歴歩

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三重県・斎宮跡 過去最大の建物跡 奈良時代の正殿か

2023年10月15日 | Weblog
 三重県が13日、三重県明和町の斎宮跡(国史跡)で、奈良時代の正殿跡とみられる遺構が見つかったと表した。
 聖武天皇の娘の井上内親王(717-775)など8世紀の斎王が使っていた可能性が高いという。
 斎宮跡で、奈良時代の正殿が発見されるのは初めてのことで、これまでに斎宮で発見された建物の中で最大の規模を持つとともに、格式の高い特別な建物という。
 現地説明会が10月21日(土)に開催される。
[参考:共同通信、伊勢新聞、朝日新聞、毎日新聞、NHKニュース]

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 斎宮跡
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三重県・斎宮跡 飛鳥時代の宮殿一部か

2019年03月07日 | Weblog
 斎宮歴史博物館(三重県明和町)が6日、国史跡・斎宮跡(同町)で、7世紀後半から8世紀初めの飛鳥時代に建てられた宮殿の一部とみられる建物遺構が見つかったと発表した。
 最初の斎王は天武天皇3年(674)に派遣された天武天皇の娘、大来皇女(661-702)とされ、今回見つかったのはそれに続く時期の遺構。
 「日本書紀」の記述を裏付ける重要な発見としている。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞]

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2019,1.5 三重県明和町の国史跡・斎宮跡で、飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設である、方形区画と多数の建物跡が見つかった。天武天皇の娘で初代斎王・大来皇女の就任に伴い造営されたとみられる。
現場は国史跡範囲の西部に位置する。2018年度の発掘調査で、区画の北東隅とみられる直角に折れた塀跡が見つかり、過去に発掘された塀跡と合わせて東西約40m、南北約60m以上の方形区画が存在することが分かった。区画内では脇殿とみられる掘立柱建物跡が4棟、さらに区画外の西では、3間×4間の大型総柱建物を含む倉庫跡が7棟あることが確認された。
[参考:読売新聞、斎宮歴史博物館HP]

斎宮跡


斎宮跡で飛鳥時代の宮殿一部か 伊勢神宮奉仕の皇女過ごす
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三重県・斎宮跡 斎王宮殿を取り囲む板塀跡を発見

2017年02月24日 | Weblog
 斎宮歴史博物館(明和町竹川)は21日、初期斎宮を解明する同館南側での国史跡斎宮跡第189次調査で、奈良時代(約1300年前)の斎王宮殿を取り囲む板塀とみられる柱穴列跡を発見したと発表した。
 発掘現場(多気郡明和町竹川字中垣内)は同館の南約500mの近鉄線路北側沿いの約100㎡で、南北4本、東西3本の柱穴が直角に交わっていた。過去の調査と合わせ、奈良時代の斎宮の中枢区画は南北56m、東西48mと判明した。
 東側では別の区画とみられる柱列の穴が南北に並んでいた。
 聖武天皇の娘、井上内親王など奈良時代の斎王の宮殿を厳重に囲むためのものだったと考えられるとしている。
 発掘調査速報展示「初期斎宮〜その成果と展望〜」を同館で開催中(~5月7日まで)。
 3月3日までの平日、発掘調査現場を無料公開している。
 現地説明会が2月25日の午前10時、11時、午後1、2時の計4回開かれる。
[参考:伊勢新聞、三重新聞、産経新聞、三重県HP]

2017.2.26追記
 25日の現地説明会には209人が参加。[参考:産経新聞]

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 斎宮跡


明和町 宮殿取り囲む板塀跡発見 斎宮跡、25日に説明会

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京都市中京区・堀河院跡 土師器にほぼ全文の「いろは歌」の墨書を確認

2013年06月28日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所は27日、平安京にあった堀河院跡(京都市中京区堀川通御池北東)で1983年に発掘した土器の小皿を再調査した結果、平仮名でほぼ全文がそろっている「いろは歌」の墨書を確認したと発表した。
 小皿(土師器、直径9cm、高さ1・5cm)は、平安京左京三条二坊九町にあたる(現、ANAクラウンプラザホテル京都敷地内)、堀河院跡の井戸から出土した。 12世紀末から13世紀初めのもので、ほぼ全文が残るいろは歌では国内最古となるという。
 いろは歌の47文字のうち、皿の欠けた部分(「く」「え」「て」「ゆ」の4文字分)以外は、ほぼ全文書いてある。 皿の右端から順番に書かれているが、徐々に余白がなくなり、最後の行「ゑひもせす」は1行目に戻って右端の余白に書いてある。
 太めの文字でバランスが悪く、初心者(子供)が手習いのために書いた可能性があるとみている。
 いろは歌は、10世紀末から11世紀中ごろに成立したとされる。 いろは歌が書かれた墨書土器では、三重県明和町の斎宮跡から国内最古となる11世紀末~12世紀初めの土器の一部が昨年に確認されている(注1)。今回の土器はほぼ全文が確認できる史料としては唯一となる。 また、昨年、西約1kmにある藤原良相(よしみ)邸跡から出土した土器に国内最古級(9世紀後半)の平仮名が書かれているのが確認されている(注2)。
 墨書土器は29日から7月28日まで市考古資料館(上京区)で公開される。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞、読売新聞、毎日新聞]

