藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  奥様との「出雲路珍道中記」

2013-09-19 16:52:07 | 社会・経済

私はカーナビを信じられない人種である。 私の義理の兄はカーナビ道理に走って目的地に着いたら、新しいバイパス道路があったと私に語った事がある。 日々道路状況は変化し続けている。 

私は、旅に出る前にインターネットで事前に地図を検索し、その旅のルートを計画する。 プリントアウトすることも有るが、先ず自分が記憶する。 

私は未だ嘗て道に迷ったことが無い。 動物的勘が働き、」どんな田舎道でも目的地についてしまう。 今回の旅もそんな旅であった。 

国道54号線をひた走り、斐伊川を越える三刀屋の町を目指し、斐伊川の手前で左折し、最初の橋を右折しそのまま対岸の農道を直進すれば第一番目の荒神谷遺跡だと確信していた。 がしかし、その道路の細さから迂回したほうが良いと直感し、左折して進んだ、正解だった。 

運転手の奥様は、指示者の私の指示が急変するのでいささかご立腹であったが、突然に「荒神谷遺跡」の案内標識が現れ、自宅を出てから休憩を含めて、二時間四十五分後に目的地に着いた。

橋を渡った道を直進すると、その道は確かに「荒神谷遺跡」に行けるが、その前に「加茂岩倉遺跡」に突き当たり、通行止めになっていたのである。

不思議と神様は私の味方をしてくれる。 親しくなった「荒神谷遺跡」の、管理棟のインホメーションの女性に、「加茂岩倉遺跡」への道を聞いてみると、「荒神谷遺跡」出現でコース変更された広域農道を、54号線まで行き広島方面へ戻っていくのが迷わなくて良いとの事であった。 確かに迷わずに行けた。

Pic_0531 「加茂岩倉遺跡」は、「荒神谷遺跡」から南東に直線で1.5kmの所にあり嘗ては峰づたいに行き来したのではなかろうかと思える所にある。その銅鐸の埋設されていた場所からは南に農道の峠道になっていてその農道の北斜面に十五組三十個の銅鐸が埋設されていたそうである。

発見者は、この遺跡の下の農道の拡幅工事を請け負った会社の掘削機械のオペレーターだったそうである。

この遺跡は30mの高さに存在する。 農道の拡幅に何故この高い載り面を掘削して拡幅する必要があったのか思わず周りを見渡した。 この農道は東から侵入しこの遺跡の先10mほどで左に大きくカーブしてその先の小さい峠を越えて南に下っていく。 農道の左側を拡幅すれば、簡単に出来るはずだと思ってよく見ると左側には水路が走っている。 われわれ土木屋には水路ほど煩わしい物は無い。 その水路には水利権が存在し、国有地である。 それを変更するのは大変な手続きが必要で、町村や県の予算での工事では手を付けない。

そのことが、この遺跡の発見に繋がろうとは誰も想像しなかったであろう。

こうした山肌を掘削して行く時、掘削機を山肌に沿って斜めに掘削しながら上げて行く。 そうしてスイッチバックして高度を稼ぐ。 この作業時が一番緊張の時なのだ。

この作業の時に遺跡に行き当たることが多い。 この遺跡もそのようにして発見されたそうである。

Pic_0532 ほぼ頂上部に近い所から二箇所に分かれて発見された。

この遺跡の管理棟は変わった所に存在した。

元来拡幅される予定の農道は峠の頂上まで工事が済んでいた。

その農道をまたぐように管理等が作られていた。 管理棟のガラス越しの北の斜面に、「子入り銅鐸」十五組は埋葬されていたのである。

遺跡現場にはレプリカが嘗ての永い眠りを思わせる形で置かれていた。

Pic_0537 これが「島根県立古代出雲博物館」に収蔵されている国宝の本物である。

この博物館は、出雲大社に隣接して建設されている。この博物館には、荒神谷遺跡から発掘された銅剣、銅矛、銅鐸も収納され、かつ「景初三年」の年号が鋳込まれた「卑弥呼の銅鏡」と言われる「三角縁神獣鏡」も展示してある。

この博物館の、古代遺跡出土品の展示された部屋は、遠く「卑弥呼」が息づいていた時代を我々に伝えてくる。

Pic_0538 居並ぶ358本の銅剣は圧巻であった。

古代人はこの銅剣をどのような理由で、どの様な気持ちで埋蔵したのであろうか。

上段は現代の技術で作ったものである。

嘗ての金色に輝く銅剣を髣髴させてくれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする