道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

無知を愧じない

2022年08月08日 | 随想
私たちは、無知を些かも慚じることはない。むしろ、無知を隠したり、自分自身で考えないで、他人の知識を安直に利用していることを愧じるべきである。
そうかといって、己れの無知に目を瞑り、独善に陥って助言を聴かず迷妄に陥るのは、決して許されることではない。それは厚顔に繋がる。

どれだけ旅を累ねても、見知らぬ土地がいっこうに減らないように、どれだけ学んでも、脳のメモリが知識で埋め尽くされるということはないだろう。未知は砂漠のように茫漠と広がっている。
対象の無限性に想像を巡らすことができれば、誰もが無知を弁え、無知から脱しようなどと大それたことは願わなくなる。人は本質的には、ひとりで蒙を啓くことは不可能で、多数の人々の学習や体験の結果を利用させてもらい、助言・提言・批判を真率に聴くことで、何とか知識が身に付く。

人は無知よりも、自分で思考しないことを愧じなければならない。考えることは誰でも容易に出来るのに、他人の考えたこと(書いたこと)を借用することに慣れ、自分自身で思考・熟慮することを省いてしまうのは、洵に惜しいことである。
多読の果てに、他人の考えで頭がいっぱいになってしまった人は多いが、活用できる知恵は、読んで後にその人自身が生み出したものの中にしか存在しない。

自分の頭で考えることを省けば、それはある意味自分自身の思考力を自ら毀損していることである。 
惚けるのは老化現象で神慮に発するものだが、若いのに自分で考えることを放棄するのは神慮に逆らうものと、厳に戒めなくてはならない。

官僚の書いた原稿がないと、所感や所論を述べられない政治家が日本には甚だしく多い。自らの所信に忠実な欧米の政治家と際立った違いである。他人の書いた(=考えた)ことを自分の考えのように人前で語ることに屈辱を感じないで、当然のように毎度テレビカメラや人前で丸読みして何ら愧じることがない。

「下手の考え休むに似たり」という嘲りがあるが、人から休んでいるように見られようと、その人の考えは他人に無い独自のものだから、その人は休んでいたのではない。下手であれ上手であれ、考えなかったら、間違いなく休んでいるのである。

人は思考をしていなければ、眠っているも同じである。生命とは思考そのものである」とさえ言い切ることができるのではないか。
「下手の考え」と嗤われようと、自分で考えたことは、内容や結果の良し悪しにかかわらず、自身が大事にしなければいけないと思う。考えが間違っていたら、其処から改めればよいのだ。考えていなかったら、何処から改めたらよいのか分からない。


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