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維新、功山寺挙兵  高杉晋作の肝っ玉

2019-05-20 02:48:48 | 時評

維新、功山寺挙兵  高杉晋作の肝っ玉

高杉晋作の年譜を見れば、4年間に3回の戦争を経験して、
1864年の功山寺挙兵では藩論を統一して幕府軍と対戦した。

1863年(24歳)
下関戦争に参加する。
・1864年(25歳)
第一次長州征伐が発生する。
功山寺で、挙兵する。
・1865年(26歳)
功山寺挙兵が成功
・1866年(27歳)
第二次長州征伐

推測だが、藩論を転換せねば、獄死もあったかと思う。
明治維新が、西雄藩の倒幕で叶えられた事は、奇跡に近い。
明治維新で、クーデターの首魁が禄を離れ、史族階級が
消失した。形は王政復古の様相で、徹底さに欠ける印象だが、
江戸幕府からの転換には、妥協も必要だと思う。

戊辰、函館戦争と、戦利を求めたが、その後の士族の反乱は
防ぎ得なかった。
いずれにしろ、1983年の時点で、高杉晋作は領土交渉の表に立った。
今の維新の党、片山代表や馬鹿幹事長とは違った交渉の姿であった。


丸山穂高氏の事件は、戦争と言う語句を巡って、その憲法9条解釈は
平和主義と言うもので、野党からメデイアから、総攻撃を受けたが、
憲法9条が戦争を回避できるかと言う点では、いろいろな議論がある。
「戦争を覚悟すべきだ」と言う意見は、議員などは否定すべきだという意見が
多数を占めたが、民間人にはその様な制約は無い。

丸山氏を擁護する意見は、三種に分かれた様子である。
当ブログも、維新の党の処分は、過剰であって、言論弾圧に近いと申した。

野党外交の是非は、維新がロシア大使に謝罪に及んで、国益を毀損している。
ロシアとの確執は、条約を破棄したロシア当局とシベリア抑留の終結を
見ていない点に凝集される。

野党とメデイアとの期待は、見事に外れてしまった。
元々、憲法9条についての共産党や立憲民主党などの主張は外れているのだから、
議論しなくて正解かもしれない。憲法審査会 を開かない理由が、議論したら
負けるからなのである。野党とメデイアとは、多数派工作のふりをして、少数派だと
印象を深める事態となった。

ひとつ、例題が出てきた。

憲法9条が平和主義なら、自衛隊の存在は、平和主義の具体策である。

いずもの空母化、イージスアショア、敵基地反撃能力など
積極的平和主義に野党6党は、どういう、答えを出すんだろう?
彼らは、北朝鮮ミサイルの前に、日本国民は犠牲になれと言うんだろうか?



長州男児の肝っ玉・高杉晋作の功山寺挙兵
2015年08月03日 公開
歴史街道編集部
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2454

元治元年(1864)12月、雪の舞う長府・功山寺で、高杉晋作が萩政府を倒すべく、一か八かの賭けに出ました。
「従う者は僅かでも、いや、たとえ自分一人だけでもやる」。その高杉の気迫が、幕末の長州に奇跡を起こします。今回は高杉の功山寺挙兵をご紹介してみます。

