以前、新聞社の仕事で一週間に3カ所の市町村を紹介するという特集記事の仕事をしていました。しかも新聞1ページで、テーマも自分で決め、取材先も自分で、写真・原稿は当然自分の仕事です。撮った写真と原稿を持って新聞社の編集部に行き、そこで編集長から訂正なり。さらにデスクから厳しい突っ込みや確認、さらに校正から厳しい確認があり、ようやく紙面に掲載・・・という仕事で、宮崎県全市町村を一人で取材したことがあります。当時は合併前でしたので、44市町村ありました。1週間に3市町村。
えーと計算すると・・・1カ月で12市町村。数字に弱い計算機で44÷3=14,6....。14週。ということは一カ月が4回だから、3か月と2週かな?
もっと長くかかったような気がするけれど、全県下を一人で取材するのは大変でした。次週の原稿を書きながら次の取材先を決めたりアポイントを取ったり。しかもなるべく1回の取材で3市町村回れるようにしていたので時間的にも非常にタイトでした。本社の記者には対応できない(ニュース原稿で動けない)とのことで、私にまわってきた仕事でした。
毎日毎日、宮崎県の地図を眺め、道路を辿り、当時は速度が遅かったインターネットを駆使しての情報集め。その前に、その特集企画が決まった時点で、44市町村の企画課・観光課に電話をして、市町村の観光ガイドブックや資料などを取り寄せました。
ああ なつかし。
一度、当時の44市町村の思い出をまとめたいと思っています。写真はデジカメではなかったのでフィルムで残っているし。
どの市町村にも思い出があります。
また、テレビの仕事もしていたので五ヶ瀬町や北川町。印刷物の仕事でも北浦町、綾町、都城など1年通い、2年、3年、4年と通った所もあります。名前を聴いただけで「あ、五ヶ瀬の方ですね」ということもありました。
その中でも、特に印象深い町が北川町です。
何年のお付き合いがあったでしょうか。お祭りの取材もあれば蛍や神楽。風習の取材や山の暮らしの取材、河川氾濫の激甚災害の直後と記録にも携わりました。
そうそう、私がまだ若くて、女性ディレクターが珍しい時代でもありました。
それが、今では「アンチエイジングに頑張れ」とまで言われるほど、時が過ぎました。
長い時間 行き来したことで私自身、仕事でありながらも、相性が良いというか本当に心から居心地の良い町でした。
私が、ストーカーで大変な目に遭っている時は、「みんなで行ってやる!」とまで言ってくれました。
当時のストーカー事件は、まだ今のような扱いではなく、それはそれは恐ろしい毎日でした。
この事はまた別の機会に書こうと思いますが、「アイツだ!」と思った時には本当に逃げ場がなく、電話を切っておいてもカチッという音を聴いただけで心臓の鼓動が早まり、冷や汗が出て、脅迫通りに車を壊されたりしたものでした。
そんな時に「駆けつけてやる!」の一言は、本当にうれしかった。時間的に無理だとしても本当に警察より嬉しかった。
息子が病気になった時も、親身になってみんなで話しを聴いてくれました。
本当に 出会う人 出会う人 全てがやさしい方ばかりでした。
当時は赤のシビックに乗っていて、祝子川地区へ行く山道を走っていたら「サクラギさんですか?」と、見知らぬ人から声をかけられたり驚くような事もありました。
泊まりの取材の時には、とうとう役場の方のご両親の家にお世話になるようになり、ビールが飲めないおじいちゃんが、一生懸命に私の相手をしてくれました。
「ふるさと」という 町のPVを創りましたが、まさに北川町は私の九州のふるさとです。
なつかしい。
きれいな思い出がいっぱい。やさしい思いでがいっぱい。あったかい思いでがいっぱい。
ああ また行きたいなあ。
今 住んでいるここも好きですが、北川は特別な場所です。
Wさん、Yさん、Kさん、本田旅館のみなさん。祝子川のみなさん。蛍博士、当時の町長。ああ なつかしい。
ミュージカルが終わったら 遊びに行こうかなあ。本田旅館に泊まります! 温泉にも行きたい。
さあ 金曜日はステージコンサートです。日曜日はコンクールです。
明日は原稿の締め切りです。
自分の心のまん中に気持ちが集まってきたような 夜。こんな時間にビールを飲み始めました!