(注1)2012.1.18 三重県明和町・斎宮跡 出土した土師器の破片に最古の平仮名の「いろは歌」
(注2)2012.11.29 京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡(藤原良相邸跡) 9世紀後半の墨書土器に平仮名
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三重県明和町・斎宮跡 出土した土師器の破片に最古の平仮名の「いろは歌」

2012年01月18日 | Weblog
 三重県立の斎宮歴史博物館が17日、斎宮跡(三重県明和町)から出土した平安時代後期(11世紀末~12世紀前半)の土器片に、平仮名で「いろは歌」が書かれていたことが分かったと発表した。平仮名のいろは歌が書かれた出土品としては日本最古とみられ、宴や儀式に使用され不要になった皿に書かれている。
 筆跡が繊細で、斎王の身の回りの世話をする女官が文字を練習するために書いたのではないかと推測している。
 平仮名が書かれた土器片は、2010年10月に宮殿があったと考えられている区域で見つかった。
 土師器の皿の一部で、約2cm四方の土器片4個(接合復元、縦6.7cm、横4.3cm)の両面に、墨で約1cm四方の大きさの平仮名が記されていた。土器片をつなぎ合わせると、皿の内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と書かれていた。
 いろは歌は、平仮名などの文字を覚えるための手習い歌のひとつで、文献などから10世紀末から11世紀中ごろに成立したと考えられている。平仮名でいろは歌が書かれた木簡の出土例はこれまでにもあったが、岩手県平泉町の志羅山遺跡で見つかった12世紀後半のものが最も古いという。
 同館は今月21日から3月11日まで、出土した土器片を公開する。
[参考:共同通信、毎日新聞、NHK]

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 斎宮跡

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三重県・「斎宮跡」下園東地区 19棟の掘立柱建物跡が見つかる

2011年09月29日 | Weblog
 明和町は28日、国史跡・斎宮跡の下園東地区で平安期に幾度も建て替えられた掘立柱跡19棟などを発見したと発表した。
 古墳時代後期の直径12mの円墳を壊し、その上に建てたことが確認され、東隣の西加座北区画と同様、役人の米や衣類を納めた倉庫「寮庫」の可能性が強いとみている。
 緑釉陶器、墨書土器、土師器の杯、円面硯、土馬の足部などが出土した。
 現地説明会が10月1日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

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 2011.7.29 「斎宮跡」御館地区 11棟の掘立柱建物跡と一辺が1mの柱穴を確認
 2010.7.22 「斎宮跡」柳原地区 10棟の建物跡が出土
 2009.2.8 「斎宮跡」柳原地区 「中院」の可能性より高まる 

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三重県・「斎宮跡」御館地区 11棟の掘立柱建物跡と一辺が1mの柱穴を確認

2011年07月29日 | Weblog
 斎宮歴史博物館(明和町)は28日、斎宮跡の172次発掘調査で、内院の西側とされる御館地区(多気郡明和町斎宮字御館(みたち)地内)から、平安時代初期から中期にかけて建てられたとみられる11棟の掘立柱建物跡を確認しと発表した。 中には一辺が1mに及ぶ柱穴もあったことから、相当規模の館があったとみている。
 一帯からは、土師器の皿・甕・椀、須恵器の杯・椀、灰釉陶器椀などが出土し、墨書や線刻がある土器も見つかった。
 現地説明会が、31日(日)午前10時~11時半まで開かれる。
 現地説明会終了後、13時30分~16時まで、いつきのみや歴史体験館(明和町斎宮3046-25)で「第4回 斎宮跡の史跡整備を考えるつどい」が開催される。
[参考:毎日新聞、三重県HP]

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 「斎宮跡」
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伊勢市・万所遺跡 鎌倉時代の墓地跡から南宋時代の青磁が出土

2010年07月31日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターが6月から進めてきた、伊勢市辻久留3の宮川右岸沿いにある万所遺跡(まんじょいせき)の第3次発掘調査で、平安時代(約1,000年前)の建物跡や鎌倉時代(約800年前)の墓地跡などが見つかった。特に鎌倉時代の墓跡から副葬品の中国・南宋時代浙江省杭州・龍泉窯系の青磁碗(12c後半~13c前半)がほぼ完形で見つかり、地域の有力者の墓と考えられるという。
 別の場所では建物跡を確認し、明和町の斎宮跡の出土品と同じ、平安時代中期の明るい橙々色の土師器の坏や皿が出土。
 現地説明会は、8月7日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:中日新聞、毎日新聞、三重県HP]

