MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『薔薇の葬列』

2020-01-22 12:58:13 | goo映画レビュー

原題:『薔薇の葬列』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:ピーター/土屋嘉男/小笠原修/東恵美子/城よしみ/仲村紘一/芝山幹郎/小松方正
1969年/日本

策を弄した作品について

 『修羅』(1971年)を観た後に本作を観るならば違和感を感じるかもしれない。大島渚に貶されたとしても『修羅』は完全なフィクションであったが、本作は途中で出演者のインタビューが挿入されるなどしてストーリーにのめり込むことができないからである。
 それならば各々のインタビューにそれなりの意味があるのかと思いきや、何故ゲイとして生きるのかという質問に対してありきたりな答えしかなく、監督本人が行なったであろうインタビューに意味を見出すことはできず、唯一面白かったところは、丸山明宏(美輪明宏)のどこが好きなのかと尋ねられたピーターが「整形しているところ」とうっかり(?)口を滑らした部分だけである。
 ソポクレスの『オイディプス王』をモチーフにしているが、主人公がゲイの青年エディであるために、少年の頃に母親と浮気相手の男を殺して、今はