昨年の夏、母は熱中症とコロナウィルスで倒れ(活動範囲が限られた高齢者で、しかもワクチン接種を六回も接種した上でコロナウィルスに罹るのは、納得できないでいる)一週間ほど入院しドクターの勧めもあって、(入院が長引くと認知症が進むからという理由で)退院したのであるが、夏は猛暑、冬季は寒い日が続いたため、自然と外に出る事が億劫になり、テレビの前で過ごす時間は次第に長くなった。
そのせいか、会話もちぐはぐなことが増えた。
経験的に、介護認定を受けた方がよいなと思い、母に相談するも、プライドの高い母は、自分がボケだしていることを認めたくなく、頑なに拒否した。
それでも、このまま見て見ぬふりをしてしまうと、後で大変な目に合うのは自分自身である。だからこそ介護職時代の経験をフルに生かして対応してみたのだけれど、どうにもうまくいかない。
「これは仕方なし」と割り切り、激しく怒ってみたら、しくしくしながら、ようやく自分の現状を受け入れてくれ、なんとか介護認定への道筋がついた。
認知症の人と会話するのは、苦にならない方だったので、怒らずとも大丈夫だろうと思っていたのであるが、実際には「そういうわけにはいかなかった」。
しばらくの間、「どうしてうまくいかないのか」考えていたのであるが、改めて「他人と親」は違うのだと痛感した。
それは、プライドの高い母にとって、子供である僕は「唯一の見下せる存在」であり続けたからだ。だからこそ、どんなに道理が通らないことでも、優越感を満たすために叱責してきたのである。
しかし、今回は遠慮せずに、あえて激怒したことで、その関係が一時的に破綻し、受け入れる気持ちになったようである。
高齢者の他者と関係を築くためには、受容と共感、審判的態度で否定しないことが前提に対応してゆくことが大切なのであるが、「介護職員と利用者」は「他者と他者」であるから「互いに線を引き思いやれる」ことができたのであるが、親子の場合は血縁なのでそうはいかないのである。
それは、長い年月の間「変わらない関係性」であり続けたことが大きい。
今思うと、僕には反抗期がなかった。それは父が怖い人だったことで抑圧されていたからである。
しかし、大人になって、よくよく考えてみると、反抗期は、無理矢理にでも親から離れ、一人の人間として自立するためには必要な儀式だった。
「子から一人の大人になり、そして親になる」ためには、「子と親」ではなく「親と親」という関係性にならねばならないはずであるのだが、親が子離れせず、子が親離れしない状態がずっと続いてゆくと、家族という共同体はいずれ破綻を迎えることになる。
「受け継がれねばならないもの」を手放せずにいると「受け継がれなくなる」ということをなぜか理解できない人がいるのである。
おそらくではあるが、そういう人は「受け継がれること」よりも「自身の将来においてのリスクヘッジ」のために子供は存在すると思い込んでいるように思う。
だからこそ、そういう考えを持つ親からは無理矢理にでも離れなければ、お互いが自立できずに年をとってゆくのである。そして、相互依存という形に固定され、立場が逆転した時に、子供は親から自立せねばと思うようになるのではないだろうか。
その時、「我が子はおとなしい性格」と思い込んでいた親は「おとなしい性格」が純粋に「おとなしい性格」であったのかが初めて知ることになるのではないかと思う。
もし、「おとなしい性格は実は親からの抑圧によって成立していただけ」であったなら、立場の逆転は「親からの抑圧の解放」でしかない。
その解放はあらゆる手段によって親へ向けられ、最悪の場合、取り返しのつかないことになるのではないかと思う。
「子供と親」から「大人と大人」「親と親」という新たな関係性が再構築されれば、お互いに思いやることも出来るのではないかと思うが、どちらかが不寛容のままであるとうまくいかない。
特に子供の立場からすれば、親から「どんな言葉をかけ続けられてきたか」によって、大きく変わるのだと思う。
変な方向に話に進んでしまったが、介護職員で得た知識は「非常時」には役立つが、平時には、同じような問題に苦悩するしかないようである。
そのせいか、会話もちぐはぐなことが増えた。
経験的に、介護認定を受けた方がよいなと思い、母に相談するも、プライドの高い母は、自分がボケだしていることを認めたくなく、頑なに拒否した。
それでも、このまま見て見ぬふりをしてしまうと、後で大変な目に合うのは自分自身である。だからこそ介護職時代の経験をフルに生かして対応してみたのだけれど、どうにもうまくいかない。
「これは仕方なし」と割り切り、激しく怒ってみたら、しくしくしながら、ようやく自分の現状を受け入れてくれ、なんとか介護認定への道筋がついた。
認知症の人と会話するのは、苦にならない方だったので、怒らずとも大丈夫だろうと思っていたのであるが、実際には「そういうわけにはいかなかった」。
しばらくの間、「どうしてうまくいかないのか」考えていたのであるが、改めて「他人と親」は違うのだと痛感した。
それは、プライドの高い母にとって、子供である僕は「唯一の見下せる存在」であり続けたからだ。だからこそ、どんなに道理が通らないことでも、優越感を満たすために叱責してきたのである。
しかし、今回は遠慮せずに、あえて激怒したことで、その関係が一時的に破綻し、受け入れる気持ちになったようである。
高齢者の他者と関係を築くためには、受容と共感、審判的態度で否定しないことが前提に対応してゆくことが大切なのであるが、「介護職員と利用者」は「他者と他者」であるから「互いに線を引き思いやれる」ことができたのであるが、親子の場合は血縁なのでそうはいかないのである。
それは、長い年月の間「変わらない関係性」であり続けたことが大きい。
今思うと、僕には反抗期がなかった。それは父が怖い人だったことで抑圧されていたからである。
しかし、大人になって、よくよく考えてみると、反抗期は、無理矢理にでも親から離れ、一人の人間として自立するためには必要な儀式だった。
「子から一人の大人になり、そして親になる」ためには、「子と親」ではなく「親と親」という関係性にならねばならないはずであるのだが、親が子離れせず、子が親離れしない状態がずっと続いてゆくと、家族という共同体はいずれ破綻を迎えることになる。
「受け継がれねばならないもの」を手放せずにいると「受け継がれなくなる」ということをなぜか理解できない人がいるのである。
おそらくではあるが、そういう人は「受け継がれること」よりも「自身の将来においてのリスクヘッジ」のために子供は存在すると思い込んでいるように思う。
だからこそ、そういう考えを持つ親からは無理矢理にでも離れなければ、お互いが自立できずに年をとってゆくのである。そして、相互依存という形に固定され、立場が逆転した時に、子供は親から自立せねばと思うようになるのではないだろうか。
その時、「我が子はおとなしい性格」と思い込んでいた親は「おとなしい性格」が純粋に「おとなしい性格」であったのかが初めて知ることになるのではないかと思う。
もし、「おとなしい性格は実は親からの抑圧によって成立していただけ」であったなら、立場の逆転は「親からの抑圧の解放」でしかない。
その解放はあらゆる手段によって親へ向けられ、最悪の場合、取り返しのつかないことになるのではないかと思う。
「子供と親」から「大人と大人」「親と親」という新たな関係性が再構築されれば、お互いに思いやることも出来るのではないかと思うが、どちらかが不寛容のままであるとうまくいかない。
特に子供の立場からすれば、親から「どんな言葉をかけ続けられてきたか」によって、大きく変わるのだと思う。
変な方向に話に進んでしまったが、介護職員で得た知識は「非常時」には役立つが、平時には、同じような問題に苦悩するしかないようである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます