歴歩

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諫早市・千々石ミゲルの墓(推定) 木棺と人骨が見つかる

2021年09月14日 | Weblog
 16世紀の天正遣欧使節の一員、千々石(ちぢわ)ミゲル(1569?~1633?)の墓とされる長崎県諫早市多良見町の石碑周辺で発掘調査を行っている民間の調査プロジェクトチームは12日、木棺の痕跡と人骨の一部を発見したと発表した。
 一帯ではこれまで、女性のものと推定される歯が見つかっており、今回、歯が見つかった場所の南側を発掘したところ木棺(長さ140cm、幅55cm、高さ40~50cm)の痕跡が確認され、中に後頭部や胸などとみられる骨があった。横たわった状態で、頭を西に向けて埋葬されたとみられる。
年齢や性別を調べ、ミゲルかどうかの特定を進める。
 第4次の今回は15日まで行われる予定。
 千々石ミゲルは洗礼名で、本名は千々石紀員(のりかず)、棄教後は千々石清左衛門(せいざえもん)。
[参考:朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

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 千々石ミゲル
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諫早市・千々石ミゲルの墓(推定)埋葬者は中年女性

2017年11月12日 | Weblog
 16世紀の天正遣欧少年使節の一員、千々石(ちぢわ)ミゲル埋葬されたとみられる長崎県諫早市多良見町山川内の「千々石ミゲル墓所推定地」の発掘調査で、今年9月に出土した歯や骨片は成人女性のものである可能性が高いことが専門家の鑑定で分かった。埋葬者はミゲルとは別人物とみられる。
 歯や骨片は1人分で、歯の大きさやすり減り具合、骨の状態などから、30~40代の中年女性と推定した。ガラス玉なども出土し、当初「聖具ロザリオの一部の可能性がある」と発表したが、その後の専門家の調査で出土品は別のキリシタン遺物だとの指摘が出ていた。
[参考:毎日新聞]

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 千々石ミゲル


<千々石ミゲルの墓>発掘調査 埋葬者は中年女性、歯や骨から専門家推定 /長崎
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諫早市・千々石ミゲルの墓(推定) 木棺の一部、小玉1個、数個の歯などが出土

2017年09月05日 | Weblog
2017.8.21
 天正遣欧使節の一員、千々石(ちぢわ)ミゲル(千々石紀員)が埋葬されたとみられる長崎県諫早市多良見町山川内の「千々石ミゲル墓所推定地」で20日、3度目の発掘調査が始まった。
 過去の調査では遺骨や遺品の発見には至っていない。
 今回は地元の歴史愛好団体などが実行委をつくり、専門業者に委託して本格的に発掘する。
 この日は発掘現場で安全祈願があり、地元住民ら40人が出席した。
 ミゲルは帰国後、キリスト教の修道会イエズス会を脱会。4人の使節の中でただ一人棄教し、仏教徒になったとされる。当時の宣教師は、ミゲルを「背教者」や「落伍者(らくごしゃ)」と評価する手紙や報告書を残している。
 墓所がある山川内は潜伏キリシタンがひそかに信仰を続けていた地域。ミゲルのものとされる墓は仏式で、1639年に死去した人物の戒名が刻まれている。石碑は地元で古くから「ゲンバさんのお墓」と呼ばれ、敬われてきた。2004年には、元長崎歴史文化博物館研究グループリーダーの大石一久さんが「ゲンバとはミゲルの四男、千々石玄蕃(げんば)。墓石の裏面に建立者として玄蕃の名が刻まれており、被埋葬者はミゲルとその妻の可能性が高い」とする説を発表した。

2017.9.1
 千々石ミゲルの墓とされる石碑周辺の発掘現場で31日、石碑の地下1・5mから墓坑の一部とみられる自然石の「蓋石(ふたいし)」3枚が出土した。実行委員会は「ミゲルらを埋葬した棺を覆う蓋石の可能性が高い」と推測。1日に蓋石を外し、内部を調査する予定。
 蓋石は3枚が一列に並べられ、大きいものは長さ1・2m、幅0・44m。隙間からライトを当てたところ、内部は空洞で壁面の一部に石が組まれていることが確認された。蓋石の上には石が敷き詰められ、その上を土が覆っていたという。

2017.9.2
 千々石ミゲルの墓とされる石碑周辺の発掘調査現場で1日、木棺の一部とみられる木片と金具が見つかった。調査を指導する別府大の田中裕介教授(考古学)は「石碑は墓石で『ミゲルの墓』であることはほぼ間違いない」としている。天正遣欧使節の墓が確認されれば初めて。
 31日に見つかった「蓋石」を外すと内部は縦約1m、横約0・7m、深さ約0・5mの空洞で、土の壁に埋まった状態で取っ手や留め具のような金具3点と木片が確認された。

2017.9.5
 千々石ミゲルの墓とされる石碑周辺の発掘現場で4日、被埋葬者の副葬品とみられる直径3mmの玉1個や数本の人間の歯が見つかった。実行委員会が専門家に鑑定を依頼する。
 玉は乳白色で輪状の模様があり、真ん中に穴が開いている。歯とともに墓坑の底に堆積した土砂から見つかった。ミゲルはキリシタン大名が欧州に派遣した天正遣欧使節の4人の中で唯一、キリスト教を棄教したとされるが、実行委は「玉がキリスト教関連の品(ロザリオ)ならば、ミゲルは棄教していなかった可能性がある」と推測(期待)する。 ミゲルは長崎県雲仙市千々石町出身。1585年にローマ法王に謁見した際、ロザリオを贈られたという記録がある。
[参考:長崎新聞、西日本新聞]

過去の関連ニュース・情報
 京都・聚楽第跡 本丸の石垣遺構を確認


ミゲル募でロザリオの玉?

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京都市上京区 聚楽第跡 本丸の石垣遺構を確認

2012年10月07日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日、豊臣秀吉が16世紀後半に造営した「聚楽第」跡地(京都市上京区)で本丸推定地の南端約1100㎡を調査し、本丸の石垣の一部とみられる遺構が見つかったと発表した。 本丸を囲む堀の南側の北端とみられるという。
 本丸を囲む東西約200m、南北約320mの堀(幅約40m)の南側から2、3段に積まれた石垣(高さ8m)が東西約7mにわたって見つかった。 石は計11個あり、長さ約100〜70cm、幅約50cm前後。 北之丸の堀からも石垣が発掘されているが、本丸では初めて。
 北側の1か所では施設跡とみられる柱穴(縦約1・5m、横約1・2m、深さ約50cm)も見つかった。 周辺から金箔を施した瓦片3個が出土した。
 聚楽第は豊臣秀吉が1586年、平安宮跡の内裏近くに造営を始め、87年に完成した。 91年1月(注1)、天正遣欧使節を伴い帰国したイエズス会のヴァリニャーノ巡察師、ルイス・フロイスらが聚楽第で秀吉、秀次と謁見している。 ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で「壮麗で、感嘆せずにはいられない」と記している。同年12月に秀吉が養子・秀次(1568-1595)に関白職とともに譲り渡した。 93年に秀吉は嫡男・秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけて自害させ、聚楽第を取り壊した。1595年のことである。
 桃山時代の「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)には石垣に囲まれた天守などの本丸が描かれている。
 現地説明会は7日午前10時~午後3時に開かれる。上京区西辰巳町の辰巳公園に集合。
[参考: 2012.10.4産経新聞、10.5毎日新聞、10.7読売新聞]

(注1) 天正19年1月8日(1591年3月3日)、天正遣欧使節(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)は聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏した。ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prés)の「千々の悲しみ」を演奏したと推測されている。

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.13 上越市・聚楽第行幸図屏風 一般公開が始まる



キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益
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