沖縄戦は、日本領土で唯一の地上戦であると言う、沖縄2紙の
嘘に惑わされてはいけない。満州も樺太も全千島列島も南方の
島嶼も日本国土であった。
ただし、沖縄戦が、喧伝される史上最大の作戦を凌駕する規模であったのは
当ブログは確実視している。
島嶼戦げは、玉砕戦法と言えば、高尚に思えるが、帝国陸軍も海軍も
補給を断たれた状態で、制空権と制海権とを奪われて、実際は堵殺であった。
最低で4日間もしくは1週間にも及ぶ爆弾投下と艦砲射撃が昼夜分かたず
繰り返され米軍はその後上陸してきた。
この状態の記述は、『日本人の勇気』と言う書籍に、詳しい。
玉砕とは、全滅という事である。
勇敢なる米国軍人は、日本軍が抵抗をやめるまで、戦闘を継続した訳である。
こうした戦場は、日米戦争を人種戦争と称する事からも想定出来る。
日本国憲法の草案は、フイリピン憲法が下書きになり、憲法9条が示す、
非武装が日本の国会でも初期の見解であったが、第一次朝鮮戦争で
米国の戦略が変化した時に、憲法改正すべきであったが、
その事が、現在でも自衛隊違憲論を唱える事態を招いている。
憲法改正反対で、議論もダメの野党の行動は、様々な弊害を招いている。
今般の新型コロナで、特措法に強制力皆無のお願いに成っている。
この事態に対して、野党が特措法の強化を言い出して、強制力を、
というのは欺瞞である。インフルエンザにコロナを被せた法令になって、
法制の土台を作ったのは、悪夢党と称される民主党政権時代である。
現在の野党は、法令一つまともに作れないで、真っ当な政治と
嘯いている。
米軍の評価が高いのは、硫黄島の戦いであり、
1945年2月19日 – 1945年3月26日
クリントイーストウッドは、米軍側と日本軍側から見た映画を作った。
最近、アーノルド・シュワルツネッガーが米国の大統領選挙で表明した
言葉を垣間見るに、映画スターでも人物の違いは誤魔化しが効かないと
思うに至った。
>梯久美子 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年、ISBN 4104774014
新潮文庫、2008年、ISBN 410135281X
>『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ)
>『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙)
(引用始まり)
16日16時過ぎ、栗林中将は大本営へ訣別()電報を送った。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テス 陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ 尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク申上グ 終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ」
国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ
南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる
栗林忠道陸軍大将の訣別電文は役人の手で、散るぞ悲しきを「悔しき」と改ざんされる。
国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
(引用終わり)
(引用始まり)
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した[20]。司令部に勤務し、生還した松本巌(海軍兵曹)によれば、書簡文日本文は村上治雄(海軍通信参謀)、英文は赤田邦雄(第二十七航空戦隊参謀)が体に巻いていたという[20]。状況から、日英文3部書かれたと思われる[21]。アメリカ海兵隊によれば、書簡(和文・英文)は硫黄島北部壕内で発見された[22]。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
貴下ハ真珠湾ノ不意打ヲ以テ、対日戦争唯一宣伝資料トナスト雖モ、日本ヲシテ其ノ自滅ヨリ免ルルタメ、此ノ挙ニ出ヅル外ナキ窮境ニ迄追ヒ詰メタル諸種ノ情勢ハ、貴下ノ最モヨク熟知シアル所ト思考ス。 (中略)卿等ノナス所ヲ以テ見レバ、白人殊ニ「アングロ・サクソン」ヲ以テ世界ノ利益ヲ壟断セントシ、有色人種ヲ以テ、其ノ野望ノ前ニ奴隷化セントスルニ外ナラズ。 (中略)卿等ノ善戦ニヨリ、克ク「ヒットラー」総統ヲ仆()スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。