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 2010.7.12 三重県 「斎宮跡」柳原地区 10棟の建物跡が出土
 2009.2.8 三重県 斎宮跡」柳原地区 「中院」の可能性より高まる 



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三重県・「斎宮跡」柳原地区 10棟の建物跡が出土

2010年07月12日 | Weblog
 斎宮歴史博物館は、斎宮跡の柳原地区の第167次発掘調査で、平安時代の斎宮の中枢部を構成した役所とみられる10棟の建物跡や食器として使われた土器の破片が多数見つかったと発表した。
 今回確認された10棟のうち、最大は東西約10・4m、南北約4・8m。周辺からは、食事に使われたとみられる土師器の皿や甕、灰釉)陶器、緑釉陶器など。
 現地説明会が17日午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞]

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 「斎宮跡」柳原地区 「中院」の可能性より高まる
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岐阜市・岩田西遺跡 「美濃国」と刻印された奈良時代(8世紀)の須恵器の破片2点が出土

2010年02月16日 | Weblog
 岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所は15日、岩田西遺跡(岐阜市岩田西2丁目ほか)の人工的な水路跡などから「美濃国」と刻印された奈良時代の須恵器2点が見つかったと発表した。
 見つかった須恵器の破片は、直径10cmの須恵器の杯(つき)の底部分で、縦3・5cm、横2・5cmの「美濃国」の刻印があった。別の1点は縦7cm、横4・5cmの三角形の焼き物の一部で縦2・8cm、横0・8cmの刻印が見つかった。異なる字形で「美濃国」と刻印されていた。須恵器の形状などから1300年前に焼かれたとみられる。
 遺跡から1km東には須恵器の生産地として知られる同市芥見の国指定史跡「老洞(おいぼら)・朝倉須恵器窯跡」がある。美濃国と刻印入りされた須恵器はこれまで岩田東A遺跡周辺で6点が発見されたほか、長野県佐久市の西近津遺跡群や平城京(奈良県)、斎宮跡(三重県)など6府県で見つかっている。これらは老洞・朝倉須恵器窯跡で造られ、長良川を通じて広く流通したとみられていた。
 今回、老洞・朝倉須恵器窯跡と長良川の間に位置する岩田西遺跡の人工的な水路跡などで須恵器が出土したため、発掘した同事務所は「同窯跡で生産された須恵器を長良川に運び出す物流拠点が岩田西遺跡付近に存在したのではないか」と指摘する。
 市道拡幅に伴い、昨年3月から今年1月14日まで、岩田西遺跡と隣接の岩田東A遺跡計2040㎡を発掘調査した。その結果、弥生土器や須恵器、土師器、石器など約3万点が出土した。刻印付き須恵器片は、幅4~5m、長さ約10mの人工水路(奈良~平安時代)から出土した。
 岩田西遺跡ではこれまで平安時代の水路や、室町、戦国時代の水田跡などが見つかっている。
 発掘された須恵器2点を含む出土品は、21日午後1時半に同市芥見の東部コミュニティセンターで開く「市東部地域歴史講座」で展示する。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、毎日新聞]

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  2010.1.21 佐久市・西近津遺跡群「美濃国」刻印の須恵器が出土


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三重県 「斎宮跡」柳原地区 「中院」の可能性より高まる 

2009年02月08日 | Weblog
大型建物跡を確認 中枢部の可能性がより高まる 現地説明会2/14
 斎宮歴史博物館は6日、斎宮跡の柳原地区で、斎宮寮の位の高い役人が執務に当たったとみられる、大型の建物跡を確認したと発表した。
同館は「これまでの調査成果と併せ、中枢部の可能性がより高まった」と、評価している。
 今回、南東端部分の調査区の南西で見つかった掘立柱建物跡は、過去の調査成果と併せると、東西11.25m、南北6.75mの大型の建物だと分かった。
 確認された大型建物は、何度も建て替えを繰り返していたことも判明し、重要な性格を持つ建物だったと考えられるとする。
 現地説明会は14日午前11時から。小雨決行。問合せは同館
[参考:伊勢新聞]

2008.9.4掲載分
 斎宮歴史博物館は2日、発掘調査を進めていた明和町斎宮の国史跡「斎宮跡」の柳原地区で、15棟の建物跡が見つかったと発表した。一帯は斎宮の事務を取り仕切った「斎宮頭(さいくうのかみ)」が執務していた「中院」の可能性が高まったという。
 6日午前11時から発掘結果の現地説明会を開く。事前申し込みは不要。問合わせは同博物館へ。 

 柳原区画は、「内院」とみられる牛葉東区画のすぐ北側にあたる。調査区の北端では、古代の大和と伊勢を結ぶ国家的な官道とみれれる遺構が発見されている。SB1080と名付けられた身舎は三面庇をもつ東西約15.2m×11mほどの建物跡とみられる。(今年2月9日の現地説明会資料より抜粋)
[参考:中日新聞、斎宮博物館HP]
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