日新聞では、市教委の学芸員・松下善和とフルネームで紹介している。

 新聞記事を総合すると、
 牧之原市静波地区の弥生時代~中世の複合遺跡「白百合遺跡」から出土した土器など30点が、16日から榛原庁舎の2階ラウンジで公開されている。(5月20日まで) 弥生時代に作られたとみられ、乳幼児の遺体を入れたらしい高さ約70cm、直径50cmの大型の珍しい土器(壺)棺も展示している。
 同遺跡は市内を流れる勝間田川下流部の東岸にあり、東に標高87.1mの龍眼山、西に標高64.5mの牧ノ原台地から延びる秋葉山丘陵に挟まれた標高3m程の海浜平野の砂堤(さてい)列上に形成されている。市道建設工事で2008年度に約2千㎡の砂地部分を調査し、遺構が見つかった。
 弥生時代後期(3世紀)とみられる遺構では、倉庫と考えられる掘っ立て柱建物を中心に4カ所の竪穴住居跡を確認。土器(壺)棺は、同中期の方形周溝墓といわれる墓の周辺部から見つかった。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]

次は、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」を参考にすると、
 弥生時代の土器は、東遠江系の形態を示す土器が大半であるが、一部には駿河系の土器も出土している。登呂遺跡に代表される駿河地方の影響を受けた集落であることが伺われるとしている。
 奈良時代の竪穴住居跡内からは、8世紀代の土師器壺・甕や須恵器坏蓋・長頸壺が出土している。
 中世の遺構では、平安時代末から鎌倉時代までの集落にかかわる掘立柱建物跡や井戸、溝などを確認した。山茶碗と呼ばれる青灰色の器(碗、皿)が出土した。これらは勝間田川上流勝間田城(注1)跡の南斜面に所在した土器谷古窯(どきやこよう)で焼かれた製品が多く見られた。この山茶碗から、当時の人々の勝間田荘園内での生産と消費による物流の一端を伺い知れるとしている。
[参考:、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」]

(注1) 勝間田城跡: 勝間田城は、応永年間(1394年~1428年)に勝間田定長が築城したとされ、平安時代末期より室町時代中期にかけてこの地方を治めた豪族、勝間田氏の本拠地であったとされる。
 『保元物語・上/主上三条殿に行幸の事』に、「(源)義朝に相随手勢の者は、(略)、遠江には横路(横地)、勝間田、井の八郎、(略)を始として、(略)、2百5十余騎にて馳向かう。」とある。この、横地氏は一説に、源義家と相良庄の藤原光頼(相良太郎)の女との間に出来た庶子が横地と名乗り、その一族から勝間田荘を領する勝間田氏が輩出されたとしている。
 続いて、『吾妻鏡・寿永二年(1183)二月十七日』に「安田三郎義定相率義盛。(略)、遠江國住人横地太郎長重。勝(間)田平三成長等。(略)」と記され、さらに『同・文治二年(1186)四月大廿一日戊辰』に、遠江守義定朝臣自彼國參上。(略)。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝(間)田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。(略)」と出てくる。吾妻鏡に出自するときには、横地氏、勝間田氏とも源頼朝の御家人になっていたようである。
 すなわち、白百合遺跡の地は平安時代末頃には、勝間田荘園が開墾され、豪族勝田氏がそこを支配していたと考えられる。

 さて、しずおかKさんのブログを拝見させていただくと、榛原庁舎に行かれたようで、白百合遺跡・出土展で撮られた土器の写真などがUPされている。なるほど、山茶碗は無釉の陶器であることがわかるし、牧之原の地でも生産されていたことを知った。
 そして、須恵器の長頸壺(古墳時代)は三鷹市・天文台構内古墳(7世紀後半)の副葬品として出土したフラスコ形長頸瓶(下の写真)と形状が似ている。この長頸瓶は、三鷹市教育委員会の方より、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。
     
同じ、須恵器は東京国立博物館でも見ている。市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)から出土した7世紀のもので、緑色と茶色が混ざったような色の自然釉がいくつも流れていて美術品のごとく見事な美しさであった。さて、白百合遺跡出土品のものは、いつ頃、どこで生産されたのか非常に興味のあるところ。

過去の関連ニュース・情報
 2009.1.28白百合遺跡 区画された竪穴住居跡 所有地を区分か?
 2008.8.28白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる 
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三鷹市・天文台構内古墳 現地見学会

2008年09月07日 | Weblog
 7世紀に造られた上円下方墳である三鷹市天文台構内古墳の現地見学会が、昨日と今日の2日連続でしかも1日に2回実施された。昨日は800名の見学者、そして今日は昨日よりも多い見学者が現れ、1000人になるかもしれないという。
 天文台の構内は広いが、周りは住宅地であるから住民の見学者も多い。結構、母親と娘の組み合わせも見かける。
 26日に、玄室の角から7世紀後半のものとみられる須恵器などの3点の副葬品が見つかった。
 青白い色をした須恵器の壺(高さ25cm、胴直径16cm)は酒器として使われていたもので、その口の部分に赤色の供献用の土師器の杯(直径10.5cm、)2点が食い込んでいた。壺はひび割れがなく、ほぼ完全な形である。形状から、大化改新後(650~675年ごろ)に東海地方で作られたと見られ、盗掘されていない可能性が高くなったとする。
 壺は東海地方の湖西窯と説明しているが、確認すると、まだ取り出していないので確定ではないという。(注1)
 また、棺は木棺の可能性があるが、釘が見つかっていないので今のところ不明であり、ただし、石棺の可能性はないという。
 北大谷古墳(八王子市)、武蔵府中熊野神社古墳(府中市)と天文台古墳(三鷹市)は西から東へ一直線上に同じような間隔で並び、何らかの関係があると話す。

(写真)左上:第一赤道儀室(2002年国登録有形文化財に指定)横に並ぶ見学者
     左下:南東部の周溝(境界を示すものとの説明)
     右:横穴式石室

(注1)その後、三鷹市教委の担当の方から、須恵器の壺はフラスコ形長頸瓶であり、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。

<備考>
1970年 初調査を行う。
 縦横27~28mの方墳に径18mの円墳が乗った形状の古墳。高さ2.1m(推定高さ3.7m)。
2007年 上円下方墳(国内4例目)として確認される。
 7世紀に築造。石室が3室構造である、全長6.9mの切石を用いた複式胴張り構造の横穴式石室を持つ。
 西7.5kmには、03年に発見された、国内最大の上円下方墳(1段目1辺32mの方形、2段目径16mの円形)である武蔵府中熊野神社古墳がある。
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