『乱』(85)(1985.6.25.シネマ1)
シェークスピアの悲劇『リア王』と毛利元就の「三子教訓状=三本の矢」を基にして、架空の戦国武将・一文字秀虎(仲代達矢)の家督譲渡に端を発する3人の息子との確執、兄弟同士の骨肉の争いと破滅を描く。
前作『影武者』(80)は、勝新太郎から仲代への主役交代、宮川一夫、佐藤勝ら、スタッフの離脱など、製作過程で多くの問題を抱える中、黒澤のいら立ちや焦りが反映されたのか、作品全体に余裕がなく、俳優陣も硬直し、本来は笑いが起こるであろう場面も、笑うに笑えないところがあった。
それに比べると、この映画は、破滅の美や人間の愚かさといったテーマを『影武者』よりもさらに突き詰め、神仏の不在にすら踏み込んで描いた割には、三男・三郎(隆大介)の気質を気に入り、婿に迎え入れる隣国の領主・藤巻(植木等)、秀虎付きの道化の狂阿弥(ピーター)、次男・次郎(根津甚八)の腹心・鉄修理(井川比佐志)のキャラクター設定や、それを演じる者にも余裕が見られる気がする。何より、黒澤自身が楽しみながら撮っているように思えるのだ。
幽玄な武満徹の音楽、カラフルなワダエミの衣装、斎藤孝雄、上田正治、中井朝一の見事なカメラワーク、村木与四郎と忍夫妻の美術、そしてネガ編集の南とめなど、スタッフワークもお見事。
ただ、ソ連で作った『デルス・ウザーラ』(75)、コッポラとルーカスが協力した『影武者』、今回はフランスのセルジュ・シルベルマンがプロデュースと、もはや日本単独では映画が作れなくなり、しかも5年に一本という製作ペースにならざるを得ない黒澤の悲劇を感じなくもない。となると、この映画の秀虎の姿は黒澤自身の進境を反映したものなのだろうか、と想像したくなる。
『影武者』
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