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file019 Stan MUSIAL 【スタン・ミュージアル】

2005-09-12 | MNO
【The Man】
Stan MUSIAL

通算打率.331、3630安打、
456本塁打、1951打点と、輝かしい成績を残し、
当然の事ながら殿堂入りを果たした
史上最強の打者の一人、スタン・ミュージアル。

プロ入り当初は投手であった。
1940年にはマイナーで18勝をあげるなど、
着実に投手として成長していたミュージアルだったが、
打撃が優れていたために外野を守る事もあった。
そしてその事がミュージアルの人生を大きく変えた。

ある試合で、守備の際左肩を傷めてしまったミュージアルに
当時のマイナーの監督が打者転向を薦めた。
もともと打撃センスのあったミュージアルは
打者としてメキメキと頭角を現し、成功。
その後、件の監督に、ミュージアルは家を一件プレゼントし、
その恩に報いている。

さて、打者として再スタートを切ったミュージアルは、
42年に21歳の若さで外野のレギュラーの座をつかみ、
打率.315、10本塁打、72打点の成績を残し、
チームのリーグ優勝、及び世界一に貢献。
早くも、大打者としての片鱗を見せつける。

1943年には打率.357で首位打者のタイトルを獲得、
同時にシーズンMVPも初受賞、
44年は打率.347、46年は.365で2度目の首位打者と、
同じく2度目のMVPを獲得。
両年ともカージナルスはワールドシリーズを制覇、
ミュージアルは好調のチームを牽引して余りある活躍ぶり見せた。

48年も.376で首位打者・打点王とMVPを獲得するが
この年は長打力も発揮し、初の30本以上となる39本塁打をマーク、
131打点で打点王にも輝き、ミュージアルにとって
キャリア最高の年となった。

脂の乗ったミュージアルは手のつけられない打撃の王に君臨、
48年から、57年まで
10年間で実に9度の100打点以上をたたき出し、
42年から58年まで打率.310を下回る事は無かった。

50年.346、28本塁打、109打点
51年.355、32本塁打、108打点
52年.336、21本塁打、91打点...と
3年連続の首位打者にも輝いている。

53年~57年の5年間は、連続して100打点以上をマーク、
特に、56年は、打率.310、27本塁打、102打点で
2度目の打点王に輝き、
57年は、打率.351で7度目となる首位打者を獲得した。

58年に打率.337をマークした後は、
やや衰えたのか、3年連続で打率.3割を切ったミュージアル、
それでも62年に41歳で打率.330、19本塁打、82打点をたたき出し、意地を見せた。

42歳になった1963年には、すでに孫がいたために“祖父”として
ホームランを放っている。

結局、ミュージアルは22年間の現役生活で
MVP3度、首位打者7度、打点王2度、最多安打6度、
最高出塁率6度、得点王5度
そして、オールスターには20出場...と
『輝かしい』などという言葉では形容しきれない程の
活躍ぶりを見せつけ、ハンク・アーロンやウィリー・メイズら、
多くのメジャーリーガーからの尊敬を集めた。
ミュージアルの活躍で負けても、相手チームの選手は、
悔しがる事はしなかった...とまで言われている。

22年間、カージナルス一筋で過ごし、
63年に現役を引退した。

さて、ミュージアルのニックネームは「The Man」であるが
彼が「The Man」たる所以をひとつ紹介したい。

1947年のこと、ミュージアルが所属していたカージナルスが
黒人であるジャッキー・ロビンソンのメジャー入りを嫌い、
ドジャースとの試合をボイコットしようと画策した。
それに対しミュージアルは真っ向からこれに反対し、
多くのチームメイトを相手に口論したという。
又、白人と黒人がホテルの部屋を共にするなどありえない風潮だった当時、
ハンク・アーロンが初めて白人と同室した相手がミュージアルであった。
アーロンとミュージアルは親しく打撃について意見を交わしたという。

また、カージナルスは、46年を最後にワールドシリーズ制覇はおろか、
リーグ優勝もままならなくなっていたが、
ミュージアル引退後、自分の指定席だった左翼の後釜に
ルー・ブロックが入った64年、
ヤンキースを倒して世界一の栄冠を手にした。
この時、ミュージアルはチームが強くなった要因を聞かれると、
『良い左翼手が入ったからだろ。』と笑ってみせた。