藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  「出雲路珍道中記4」

2013-09-23 18:09:48 | 社会・経済

日本に残っている「風土記」の中で、「出雲国風土記」は実に面白い。

始め出雲の国づくりは、大失敗作であったそうである。 「狭布(さの)」と呼ばれる狭い国で有ったそうである。そこで、「八束水臣津野命」が「三身の綱」を、「新羅」「隠岐島前」「隠岐島後」「越前」に投げて、余っていた土地を引き寄せ、一本の綱を「大山」に、いま一本の綱を「三瓶山」に括りつけたそうである。 「大山」に結んだ綱が「弓ヶ浜」で、「三瓶山」に結んだ綱が「稲佐の浜」になったという。

嘗て「斐伊川は、「出雲大社」の前を通って日本海に流れ込んでいた。 上流での「カンナ流し」が川底を押し上げ、「天井川」となり、大量な砂を齎した。 その結果、「稲佐の浜」が発達しとうとう「斐伊川」を塞き止め「宍道湖」が出来たそうである。 因みに、「弓が浜」や鳥取砂丘は、「日野川」等の「カンナ流し」で大量に流れ出た土砂が海流で堆積したものだそうである。

Photo この資料は島根県教育庁埋蔵文化財調査センターで頂いた資料である。

ここでの感動的出会いは、近々皆様にご披露したいと思っている。

確かに地図を良く見てみると、島根半島は四つの部品からなっているように見えてくる。

「出雲大社」がある「北山山系」から「島根鹿島原発」がある東への細長い山系は三箇所の括れがあり、四つの小さな島を寄せ集めたように見える。

十五日早朝目覚めるとコンビニの弁当で朝食を済ませ、先ずは「稲佐の浜」へと向かった。 と言っても、「出雲大社」から歩いても十分くらいの距離である。

堂々とした駐車場があり、ここでも仮眠を取った自動車が数多く駐車し、広島からバイクで来た若者はテントで夜を過ごし、早朝から朝食の魚釣りを楽しんでいた。

Pic_0554 実に丁寧にこの神話の国を案内してくれる標識である。

遠い昔はなしに聞いた「出雲神話」が脳裏を駆け巡る。

「神有月」に(世間では神無月という)に国々の神がこの浜から出雲に到着し、その順番も決まっていたらしい。

この浜は小さな砂で覆われ干潮時に続き地になる小島がある。その小島の上には社が祭られていた。

Pic_0552

この浜に上陸された神々は「上宮」と呼ばれる「出雲大社」の摂社に滞在し向こう一年間の国中の縁結びを協議し決めたとの事であった。

我妻「茜」様とのご縁もここで決められたのかと妙に感心してしまった。

Pic_0560 Pic_0559

この摂社に篭られた国中の神様は、七日間で全ての縁組を決めそれぞれの国に帰って行かれるのだそうである。

この摂社から、徒歩五分の所に古代日本を大きく変える舞台が有った。

それは小さな岩陰であり、この国が如何に人を傷つけずに物事を決めてきたかを語りかけてくれる場所であった。

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この小さな岩陰で、国譲りの話し合いは持たれ、唯一の条件「いずこの社より高い社で大国主の命を祭ること」とし、一族は諏訪の地に隠遁したそうである。後の「諏訪大社」である。 式年祭礼の「御柱」は、「出雲大社」の大柱を模したのではなかろうかと思えてくる。

後に、「東大寺」が建立される時に、この約束が「手かせ足かせ」となりこの伽藍を低くしたそうだが、平安時代、一に出雲、二に東大寺と言われた所縁だそうである。

ただただ歩けば、神話に当たる「出雲の旅」はこれから日御碕へと向かう。

コメント
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