道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

居心地の好さ悪さ

2022年08月12日 | 人文考察
柳田国男は、日本人の事大主義、長いものに巻かれる性向は、およそ数千年前に列島に渡って来た人々が、以前に住んでいた中国大陸の何処かの故地での社会生活で身につけた「クセのようなもの」ではないかと推理している。

日本の社会は、巻く人と巻かれる人々でできた無数の集団で成り立ち、それぞれ支配・被支配の関係にあるのだが、それが各構成員の主義でなく、クセというところが、西欧の学問による視点で見ていては理解できない指摘である。

これは、日本の社会・政治を考える上で、重要な指摘であるように思う。私は、この国の、どうにも理解できない社会現象や政治状況に遭遇する度に、この私たち民族に通有するクセというものを想像せずにはいられない。

長いものに巻かれることがクセになっている個我なき民衆というものは、巻く側の人々にとっては、極めて都合が好いだろう。民衆を被支配に順応させる為の苦労は軽くて済む。被支配に従順な国民を統御するのは、政治権力にとってどれほど有利なことか。

動物の世界では、個で生きるものと、集団で暮らすものとに分かれる。
ネコ科の肉食獣は、狩りのテリトリー確保の関係で集団生活を営まない。
羊は集合することで身を守る習性があり、広大な草原に放たれた羊の群れを牧羊犬数頭で統御できる。同じ草食獣でも、ウサギやリスなどは、生存上の理由から分散して営巣する習性なので、統御するのは全く不可能に近い。集団飼育は難しく、強力な柵で囲い込むしかない。
人類に、強い自主性を保ちつつ社会生活を営む人種・民族と、自主性・主体性があまり強くない人種・民族がいても何ら不思議ではない。

日本人は長いものに巻かれることを好む。長いものに巻かれて人生の大半を過ごした人々は、現役を退き自適の身になっても、やはり長いものに巻かれていないと居心地が悪いもののようである。先祖から受け継いだクセだから仕方がない。

大企業の管理職を退職した人が、名刺が無い境遇は実に落ち着かないとぼやいていたのを憶えている。その人は後に俳句の会に入り、会の名刺を貰ったと、嬉しそうに見せてくれた。やはり長いもの(団体)に巻かれていないと落ち着かなかったのだろう。

所属する組織や団体の一員でない状態、即ち肩書きがない一個人の立場になると居心地が悪くて仕方がないという人は多い。依拠するものがない不安は、それを何よりも大切にしていた人にとって、他人の想像を遥かに超えるものがありそうだ。

日本人が殊の外名刺を大切にするのは、本人の自己紹介という目的よりも、帰属している社会集団を初対面の人に知らせる、身分証明としての機能に重きがあるからだろう。
名刺の肩書きで人に見られ、人を見てきた習慣は、キャリアを終えても長く遺存するもののようだ。

巻かれ好きは巻き好きでもある。年中集団を把握維持していないと落ち着けない人々も多い。特に自分の世界を持たないで組織に依存していた人々は、殊の外個人になることに向かないようだ。明らかにこれは理屈でなくクセである。西欧個人主義の基本、自己のアカウントで生きる人々からは、到底理解されないだろう。

社会的存在である私たち人類は、個で生きることは、誰にとっても厳しいか難しいものがある。厳しいからこそ、本人自身の生き方が大切になってくる。

集団に帰属している方が社会生活は明らかに有利・有益である。集団主義は人に具わる自然の欲求である。集団の恩恵を知ると、個で居ることは洵に心許ない。それでも敢えて自己のアカウントの確立を目指すのは、個でないと見えないもの、気づかないもの、発想できないもの、身に付かないものがあることを、知ったからだろう。少数派だが、こちらの方が居心地の好い人々も居る。


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