道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

文化の潔癖性

2024年08月07日 | 人文考察
フランスは移民の国だと、フランス生まれの人が語っているのをYouTubeで視聴した。その人の謂う移民は、私たちの目にはフランス人と見える、一般にヨーロピアンと呼ばれる人たちを指しての意味だろう。

迂闊にも老生は、フランスに対して、そのような認識は皆無だった。私の知るフランスは、陋固としてパリに生粋のパリジャン・パリジェンヌが住む、文化の咲き匂う農業国である。
エッフェル塔の前で、嬉々として記念写真を撮って燥いでいた婦人国会議員並みの認識である。彼女らばかりか日本の女性は、特にインテリほど、フランスに憧れること並大抵でなかった。
だが、生粋のパリジャンなんか滅多に居るものでないと悟っていた知仏家は少なかったと思う。三代程度で江戸っ子を名乗れる東京とは、生粋の意味が違うようだ。

かつてライン川を越えストラスブールに入った時、それまで観光していたドイツ国内との違いに、ライン川ひとつ隔てただけでこうも違うものかと愕いたことがあったが、今思うと甚だ浅薄な見解だった。川よりも大きな要因があったのだ。当時の私は、フランスを移民国家とは全く見ていなかった。

考えてみれば、日本のような島国と違って、地続きのヨーロッパは、人々が移動し易く、移民は特殊なことではなかったことだろう。
先史時代から、戦争や飢饉により間欠的に繰り返し起こった住民の移動の累積によって、現在のヨーロッパの各民族・国家の元がある。
更にヨーロッパの国々には、近世の植民地主義の残映として、植民地から労働力として移住を強制された人々も居るはずだし、自発的に宗主国に移住して来た人々も多いだろう。

人というものは、文化の低い方から高い方へ、生活が苦しい方から楽な方へ、専制の強い方から緩い方へ、生産性の低い方から高い方へ流れる。
水と違って、低きから高きへ流れる。それが人間の移動の動機と方向である

とりわけフランスの歴史には、国力盛んで文化の華が絢爛に咲き誇った時代があり、周囲の国々の人々は様々な理由でフランスを目指したことだろう。とりわけスイス・イタリア・スペイン・ドイツなどの隣接国とは、文化と民族の混淆が顕著である。移住というより浸透という方が適切かもしれない。総じてヨーロッパの社会は、域内の移動のフットワークの軽さにおいて、私たち島国日本に生まれ育った者には理解を超えるものがある。

私は若い頃は、日本の文化というものを考える時、文化の潔癖性というか保守性に、いつも兜を脱ぐ思いがした。
先史時代(弥生・古墳時代)から、大陸の文化に濃密に触れ積極的に導入し、強い影響を受けていながら、平安時代に唐風から国風へと大きく転換したことの特異さには、今日でも大きな関心がある。残滓を残さない徹底ぶりに感服する。
それは文字・被服・礼法・武具・建築に及んでいる。
飛鳥時代に始まる隋・唐の文化一辺倒の時代にも、国風(和風)という土着文化を確立維持できたのは、大陸の文化が統治階級の有産貴族のもので、生活者の庶民階層にまで敷衍していなかったからだろう。漢字文化の影響を最も強く受け、精神の植民地化を体験したのは、貴族たち特権階級だった。

先進文化を学ぶために飛鳥・天平時代に始まる遣隋使と、それに続く遣唐使に随伴し唐に留学した優れた学者や僧侶たちの中に、慧眼の士が多数居たのだろう。唐の文化(=中華文化)に潜在する数々の不合理、矛盾に気づき、わが国がこれ以上唐の文化に染まらないよう、菅原道真が天皇に上申して、遣唐使は廃止された。それ以後から、国風への転換が始まったのだろうか?
道真が左遷されたのは、朝廷内の親唐派(今でいう親中派)の反発が強かったのではないか?いつの時代でも、
優越国への留学者はその国の権威に縋る。
平安時代には、知識は学んでも、精神まで唐風に染まってはいけないことを、実地での体験を通じて痛感していた人々が居たことが想像される。

一旦他の文明の洗礼を受けた国が、その文明に基づく文化を導入して国体を築いていながら、土着の文化を廃することなく発展させ、ある意味で文化のクーデターを実行できたことは、世界の歴史の中でも特筆に値するのではないか。

常に見え隠れするこの国の文化の「潔癖性」というものは、善かれ悪しかれ、私たちの精神構造に由来するものなのだろうか?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山歩きの必携品 | トップ | 蟠りの解消 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