現代の民主的な政治の国政選挙候補者に対する私たち選挙民の選択基準は、①誠実性②決断力③見識④教養の順で慥かめるべきではないかと考える。項目の中に学歴を入れてないのは、その必要性を疑っているからである。学歴=学力は、政治家の資質に影響しない。独断でなく、歴史的にも客観的にも実例は無数にある。
言葉を知らない、字が読めないという政治家は、論外であるが・・・
しかし現実には、候補者の学歴というものは、選挙で絶大の効果をもつ。浅学な者ほど学歴に弱く、それに目が眩むからである。目が眩むと人は判断を誤る。
政治は実証科学ではないから、学問研究をどれだけ研鑽していようと、政治家としての能力を担保しない。学力の高い政治家が、必ずしも秀れた政治的業績を遺してこなかったのは、その理由による。
政治は直感と決断で行うべきものであろう。浅学がハンディにならないのは、政治の世界では容易に観察される。
人間は外見と肩書きに弱い生き物で、男女の別なくその影響を受ける。
若い女性は容姿の好い、賢い子どもを産みたいから、先ず配偶者選びに容姿と学歴を優先させる。次に一生安泰に過ごしたいから、所得・資産を選択肢に挙げる。それは素朴で自然な願望である。
学歴は学力の指標で、知能即ち頭脳の能力の一面を示すものである。学力は勤勉でないと身につかないから、学歴の高い人は、おしなべて勤勉家・努力家であったろう。試験で高点が取れたのは、努力と集中の成果である。しかし創意・誠意・熱意などの意欲は、必ずしも学力に比例するものではない。学力は未知の事象に遭遇した時には極めて弱い力しか発揮できない。過去の成果は未来を保証しない。
学歴はそれを拠り所に権力者に仕えるテクノクラートにこそ必要なものである。東大を出ていることは、役人としてなら通用するが、彼が転身して政治家になる場合にどれほど寄与するか分からない。
改めて強調するが,政治家にとって最も大切な能力は学識ではなく、〈誠実性〉〈決断力〉〈見識〉〈教養〉である。教養と学力は似ているが異質なものである。教養が豊かなら見識はそれに付随して当然高くなる。決断力は知能に意志の力が結合して生まれるものだ。
学識は往々にして決断力を鈍らせる方向に働く。記憶力が圧倒しているからであ。また学識ほど陳腐化の早いものはない。個人的にも社会的にも、憶えた知識は、経年的な記憶力の減退と陳腐化による減衰を免れない。
現代のテクノクラート社会では、学識は官僚機構に充分蓄えられている。したがって、政治家が知識人である必要は全くない。官僚の知識を援用すればことが足りる。官僚は勉強しているし,勉強が得意である。
ロッキード事件の田中角栄元総理は、それをよく知っていて、官僚を最も巧みに使った。官僚は自分の学識が役に立つ間に、栄達を遂げたい。栄達が期待できるなら、持てる学識で政治家に最大限の協力を惜しまない。政治家と官僚との相互補完システムがうまく機能するには、政治家に半端な学識は無用である。
選挙民はそこを理解していない。
政治家の卵もそこを勘違いし、アメリカの有名大学の学部や院を卒業する人も増えているが、英語に堪能であることは、政治家の要素①②を些かも高めるものではない。勘違いしている人が多い。
現代はかつての占領時代ではない。アメリカの大学の卒業資格は、選挙民に対しては有効だが,官僚に対してはアドバンテージをもたない。ひと時代前の政治家の子弟(世襲議員)に、アメリカの大学の卒業資格をもつ人物が散見されるのは、親の舊い認識の影響が大きかったからだろう。
彼らは明らかに前記補完システムに馴染まないか、浮いているように見える。官僚の面従腹背を、世襲議員のお坊ちゃんたちは、見抜けない。
学識ある政治家は、現役の官僚から見れば小賢しく映る。相対的に自分の能力評価を下げるからである。日本の官僚機構には、東大法学部という鉄壁の学閥があって、この閥が、省庁横断的に、インフォーマルなテクノクラート組織を構成している。戦前のエリート同様、卒業年次による序列も生きている。
選挙民が候補者の高学歴や米国留学などのキャリアに期待するのは、幻想に終わる確率が高い。
政治家に最も必要とされる能力は、官僚が上げる政策の適否を即座に判別する能力である。頭の回転の速さである。国際情勢や経済環境を的確に認識し、後の世に禍根を遺す法律や条約が制定されたり承認されるのを防ぎ、国益に反する状況の芽を早く摘みとることが、政治家には求められる。
投票する候補者を選別するのに、公約に依拠するのは考えものだ。公約は候補者と選挙民との契約ではない。人は勝つためには何でもするし、どんなことでも言う。投票者に耳障りの良いことを言うのは、その必要に迫られるからである。所詮絵に描いた餅に過ぎない公約は、参考程度に聞き流しておくことが望ましい。前記①に勝れる政治家なら、公約を守ろうとするだろう。
誠実そうではなくて、誠実な人を選ばねばならない。誠実でありながら、人間性に潜む悪に自然免疫のあるしたたかな人物こそが、政治家に相応しい資質をもつと思う。