(引用終わり)
「予は常に諸子の先頭に在り」
自衛隊の幹部は、常に着任に際して、この言葉を言いたいと祈念している。
言葉に出して言い得る自衛隊幹部は、幸せである。
拉孟守備隊は千二百八十人、騰越守備隊は二千二十五名に過ぎなかった。
https://ameblo.jp/murasaki-gumo-tenchi/entry-12437072382.html
1200名とは、当時の軍制では聯隊規模であり、中国軍は米英の支援下の
精鋭5個師団48000名であった。
拉孟・騰越は世界史上でも稀有な陸上での玉砕で、中国軍のビルマ進出を
防いだ。
インパール作戦は、無謀な戦争の代名詞となっているが、英国のマウンテンバット将軍など
英軍から見れば援蔣ルート を遮断して、インド独立の原因とも成った戦争である。
日本軍は、強姦や略奪を厳しく罰して、韓国正規軍のインドネシアにおけるライダイハンなど、
国の恥を、今も拭ったままで、しらを切っても、混血児は数万名の証拠が残っている。
慰安婦問題は、売春婦の問題で、日韓の混血児はほぼ無いし、
奇妙な事に、中國では残留孤児が居て、朝鮮半島では、皆無である。
韓国人が、朝鮮半島離脱に際して、何を行ったか、糾明すべきである。
『竹林はるか遠く』、『 続・竹林はるか遠く 』を韓国は発禁本とした。
韓国にとって、日本人の朝鮮半島逃避行は余程都合が悪いと見える。
>竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2013/7/11
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ (著, 監訳), & 2 その他
(引用始まり)
悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め多くの将兵の命を救った。
(引用終わり)
退却する日本軍がチンドウィン川を 渡河するに、竹の束に縋った点は
『竹林はるか遠く』、に流れる視点と重なり合う。日本兵が屍を晒して、
白骨街道と呼ばれた。
立憲民主党枝野幸男代表が、コロナゼロと言いだしたが、
コロナ感染で医療崩壊と言うさ中に、今度は電力ひっ迫と言う緊急事態である。
原発ゼロは、立憲民主党の基本政策であり、放射能に対する異常な
感覚が、原発ゼロであり、見えないものに対する科学的洞察力の欠如が
その正体であり、福島第一汚染水の排出に、国際原子力期間さえ、
度外視する迷妄ぶりである。 ICRPの数値は日本人研究者が裏書きして来た。
事故の規模も、チエルノブイリ、スリーマイルにも遠く及ばない事故の規模で、
丁度、コロナで2類から、5類に変更すれば、と言う提案と並ぶ混乱ぶりである。
2類でも5類でも、コロナのウイルス特性には変化は有り得ない事である。
北海道でのブラックアウトは、深刻な製造業への被害をもたらした。
最近のシナボカンを見れば、世界一の経済回復に疑問が湧いてくる。
中国は、権力闘争の真っただ中で、米国のバイデンジャンプと良い勝負なの
が、正当な見方だと感じる。不正バイデンは、19万本の国旗を並べて、
墓標が並んでいるように見える。
ベースロード電源は、多様な方法を網羅すべきである。
ホルムズ海峡を 封鎖されれば、日本が干上がるようなエネルギー政策は、
日本人何人が死ねば、緊急事態かと問うようなものである。
しかも、米国とイランの間に紛争が起きそうな時点で、立憲民主党枝野氏は
自衛隊艦船派遣に反対したではないか。世界の平和を願うなら、指を咥えて
済む事態ではない。米国のバイデン就任の騒乱でも、世界各国の情報機関は
活動していると、その形跡を強く感じる。
多分に英仏独などの活発な行動は、政治指導者の発言として現実化される。
『コロナゼロ』などと、児戯にすぎない空論である。(アンポンタン)
第二次世界大戦無双が出た場合に収録されそうな一番難易度高い戦い
January 20, 2021
http://fesoku.net/archives/9747117.html
拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の戦い 後日談
2019年02月15日
テーマ:日本の歴史
https://ameblo.jp/murasaki-gumo-tenchi/entry-12437072382.html
