本田孝一氏Web作品展 より
http://mphot.exblog.jp/tags/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AD%9D%E4%B8%80%E6%B0%8FWeb%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%B1%95/
砂丘の風紋・・・同じものはない。全部ちがう。
ある時、風紋が文字に見えたときがあった。宇宙からのメッセージを砂の上に残したように感じたことがあった。
地図作成という仕事のために果てしなき砂漠でずっといるわけなのだが、その中でサウジアラビア人の地図に書き込まれる文字が気になった。
そこに書き込まれた文字はワジ(枯れ川)に沿ってカーブを描いたり、広い地域を呼名するには思いっきり直線的に文字の一部を伸ばしたりしていた。この文字に本田氏は惹かれた。
本田氏は、そういう手書きで目の前で地図に書き込まれていく文字を見て美しいと思ったのだ。
1988年、思いがけずイラクの国際フェスティバルに書家たちが集まるのに招待された。初めての一流の書家たちとの交流となる。
意気揚々と持参した本田氏の作品を前に各国の書家は厳しい助言をした。ルールに見合っていないなど指摘された。その技法や筆のつくり方や墨についてなど質問をする。
その中で書家のアッバースさんは自分の作り方を教えてくれて参考になった。
また、書家たちはきちんとした文字を書くことができるように伝統的な書を学べるようトルコのハッサン・チェレビー氏を紹介してくれた。
ここから添削を通じた師弟関係ができるのであった。
手本が一枚渡され、その通りに書けばいいのだろうと送付するとすべての文字が直されてしまった。
わかったのはアラビア書道はすごく厳格だということだった。
ではなぜ、厳格なのか?
そういうことをしないと厳格な形が伝わらない。1000年以上書けて洗練されえた伝統であり、一人の書家が書を書くのはたかだか50年ほど。そんな書家たちが好きなように変形していったら、洗練された文字が伝えられなくなってしまう。だから100%同じに書けなければいけない。それを知ったうえで見るとこれまでの作品が火が出るほど恥ずかしいと思うようになる。これまでは漠然と見ていただけだったとわかった。
4.独自の作風へ
アラビア書道には伝統的装飾があり、テズヒーブと言われる装飾は一般的に装飾家が書き、書家は書だけを書く。
器用な本田氏は、テズヒーブもやっていたが、一つの作品の装飾をするのに2か月もかかる。
確かに伝統的な装飾はきれいだが同じことをやって意味があるのかという疑問が出てきた。そうするともうかけない。
そこで思いきり装飾を取り外したら字だけが前面に出てきた。
書く言葉の意味を自分で咀嚼してそのイメージの形を装飾のかわりに書こうとした。
こうして、氏の作品は独特の作風に変化していった。
1991年 銀座で初のアラビア書道の個展を開く。
これを機にアラブ諸国から招待状が次々と届いた。
コーランの言葉を自分なりに咀嚼したときに、ことばが押し寄せてくる。
それをとらえるのが宗教であり。芸術である。
自然の理の中に、言葉と書体で現わす
日本には言霊があり、和歌、短歌、俳句
自然の理から産まれて行く心の詩
武道 剣道、柔道、弓道、空手道、合気道
芸道 書道、茶道、華道、
神道
古代日本における学科の名称。
大学寮では明経道・算道・音道・書道・紀伝道・明法道が、陰陽寮では陰陽道・暦道・天文道が、典薬寮では医道が存在した。
武芸 (日本) - 日本における価値観。哲学とも言われ、一つの物事を通じて生き様や真理の追究を体現することや自己の精神の修練を行う事。
「残心」に代表される日本独特の所作や価値観を内包する。
アラビア書道に通底するものを感じます。
それは
今、求められる心の価値観
以前、お世話になった書道家 富原 唐蘊氏
抽象化の道を感じました。
タイトル 「 風 」
風のイメージを抽象化した作品
「 草 」を抽象化した作品
スペイン国際芸術賞を受賞されています。
函館に戻り、絵画を書くことに全く無縁だったのですが
色々な方のご縁で曼荼羅を描くようになり
構図の取り方や、作品の向き合い方、展示の仕方、表現の仕方、函館に生きた人の歴史
色々な手ほどきを 富原 唐蘊氏にして戴きました。
そんなご縁から、画号に青蘊の字を戴いております。
その余興に書に色をつけることをしていました。
日月神示 ニ日んの○キ(ジシンノマキ) 第17帖
火 (黄) 女性より産みいだされ 日と月に育まれる
水 (青) 魂の縦の糸と横の糸を織りなし 死に助けられる
自然の理
天地(あめつち)の理
それは、命の源への永い永い回帰