「ナミ」はドクターの言葉に、「リノ」の統合失調症は、外部の力ではどうにもならないのだと悟り、後日、「リノ」と今後ついて話し合った。
「ナミ」は、施設内の「リノ」に対する批判を理解しつつも、ほおっておくことができなかったので、障碍者雇用という国の支援を受けながら、働き続けるという選択もある事を優しく説明した。しかし、「ナミ」の気持ちは伝わらず、
「せかされてまで働きたくない」
と、答えた。
「リノ」は、自分に素直な人でもあった。自分の欲する事に忠実な人であった。
自分の興味のない事には関心を寄せず、好きではない人からは何を言われても何も響かない人であった。
努力を嫌う「リノ」には、何を言ってもダメだと思った「ナミ」は、彼女の未来を考えて「障碍者としての手続き」を勧め、リノの承諾を得ると手続きも手伝い、無事に認定が下りると「リノ」は何のためらいもなく「ナミ」の元から去っていった。
「 これ以上私の力ではどうすることも出来ません 」
その文面を読んで、嘆息する。
そして、一緒に働いていた時に受診を進めていれば今の状況にはなってなかったのではと、頭をよぎったが、18歳の女子に「精神疾患かもしれないから受診を・・・・・・」とは、やはり言えなかったと思う。
15年と言う歳月の間、「リノ」は、どこかしらの福祉施設で「同じような評価を受け」、転職を繰り返してきたようであるが、「他者を思いやる事」を求められる「専門職」の現場でも、思うように動いてくれない人は敬遠されてしまうようであった。
それほどに、昨今の福祉現場は余裕がないのであるが、それは、子供たちの成長を拒んだ人々の「具合のいいように」なったのではないかと思う。
そして、心の支えとなる新興宗教は、承認欲求は満たしたが、実生活までは満たしてはくれなかった。
それでも、「リノ」は、「リノのまま」であり続けるのだと思う、たとえそれが、僕らが考える社会に適合しなくとも。
そう思う時、僕らは、ただ、迷い続けているだけに過ぎなかった。
苦悩の末の決断を知らせてくれた「ナミ」に、
「今まで「リノ」の為に頑張ってくれてありがとう。気に病むことはないよ。「ナミ」さんは、すごく頑張ったのだから」
と、返信すると、すごくかわいいイラスト付きの「ありがとう」のスタンプが張られた。
完