硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「レ・ミゼラブル」

2015-12-26 22:00:08 | 日記
クリスマスの少し前に施設に通うお婆ちゃんがクリスマスの想い出を語ってくれた。それは小学生の頃に、近所の教会ではクリスマスになると神父さんがジャン・バルジャンの話をしてくれたとおっしゃった。しかし、ずいぶん昔の事なので、ジャン・バルジャンの物語がどういう話だったかは忘れてしまったと言われたので、少し残念に思った僕はジャン・バルジャンという名前に聞き覚えがあり本腰を入れて調べてみようとメモに書きだすと、お婆ちゃんは「あ~そうそう。ジャン・バルジャンというのはレ・ミゼラブルの事よ」と言われた。
僕もそれを思い出し「ああっレ・ミゼラブルですねぇ」と返事はしたものの「確かミュージカルの演目だったなぁ」くらいにしか認識がなかったので、確か映画で近年リメイクされていたのを思い出し、仕事に帰りにレンタル店によって、「レ・ミゼラブル」を借りて、翌日の午後から観てみたのです。

しかし、幼少の頃から祖母と一緒に観続けた時代劇が下地にある僕にとって、ミュージカルというものは大変取っ付き難く、英語の意味もよく分からないので本当に退屈なものでしかなかったのですが、神の御業は正確で、僕にも「その時」がやって来たのでした。

囚人たちが嘆きと悲しみを歌いながら鎖を引くシーンから気持ちが持っていかれ、もはや違和感など微塵も抱く事なく、160分間その世界に没頭し、アン・ハサウェイが再び登場して歌うシーンに涙し、映画が終わると思わず「ブラボー」といって手をたたくほど感動してしまったのです。

しかし、不思議なものでしばらくすると疑問がわいてきたのです。特にラッセル・クロウ演じるジャベール警部はなぜ自死を選んだのだろうかと。
彼も聖書を読む者で、罪の償いと神の赦しを信じるものであるならば、例え、バルジャンが聖者のような人になっていたとしても、彼の赦しを理解していたなら、あそこで自死してはならないはずである。
しかし、レ・ミゼラブルの邦題が「ああ無常」であるように、常に惨めなのだというテーマが根底に流れているならば、その選択も然りなのだろうか思ったりもしたのですが、作品を思い出しては、いろいろ考え、消えてゆく思考の中でわずかに残った「レ・ミゼラブル」が訴えたかったメッセージの本質というのは、ひょっとすると

「フェアネスな社会はいつの世もどこにも存在しない」

という事なのではと思ったのです。