「森羅万象の歴史家」というサイトの記事をご紹介いただきました。
非常に内容のある文章だと思いますので、それを転載します。
拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の戦いの後日談もここに出てきます。
<↓引用>------------------
http://oncon.seesaa.net/article/124934958.html
藤本治毅(元陸軍憲兵大佐)著石原莞爾の101~102頁に満州事変時の強姦事件について次のように記述されている。
昭和七年九月十五日、日本は満州国の独立を正式に承認し「日満議定書」の調印をも了した。事変当初、軍司令官以下が奉天に乗り込んできたときである。
奉天駐屯の歩兵第二十九連隊の一上等兵が、中国婦人を姦した一件が軍司令部に聞こえてきた。
連隊幹部はもとより、軍司令部内においてさえも、兵馬倥偬の間の出来事であるから、大目に見ようという意見があった。だが烈火の怒りを示したのは莞爾で、
「聖戦の前途を汚す悪鬼である」
とて、最も厳重な処分を要求して譲らなかった。
平田連隊長もその正論に屈し、これを最大限の降等処分に付した。
ために全軍将兵粛として声をのんだのである。
ところがこのことがはしなくも敵側に伝わり、後日馬占山がチチハルを捨てて退却するに際しては、
「日本軍がきたら城門を開いておけ。
そして各自平常の業務に服しておってよろしい。
張海鵬の軍(関東軍の友軍)が来たら、
城門を固く閉ざして各々自衛の処置をとり、
強姦、略奪に対処せよ」
と、住民に布告して立ち去ったという。
満州事変のとき日本軍将兵が犯した強姦件数は一件だったという話は、我が国の敗戦を契機に軽度の反日的日本人に転向した石射猪太郎の「外交官の一生」にも出てくるので、おそらく強姦事件は殆どなかったのだろう。
ここで我々戦後世代が留意しなければいけないことは、日本軍の強姦の定義である。
山本七平氏の「私の中の日本軍」88頁によれば、日本軍には和姦という概念が存在せず、住民と情を通じて問題になれば、すべて強姦事件であって、軍の慰安所以外の性行為はすべて違法であったという。
つまり信用できる日本側の戦史資料の中で日本の軍人が語る日本軍将兵の犯した「強姦事件」には、将兵が戦地や占領地の女性と恋に落ち情を通じて性交に及んだ場合を含むのである。
前述の「石原莞爾」の巻末に収録されている辰巳栄一の回想録によると、ロンドンを訪れた石原が各国の武官に対して満州の復興状況を説明し、
「近頃満州の娘さん達が日本軍の若い兵士にラブするものが多くて、部隊長は閉口している」と結び、会場の人々を大いに笑わせたそうだが、部隊長は軍紀上ほんとうに困っていたのだろう。
思うに、日本軍の強姦の定義は広く厳しいが、これは、加害者である将兵には
「合意があった」
という言い逃れを許さず、被害者である女性には
「合意はなかった」
ことを証明する義務を課さず、
合意の有無を調査する煩雑な手間を省いて軍法会議を迅速に進め軍紀を維持するためには、まことに適切であった。
もしサンフランシスコ講和条約の発効と同時に、政府と議会がGHQの占領基本法の一つである占領憲法を廃棄し、徴兵制度を復活させていれば、大東亜戦争に参戦して生き抜いた軍人から戦後世代の多くの一般国民へ、軍隊や戦争の本当の話が伝わり、朝日新聞や日教組は、容易には反日デマを国民に信じ込ませることはできなかったろうに…。
戦前世代が消えていく今後、我々歴史学徒が相当がんばらないと、戦後世代は1945年9月2日以前の日本を理解できなくなり、朝日ら左翼勢力は国民の無知に付け込み、彼らの赤い邪悪な政治目的のために、現在よりも大々的に大東亜戦争史を悪用してくるかもしれない…。
盧溝橋事件から敗戦に至るまでChina戦線で日本軍将兵が犯した強姦事件の総数を調査する能力と意思は、所長にはない。
ただ中華民国の軍事代表として満州をソ連から接収するために苦労した董彦平中将が、ソ連軍の掠奪暴行を目の当たりにして大いに憤激し、回顧録「ソ連軍の満州進駐」に、
「いやしくも社会主義を標榜するほどの国家が帝国主義に圧迫され続けて今ようやく解放の日を迎えたばかりの同盟国の人民に対し、残酷かつ非人道的な凌辱、掠奪をやってのける軍隊の行動を容認するということが凡そ想像されることだろうか。
日本帝国主義は東北同胞を奴隷のごとくコキ使ったが、彼等の軍隊(註、日本軍)は掠奪をしたり、婦女を強姦したりするような事例は、そうざらにはなかった」
と書き記している。
