「医王山 一畑寺」は、「浅草浅草寺」と良く似た経歴を持っている。
「浅草浅草寺」は、兄弟の漁師が観音様の仏像を海中から引き上げた事に始まると言う。
同じように、この出雲路にある「医王山 一畑寺」も又一人の漁師が、海中から「薬師如来像」を引き上げた事に始まるそうである。
それは、寛平6年(西暦894年)の盆の事であったそうである。その漁師の名は、「与市」。 目の見えない母親と二人暮らしで、盆にも係わらず、母親の体に良い魚を食べさせようと漁に出かけたが、トンと魚が取れない。 ミサゴが一羽、海の上を円を描いて飛んでいたそうである。 そのミサゴの下の海面が、少し光って見えたので船を近づけて網ですくってみると、仏像が一体上がってきた。 その仏像は「薬師瑠璃光如来」で、家に持ち帰り大事に祀っていた所、次々に不思議な事が起こったそうである。
ある夜、与市の枕元に「薬師瑠璃光如来」が立ち、母親の目を治したければ「百丈が滝から飛び降りよ」と、告げたそうである。 そこで与市は、千束の藁を身につけて滝に飛び込む決心をした。 驚いた村人が止めるのも聞かず、飛び込んだそうである。 村人から話を聞いた母親が無我夢中で駆けつけると、与市は滝壺の大きな石の上に安座していたそうである。 と同時に母親の目が開き、それを感謝した与市が目の前が開けたこの場所にお堂を建てて「薬師如来」を安置し、自らは比叡山に登り出家し、名を「補然」と改めこのお堂を守ったのが始まりだそうである。
以来「眼病」平癒の寺として名を馳せ、後には朝廷から「疫病平癒」の勅命を受けたそうである。
松江藩松平家からは特段の庇護を受けたそうであるが、その信者は日本全国に亘り、今日まで多くの人々をこの山に惹きつけている。
参詣者のために引かれたのが、一畑電鉄であり開業当時は松江からこの一畑寺の麓までの電車であったが、後に「出雲大社」迄延伸された。 したがって、その線路は一度山中に入り再び宍道湖湖畔を走る。
今日では山頂まで自動車やバスで昇れるが、嘗ては一畑口電停から参道を歩き、階段を千数百段登らねばならなかったらしい。
この日は生憎の小雨が降っていて、大山や三瓶山が見えなかったが、晴れた日には遠くに神話の村々が望めるそうである。
私はこの寺の来歴は良く知っていたが、訪れたのは初めてであった。
東京や福岡からの方々が、ご家族連れで「病気平癒」のご祈祷を受けておられた。
「病気平癒」の感謝の奉納千躰佛は圧巻であったが、写真に収めたはずが写っていなかった。 今もって不思議である。
大僧正 「良慶」とも読むのだろうか。
この扁額がここに掛けられている謂れを是非とも調べてみたいと思っている。
この参詣の後、先日ご披露した「島根鹿島原発」を訪れたのである。
「原発立地交付金」で、贅沢な体育施設や病院が立ち並び、その様は「お金」で生活を買っているような感があり、何処か落ち着かない。 その景観は出雲路には似つかわしくないものに感じるのは私だけであろうか。
東京電力は「柏崎刈羽原発」に、二つ目の「排気用ベント」を取り付けて、再稼動させたいらしい。 ベントを二つにしたら安全になるのかと言えば、この世に完全な物が無い限り、「危険が二倍に成る」と言う原理が、電力会社の皆さんには理解できないらしい。 ましてや、地震多発地の新潟県に、「原発」を作った事自体不思議な事である。
「原発」が安全な物ならば「東京都下」に作ればよい。 その方が長い長い送電線が必要なくなる。 危険性があるから、人里はなれた場所に原発を作り、巨額な費用を掛けて送電線を張り巡らせているのだ。
もうこの辺で「イタチゴッコ」は、止めて置くに限る。
現在は松江市に合併している加島町を一度ご覧になると良いですよ。
漁をしない豪華漁船が、運河の中の船着場でのんびりと日向ぼっこをしています。 燃料費が上がった今日、島根鹿島の再稼動と3号機の建設の補強工事で、漁師は陸に上がって荒稼ぎをしています。
豪華運動施設は利用者も少なく、鹿島病院は地域住民は無料で診療が受けれるのです。
ここは日本の国とは思えない光景が広がっていますが、一山超えると其処は地獄の一丁目で、頑強なフェンスと鉄条網、監視カメラに巡視員。
青鬼、赤鬼が目を光らせている光景は、人間が住む所ではないようですよ。
心臓に毛の生えた私が、その光景を写真に取ることを躊躇ったくらいです。
末代までも、お金で売り払った故郷の末路が見えてくるのが、なんとも切なく感じました。