日時・会場:
2004.9.11 アステールプラザ大ホール
作・演出:
京極夏彦
出演:
大蔵流茂山家
感想:
この評価はどうしたものか。胸のときめきや派手さは全くない。トリックや新しい技法もない。狂言だから。でも、厳密な意味での狂言ではなかった。ネオ歌舞伎だかニュー歌舞伎か知らないけどあんなカンジ。現代風にアレンジされていた。実際本物をナマで見たことないけど、テレビでやっているのとは異なっていた。芸術や文化をたしなむには、それ相応の教養がいる。それを見て楽しむだけの資質みたいなものが必要である。本来教養は子供の頃から興味のあるなし関わらず親が教育するものだ。今の世の中のようにちょっと得意なことや変わったところを個性だなんだと褒め称える個人主義。意味がない。その程度は別人格だから当たり前であり、ましてその個性で飯が食えるわけではない。そのことを徹底的に子供にたたき込み挫折まで追い込み、そこからなおはい上がってくるのが本物のはずだ。プチ個性なんかなんの役にも立たないことをわからすべきだ、親も子も。集団生活において、そんなものはじゃまなだけだ、アメリカを見れば一目瞭然である。回りくどくなったが話は戻り、狂言は難しいままでいいと思う。半分もわかんない言葉・ストーリー、そして時代背景、最初はわかんなくてもいい。それを感じられれば。そして、回を重ね、次第に勉強し理解していくものである。その辺をすっとばし口当たりをよくした文化なんてものはいらなし、無意味である。さて、京極夏彦作妖怪ということでちょっと期待していたが、かなり予想は外れる。内容は昔話だ。オーソドックスな狐狸話と豆腐小僧後日談、むかし阿佐田かだれかが書いていたシンデレラ物語の続きみたいなやつでした。嫌いではないがどうして、狂言なのかわからなかった。狂言の舞台っていい感じで、木製舞台と金屏風のみ、照明などもほとんど使わず軽く絞る程度。そんな素朴な演出と、狂言独特の言い回し、その動きが特によかった。通常の芝居よりもさらに簡素化され、演じるもの見るものがお約束のうちに話を紡ぐ。山犬がでてくる。着物を着た人間が登場、でも、第一声で我は山犬と叫んだ瞬間、彼は山犬となる。演じるもの見るもの双方が、見立てで芝居の空間ができあがる。なんて想像力なのだろうか。これが、できないため西洋では舞台に衣装に金をかけ、さらには特撮だ、SFXだ、CGだといきり立つ。そんなものは必要ないのだ。所詮すべては夢物語、喜怒哀楽すべて人の中にある。ビジュアルでなくとも人の頭、否、心で見ることができればいいのだ。最後に、こうして現代風にしていくのも、観客のレベルの低さに起因する。よく大衆文楽だから、いいのだと声高らかに叫ぶ人がいる。そうでは、ない。昔の大衆は今ほど馬鹿ではない。芸術や文化の中で生きていた。疫病や不安などがもっと切実な時代。娯楽や生活が本当の意味で文化だった時代。精神レベルは現代人が思っているより遙かに進んでいたのだから。
2004.9.11 アステールプラザ大ホール
作・演出:
京極夏彦
出演:
大蔵流茂山家
感想:
この評価はどうしたものか。胸のときめきや派手さは全くない。トリックや新しい技法もない。狂言だから。でも、厳密な意味での狂言ではなかった。ネオ歌舞伎だかニュー歌舞伎か知らないけどあんなカンジ。現代風にアレンジされていた。実際本物をナマで見たことないけど、テレビでやっているのとは異なっていた。芸術や文化をたしなむには、それ相応の教養がいる。それを見て楽しむだけの資質みたいなものが必要である。本来教養は子供の頃から興味のあるなし関わらず親が教育するものだ。今の世の中のようにちょっと得意なことや変わったところを個性だなんだと褒め称える個人主義。意味がない。その程度は別人格だから当たり前であり、ましてその個性で飯が食えるわけではない。そのことを徹底的に子供にたたき込み挫折まで追い込み、そこからなおはい上がってくるのが本物のはずだ。プチ個性なんかなんの役にも立たないことをわからすべきだ、親も子も。集団生活において、そんなものはじゃまなだけだ、アメリカを見れば一目瞭然である。回りくどくなったが話は戻り、狂言は難しいままでいいと思う。半分もわかんない言葉・ストーリー、そして時代背景、最初はわかんなくてもいい。それを感じられれば。そして、回を重ね、次第に勉強し理解していくものである。その辺をすっとばし口当たりをよくした文化なんてものはいらなし、無意味である。さて、京極夏彦作妖怪ということでちょっと期待していたが、かなり予想は外れる。内容は昔話だ。オーソドックスな狐狸話と豆腐小僧後日談、むかし阿佐田かだれかが書いていたシンデレラ物語の続きみたいなやつでした。嫌いではないがどうして、狂言なのかわからなかった。狂言の舞台っていい感じで、木製舞台と金屏風のみ、照明などもほとんど使わず軽く絞る程度。そんな素朴な演出と、狂言独特の言い回し、その動きが特によかった。通常の芝居よりもさらに簡素化され、演じるもの見るものがお約束のうちに話を紡ぐ。山犬がでてくる。着物を着た人間が登場、でも、第一声で我は山犬と叫んだ瞬間、彼は山犬となる。演じるもの見るもの双方が、見立てで芝居の空間ができあがる。なんて想像力なのだろうか。これが、できないため西洋では舞台に衣装に金をかけ、さらには特撮だ、SFXだ、CGだといきり立つ。そんなものは必要ないのだ。所詮すべては夢物語、喜怒哀楽すべて人の中にある。ビジュアルでなくとも人の頭、否、心で見ることができればいいのだ。最後に、こうして現代風にしていくのも、観客のレベルの低さに起因する。よく大衆文楽だから、いいのだと声高らかに叫ぶ人がいる。そうでは、ない。昔の大衆は今ほど馬鹿ではない。芸術や文化の中で生きていた。疫病や不安などがもっと切実な時代。娯楽や生活が本当の意味で文化だった時代。精神レベルは現代人が思っているより遙かに進んでいたのだから。
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