万代橋袂にある、説明版です。万代橋は、近年架け替えられました。
先代の万代橋は、別名県庁橋、又は、この説明版にはありませんが、陸軍病院橋とも言われておりました。理由は、市内電車で、市役所前で下車し、西に向かうと北側が県庁、南側が陸軍病院でした。
そこからこれ等の名前が付けられ、日常的に使用されていました。
万代橋の読み方が難しかったためです。正式には、「よろずよばし」と読み、別名「ばんだいばし」市民はいろいろに呼んだようです。どの写真もクリックしてみてください。
橋の表面に、欄干の陰がアスファルトに焼け付いています。アメリカ軍は、この橋をはじめ市内のこのように影が焼きついた痕跡から、「猿楽町 島外科病院 上空」を爆心地と計算しました。この他にも、墓石の倒れた方向や、倒壊した家屋の中で火災を免れた物等から計算されたのです。
今日、平和公園は6日の式典の準備の最中で、テントが設営されていました。
嘗てはテントなど無く、昭和20年8月6日と同じ暑さの中で、式典が行われていました。式典で暑さに倒れる遺族の存在を知った「理容」「美容」の関係者と、徒弟制度の中で働く若者が、仕事で使うタオルを氷で冷やし、参列者に貸し出していました。
こうした光景も今日ではなくなりましたが、嘗て、広島の「理美容青年会」の式典での活躍が偲ばれて、しばし佇み準備作業を見ておりました。
その横、正面左に一つの歌碑があります。平和公園内にあるただ一つの歌碑です。
湯川秀樹博士から、青銅の像が寄贈されました。この像の設置場所を考えた浜井信三市長は、「平和の泉」の正面左に場所を選定し、嘗て博士が読まれた歌を台座に刻み、平和公園の「結界」としました。
ふたたびここにくるなかれ
平和をいのる人のみぞここは
湯川 秀樹
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