一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義
元治元年(1864)、禁門の変、四カ国連合艦隊の襲撃と、敗北続きの長州藩では、それまで藩をリードしてきた急進派が力を失い、藩の要職に旧来の派閥が返り咲きます。いわゆる俗論党で、その中心が椋梨藤太でした。
幕府に対する恭順しか、長州藩が生き残るすべはないと考える椋梨らは、幕府による長州征伐の軍勢が迫る中、政敵の周布政之助を失脚させると、禁門の変で指揮を執った三家老を切腹させ、幕府に謝罪。
次いで急進派の面々を捕えると野山獄に入れ、後に粛清することになります。「甲子殉難十一烈士」と呼ばれる人々で、その中には吉田松陰に兵法を教えた山田亦介や、小田村伊之助の兄・松島剛蔵も含まれていました。小田村自身も椋梨に睨まれ、投獄されています。
さらに奇兵隊や諸隊(奇兵隊同様、正規軍ではない諸部隊)には解散命令が下されます。要は幕府に対し、「まったく抵抗する気はありません。過激分子はすでに藩で処罰しました、どうか寛大な御処分を」という体裁をとったわけです。
萩の自宅に閉居中であった高杉晋作は身の危険を感じ、すでに密かに藩を脱出、九州に亡命していました。晋作は「谷梅之助」の変名で福岡に逃れ、女流勤王歌人として知られた野村望東尼〈ぼうとうに〉の平尾山荘に潜伏します。
しかし急進派の人物が片っ端から捕えられ、さらに奇兵隊をはじめとする諸隊が解散を迫られていることを知ると、藩政府を倒す以外に長州を救う道はないと考え、命がけの挙兵を決意して、11月15日、晋作は下関に戻りました。
晋作は、当時長府に集結していた奇兵隊をはじめとする諸隊に、決起を説いて回りました。しかし奇兵隊総管・赤禰武人や軍監・山県狂介をはじめ、諸隊の幹部で積極的に同調する者はいません。彼らの意見は、諸隊すべて合わせても兵力は800程度。藩政府を相手に勝算無く、挙兵は時期尚早というものでした。
かつて自分の手で結成した奇兵隊も、今や自分の意のままにはならず、晋作は組織というものの奇妙さに苦笑したかもしれません。とはいえ、あきらめるわけにはいかないのです。
「今、決起して萩の俗論党を倒さなければ、長州は死ぬ。長州が死ねば、松陰先生や久坂や入江や吉田らが捧げた命は、意味を失ってしまうではないか。いや、それどころか幕府を倒し、日の本が生まれ変わる機会も永遠に失われる」。おそらくそんな内容を晋作は説いたはずです。
しかし、人間とは、理屈では命を賭けられないもののようです。依然、沈黙を守る隊の面々に晋作は、「わかった。もはや諸君には頼まない。ただ、馬を一頭貸してくれ。僕は萩へ行く。そして大殿様と殿様をお諫め申し上げて腹を切ろう。萩に向かって一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。今はその時ぞ」
それでも共に起とうという者はなく、面々は席を立ってしまい、残ったのは伊藤俊輔(博文)だけでした。結局、晋作に同調したのは伊藤率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人弱に、佐世八十郎(前原一誠)を加えた、およそ80人です。
強烈な思いと時の勢い
晋作は「これでよし」としました。これだけの人数でも、突破口を開くことができれば、局面を変えうる可能性があるからです。が、もとより生還を期してはいません。彼は支援者である白石正一郎の弟・大庭伝七に自分の墓碑銘を託しています。
「故奇兵隊開闢総督高杉晋作則/西海一狂生東行墓/遊撃将軍谷梅之助也」。自分の墓には、そう刻んでほしい、と。まさに松陰の教え「死して不朽の見込みあらば、いつにても死ぬべし」を実践しようとしていたのでしょう。
元治元年12月15日、雪の降る深夜。晋作は率いる部隊とともに、長府の功山寺の山門をくぐります。客殿に三条実美ら五卿が潜居していました。晋作は五卿を前に決起の趣旨を語り、祝い酒を振る舞われたといいます。五卿らは、訳がわからなかったかもしれません。
この時、晋作は26歳。紺糸縅の具足に、桃形の兜を首から背にかけ、玄関外まで見送りに出た五卿らの前で乗馬すると、振り向きざま叫びました。「これより、長州男児の肝っ玉をお目にかけます」。
晋作が号令をかけ、80人は一路、雪の中を下関に向かいました。そして未明に藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って、萩の俗論党政府に宣戦布告をするのです。さらに晋作は海路、三田尻に赴き、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻りました。
この晋作の鮮やかに手並みに、静観を決め込んでいた山県も方針を転換せざるを得なくなり、奇兵隊をはじめ諸隊が続々と晋作のもとに駆けつけて、軍勢が急激に膨らみます。一方、萩政府はこの事態に、野山獄にあった急進派11人を粛清しました。
さらに12月26日、藩の正規軍である諸隊鎮静軍3,800が萩を出立。三方向から進軍を開始します。鎮静軍先鋒隊1200は、萩から下関に通じる赤間関街道を南へ5里の絵堂宿に宿営しました。晋作ら諸隊もこれに応じて北上を開始します。
1月7日未明、諸隊は野戦砲を合図に絵堂の鎮静軍を奇襲。鎮静軍は不意をつかれて慌てふためき、諸隊の小銃の一斉射撃の前に、なすすべもなく別働隊の駐留する一ツ橋まで後退しました。諸隊は一ツ橋方面まで進出し、別働隊の指揮官は戦死。鎮静軍はさらに後退します。
この時の諸隊は、斥候部隊の規模であったようですが、鎮静軍は敗退。同日午後には山県狂介率いる本隊も到着し、諸隊は8日、大田に移動しました。奇兵隊は大田の光明寺に本陣を置きます。
そしてここで重要なのが、諸隊の勝利が近隣の村民の支持を得たことでした。諸隊は庄屋から軍資金と食糧の提供を受け、千人以上の農兵も諸隊に協力することになります。その後も鎮静隊は何度か攻勢を仕掛けますが、一進一退の攻防となりました。
1月16日。諸隊は、新たに参戦した晋作らの遊撃隊を中心に夕刻、大田本陣を出立。18時頃、絵堂から赤村の出口に当たる3方向から、鎮静軍が本陣としていた正岸寺を夜襲しました。
松明をかざして正面から遊撃隊・奇兵隊、搦手から八幡隊ら諸隊が攻撃します。戦いは午前2時頃まで続き、鎮静軍は夜のうちに退却しました。
一方で晋作は、三田尻で奪った軍艦を萩沖に回し、空砲を撃たせます。殷々たる砲声は、萩城下の人々を驚かせるとともに、諸隊の勝利と俗論党の敗北を印象づけました。
これら7日から16日までの戦いを大田・絵堂の戦いと呼び、諸隊の勝利が萩政府内での椋梨ら俗論党の失脚という一大政治転換をもたらすことになります。その後、長州は急進派主導のもと、四境戦争を経て、維新へと突き進むことになりました。
晋作が睨んだ通り、「突破口を開くことができれば、局面を変えうる」展開になったわけですが、その奇跡を呼んだのが、「たとえ自分一人でもやる」という晋作の強烈な思い、気迫であったこと、そして、それが時の勢いを追い風にして、体制を覆してのけたという事実は、私たちに多くのことを語りかけているのかもしれません。