これは「南京大虐殺」が虚構である証拠の一つであろう。
1931年から1945年まで数百万の日本軍が外地に展開したにもかかわらず、ベトナム戦争に参戦した韓国軍とは違い、強姦混血児という国際問題を戦後に残さなかったのだから、おそらく日本軍将兵が犯した純然たる狭義の強姦事件は、極めて少なかったのだろう。
韓国はベトナム戦争に参戦した際、韓国軍兵士による現地ベトナム人女性への買春やレイプなどの暴力行為を適正に統制しなかったために、多くの混血児が生まれた。その人数は現在1万人以上存在しているという。
現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は、行われていない。
そしてネット界の韓国ウオッチャーは知っているように、現在の韓国も世界的に悪名高い強姦大国である。
日本のマスゴミが韓国に肩入れするのは厚顔無恥な同類を憐れんでいるのか。
かつてChineseは洗城(城内レイプ略奪し放題)、屠城(城内みな殺し)という風習を持っていた。そして現在の共産中国も、チベット族やウイグル族を大虐殺している人道に対する犯罪大国である。
韓国人と中国人が語る日本軍の残虐行為とは彼ら自身の素性と歴史を語っていると、我々は考えるべきである。
日本は中韓とは相容れない異文異種である。
我々はこのことを肝に銘じ、日本の女性を守るために、何としても東アジア共同体なる愚劣な構想を潰し、新脱亜論を実現しなければなるまい。
今上陛下が皇太子として昭和五十年二月にネパール国王の戴冠式に参列された際、イギリス首席随員のマウント・バッテン元帥から、
「過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍総司令官として、インド・ビルマ戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう」
と日本軍将兵を激賞する丁重な賛辞を捧呈された(世界から見た大東亜戦争)。
インパール作戦が終末を迎えんとしていた昭和十九年五月十一日、Chinaの雲南方面から、蒋介石の信任厚い衛立煌大将率いる中華民国軍の雲南遠征軍十九万六千人が怒江を渡り、文字通り雲霞のごとくビルマ東部国境付近に押し寄せ、六月二日に四万八千人の中国軍が拉孟城を包囲し、六月二十六日に四万九千人の中国軍が騰越城を重囲下に置いた。
これに対して雲南遠征軍を迎撃する我が軍は第五十六師団の一個師団約一万一千人のみ、拉孟守備隊は千二百八十人、騰越守備隊は二千二十五名に過ぎなかった。
だが両守備隊は、米軍式装備と巨大な物量を誇る中国軍に対して鬼神のごとく奮戦し、拉孟守備隊は九月七日まで、騰越守備隊は九月十四日まで、一歩も引かずに陣地を死守し敵軍のビルマ侵入を阻止した末に壮絶な玉砕を遂げた。
この間にビルマ東部の要衝ナンカンの築城を終えた我が第二師団が密かに東進し第五十六師団と合流、九月三日、約三十万人に膨れ上がった雲南遠征軍に対し総反撃の火蓋を切り、拉孟騰越の両城を救い出せなかったとはいえ、雲南遠征軍に戦死傷者約六万三千人の大損害を与え、中国軍のビルマ侵攻作戦を頓挫させたのである。
この「断作戦」における我が軍の損害は戦死傷者七千三百人、我が第二、五十六師団は十五倍の敵に挑み、我が軍の九倍の損害を敵に与えたのである。
蒋介石は日本軍の恐るべき戦闘力に驚嘆し、全軍に以下の特別布告を発し(菊と龍―祖国への栄光の戦い)、拉孟騰越を死守した日本軍人精神に
「東洋民族の誇り」
という最大級の賛辞を送ったのである。
「全軍将兵に与う。戦局の動向はわれに有利に展開しつつあり。勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまではまだなお遠しといえる。
各方面の戦績を見るに、予の期待にそむくもの多し。
諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。拉孟において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。
それに比し、わが軍の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり。
将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである」
