人は自分に忠実であること、自分を欺かないで生きることが最も大切である。自らのアイデンティティを確立する、あるいは自分のアカウントで生きる、とはそういうことではないだろうか。この世に固有の人格をもって生れてきたことの意味は、其処にあるのではないかと思う。生まれてきたことの歓びは、これに尽きると言ってもよいだろう?
しかし、社会生活の中で、自分の意思を貫き通すことは容易ではない。
心ならずも周囲や集団組織に同調したり、職制上の上長の意向に追従せざるを得ないことは多々生じるだろう。
多様な個の集まりである集団内で共有される意識が、個人の自我の在処である個別の意識と一致することは、ほとんど無いと考えるのが正しい。集団の意思が確定した時は、個の意思を捨てて同調するか、異端者として排除される途を選ぶかのどちらかであろう。
それでも多数の中にあって雷同せず、自分の価値観に則って生きることは大切で、生活の基盤はその上に載っていなければならない。他者に依存したり追従したり、保護や庇護を求めたり、許可を得ることを常とする生活では、自己に忠実な生き方はできないだろう。
自分が許容できる限界のどこまでを、集団の意向に調和させることができるか、そこにその人の制御力と意志力の全てが発揮されることになるだろう。
畢竟個人は正しいと信じたなら、腹を括って孤立を恐れず、自分を押し通すしかないのである。この覚悟がなくては自己に忠実であることなど到底無理であろう。
そのためにも、自身が認識と判断を誤らないよう、不断の研鑽に努めなければならないのは当然である。
自分自身を裏切ることなく人生を送ることができたなら、それはこの世に生を享けた目的の大半を果たしたといっても過言ではない。
老後の平安を約束する通行手形は、自分を偽らなかったという事実にのみ発給されるものではないかと思う。なぜなら、本人しか知らない事実というものは、必ず潜在意識に刻まれるからである。「天知る地知る我知る」である。意識に遺る内容が本人の納得できるものであるなら、人の心はいつでもどこに居ても平安であろう。
自己に忠実な生き方は、成功とか繁栄を必ずしも保障するものではないだろう。むしろ逆に作用することの方が多いかも知れない。それで何の不都合も不具合もなく人生を全うすることができるのは、顧みた時に、自らに疑念を覚えることが寡ないからだろう。
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