結婚生活も60年近くなると、夫婦は互いに空気のような存在で、お互いの特徴にも飽き飽きしてくるというか、夫とか妻の役割が面倒になるようだ。父母としての役割も随分昔に了えている。
それなのに、今でも何かというと妻に「お父さん!」と呼ばれる。妻に対しては、私はファーストネームを約めた愛称で呼んでいて「お母さん」とは呼ばなかった。私も新婚の時のままファーストネームで呼ばれていたかったが、父親になったら「オトウサン」が定着してしまった。日本人の夫は子どもたちの「オトウサン」の意義が最も大きい。その時期は始終自覚を促される。
長年の体験で、「オトウサン!」には、怠慢を非難する前触れを感じ、今でも「ドキッ」とする。甚だ心臓によろしくない。
もう「オトウサン!」はお役御免蒙りたい。妻の発する「オトウサン!」には、どうも過去の諸々の怨念が籠っているようで、気持ちが安らがない。それだけ気に染まないことを妻に押し付けて来たからかも知れない。妻に呼び方を変えるよう相談したが、今更何をと一笑に付された。
そんなことから、近頃の私は自らを「オジチャン」と呼ぶことにしている。ただの他人、「おじちゃん」を装うことにした。当事者責任を曖昧にするためである。
「オトウサン!〇〇知らない?どこへ置いたの?」と来たら、「オジチャンは知らない!」とひと言。この齢になると、追求されることがとても嫌なのである。
「オジチャン」なら、キツイ物言いはしにくかろうとの深謀である。
夫として拙い場面に出くわすと、たちどころに「オジチャン」に変身する。
流石の妻も、自らを「オジチャン」と名乗っている者には追求の矛先が鈍る。狎れを薄める効果がある。
「俺はこう思う」とか、夫風を吹かせた物言いが反発を招くのだから、「オジチャンはこう思う」とやると穏やかに済む。
「おい、お茶!」などはもっての外。成る可くアカの他人を強調し、心理的に距離をとるのである。
「オジチャンはお茶が飲みたいなぁ」と言うと、渋々お茶を淹れるから愉快である。
「おじちゃん」を前面に出すと敵は面喰らう。自分より年配の老人を意識した途端、常の夫に対する様に無下な態度はできないのだろう。
夫婦も年をとると、円満にやって行くためには、無い知恵を絞らなければならない。
私も大体同じ年代を生きて来たばぁばで、子供たちはそれぞれに自活し、今はじじ
ばば暮らしとなりました。仲良く平和な
老後を過ごすことをなんとなく当たり前のように想像していましたが、ハズレました!今は自分が心地よく暮らせるような日を模索中、トホホな人生です。
いつも拙ブログご覧いただき、有難うございます。
共白髪で、見かけは七五三の千歳飴の絵のようですが、感情は行き違いがなくならず、なかなか円満で穏やかとは参りません。お互いに虎の尾を踏まないよう、気を配る毎日です。
昨日からブログ拝読させて頂き興味津々です
60年、昔は50年たもなれば役所やその他からお祝い等もらい噂にもなりかねないお目出度い事ですね、「オトウサン!」の呼び方は
怨念込みの呼び方に聞こえたりして、、、
私の場合、夫の方が、喧しく呼ぶので
イヤになります、イヤになるので返事しないと「何やいるのか人が呼んでいるのに返事くらいしたら…」言うのが又々イヤです、
ほんとに私もいい加減空気の存在で有りたいと思います、空気の様な存在と言うのは悪い言い方ではなく、お互いに安心して同じ居場所で生活してお互い信頼し合い歪み合うことなくお互いに自由を認める、空気の様な夫婦
が理想なのですが何年経っても他人なのですから、呼び名を代えて少しでも精神的に
楽になりたいと思われるお気持ちお察し致します、長々すいませんでした。
コメント有難うございます。
変身を装っているうちに自分が誰だか分からなくなってはいけないので、ブログの投稿と閲覧が欠かせません。生活の一部です。
記事を読んでくださる方が居ることは何よりの安心、人様の記事は、視野を広げ自分を客観視する上でなくてはならないものになっています。
我が家はこちら様とは逆で、最近ますます夫風を吹かすようになりました。私が以前のように従順でないから焦っているようでございますが、妻も後期高齢者になりましたら以前の様に気軽に夫の要望に応えることもできにくくなってまいりますから仕方ありません。せめてどこかのおじさんになって遠慮がちに頼んでくれましたら私もできるだけ要望に応えようと努めますのに残念でございます。
コメント有難うございます。
一般に歳をとると、男性は円くなると言われております。
それに対して女性には、老いると尖るというか口やかましくなるなるタイプも居ます。舌切り雀のおばあさんがその典型。あれば若い頃は円かったのに今になって尖るのは、
夫婦は反射しあって老いていくもののようですね。