また東京裁判却下未提出弁護側資料集に収められた中国側の資料によれば、China戦線の日本軍各部隊は作戦終了後には、必ず付近の敵味方の戦死体を回収し、中国軍に攻撃される危険を冒してまで両軍戦死者の丁重なる慰霊祭を行った上で根拠地に引き揚げており、これを知った蒋介石は、この高潔なる武士道精神こそ寡(少数)をもって中国軍の大軍を撃破する日本軍の戦闘力の根源なり、と賞賛し、味方の戦死者に対する慰霊祭すらも行わない中国軍将官を
「汝らは日本軍を見て慙愧の念に耐えずや」と叱責したのである。
蒋介石にとって日本軍は中華民国軍の模範であった。
だからこそ蒋介石は台湾に落ち延びた後、彼の敵であり又友でもあった元China派遣軍総司令官の岡村寧次元大将に救援を求め、大将から派遣されてきた元日本軍将校から成る軍事顧問団「白団」の指導を受け、米軍式教育を改めて日本軍式教育をもって中華民国軍を再建したのである。
中国共産党および朝日と毎日が宣伝する日本軍の蛮行が事実なら、蒋介石がかつての敵であった日本軍将校の指導を仰ぐものか!
~~~~~~~~~~
http://oncon.seesaa.net/article/125071014.html
所長が思うに、我が国の大東亜戦争は失敗の連続であったが、それらの中には叡智あふれる軍事、外交、内政が少なからずあった。
日本の大人がそれらを子供を教え、子供が「ああっ惜しかった!」と我が事のように悔しがるようになってこそ、日本の子供は日本国を愛おしく思い、過去の教訓を未来に生かせるようになるのだろう。
<↑引用おわり>------------------------
日本人移民排斥運動
https://www.y-history.net/appendix/wh1403-052.html
日露戦争後、アメリカにおける日本人移民に対する排斥機運が強まり、しばしば問題が起きた。
アメリカは1899年に国務長官ヘイが門戸開放宣言を出し、それが中国大陸に対する国策の基本となっていた。そして義和団事変での出兵を機に、中国、特に東北部(満州)への侵出を謀るようになった。満州をめぐって日本とロシアが対立し日露戦争になると、T=ローズヴェルト大統領はそのいずれかが決定的な勝利を占めて、アメリカが追い出されてしまうことを恐れて、両国の仲介に乗り出した。
日露戦争後の日米関係悪化
満州問題をめぐる対立 日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。日本はこのようなアメリカの動きに対し、急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。アメリカは両国による満州分割に反発し、満州の鉄道をすべて国際管理に置くことなどを提案した。
海軍増強問題 1904年のパナマ運河開通、ハワイでの軍港の整備など、太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって、日本の海軍力は大きな脅威であった。両国は日露戦争後、積極的な建艦競争にのりだし、互いに相手を仮想敵国視するようになった。両国でさかんに「もし日米、戦わば」という未来戦が人気を博した。
日本人移民問題 もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日本人移民問題であった。明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増した。白人(主にアイルランド系)労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日本人移民を排斥するようになった。それにはドイツのヴィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もあった。
日本人移民排斥
1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に通学すべしという市条例が制定された。これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。ようやくローズヴェルト大統領の市当局への説得により収束した。1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。
その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.40>
移民法の成立
さらに第一次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。 → 移民(全般) 移民(アメリカ) 帝国主義時代の移民問題