高杉晋作の年表を簡単に解説します。


・1839年(0歳)
長州藩(現在の山口県)で生まれる。


・1852年(13歳)
長州藩の藩校(武士の子が通う学校)明倫館に入学。


・1857年(18歳)
吉田松陰の松下村塾に通う。


・1862年(23歳)
幕府使節随行員(ばくふしせつずいこういん)として上海へ留学する。
同じ長州藩の友人である久坂玄瑞らと共に、江戸の品川御殿山(しながわごてんやま)に建設中だったイギリスの公使館の焼き討ちを行う。

・1863年(24歳)
下関戦争に参加する。
長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、アメリカ、フランスと衝突する。
敗北した長州藩の代表として、外国との交渉を担当する。
奇兵隊を結成する。


・1864年(25歳)
第一次長州征伐が発生する。
長州藩は幕府軍に降参するが、高杉晋作はこれに反対する。
下関市にある功山寺(こうざんじ)で、幕府に従うことを主張する藩の家来を倒すために挙兵する。


・1865年(26歳)
功山寺挙兵が成功し、長州藩は幕府と戦うことになる。


・1866年(27歳)
江戸幕府がふたたび長州藩を攻める。(第二次長州征伐)
高杉晋作もこの戦いに参加し、幕府軍に勝利する。


・1867年(満27歳)
肺結核にてなくなる。




元治の内乱(功山寺挙兵):ここから長州藩は攘夷から倒幕に変わった
 
小澤紀夫 ( 40代 大阪 営業、企画 ) 14/02/21 AM02 【印刷用へ】
 長州藩は当初は攘夷思想で、日本のために外国を討つという考え方でした。しかしそれが倒幕をして政権を握ることを第1にすると転換しました。これが元治の内乱(山寺挙兵)です。
 そこで活躍したのが高杉晋作と伊藤俊輔(伊藤博文)でした。そして公家である五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)がつながっていました。

ウイキペディア功山寺挙兵リンクから紹介します。

功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。

【背景】
 禁門の変により長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われ、三家老(国司親相・益田親施・福原元?)が切腹し、藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握ることとなった。俗論派は長州正義派に対して厳しく粛清を行い、周布政之助に切腹させ、井上聞多を襲撃し重傷を負わせる。さらに俗論派は功山寺に潜居していた五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)を太宰府に移送することで志士の後ろ盾を完全に廃し、志士狩りを強化しようとした。

 俗論派の粛清から逃れ平尾山荘の野村望東尼の元で潜伏していた高杉晋作は、五卿移送の件を知り下関へ戻って奇兵隊に決起を促すが、山県狂介に時期尚早と反対される。諸隊にも呼びかけたが俗論派を討つ為とはいえ藩主に弓ひくことをためらう者や圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことに反対する者が多数であった。

【挙兵決行日について】
 高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われる。

 挙兵決行日は実際には説得や準備に手間取り翌日にずれこんでしまったが、当初は12月14日を挙兵時期に定められていたと言われる。これは吉良邸討入と同じであり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である。挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていたとされる。なおこの日の天候は吉良邸討入時と同じく下関では珍しい大雪であったとされる。

【挙兵】
 功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと断った上で、物資調達のために下関新地会所を襲撃し根来親祐(根来上総)を降伏させ占拠した。この時、長府藩主毛利元周が領内の行軍を牽制したため有志が船を手配し海路にて新地へ移動した。ところが会所襲撃は俗論派藩政府に想定されておりすでに物資は萩に持ちだされており、同情的な立場の根来親祐のとりなしで物資を調達した。 次に18名(20名説もあり)からなる決死隊で三田尻の海軍局に攻め入り「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取した。(丙辰丸と庚申丸の奪取には至らなかったものの癸亥丸艦長福原清介の説得には成功したという異説もある)。

【戦後】
 この挙兵の報が広まると井上聞多・品川弥二郎・山田顕義・河上彦斎らが呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。勢力を増すと日和見をしていた奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がり高杉に協力した。 俗論派藩政府はこの報復として野山獄に捕らえていた正義派11名(甲子殉難十一烈士)を斬首し清水親知を切腹させた。しかしこれが諸隊の反発を強め赤根武人の調停策を妨げた。後に大田・絵堂の戦いで俗論派の藩の正規軍と対峙し、反乱軍がこれを破ったことで、藩論は倒幕に統一された。

<引用終了>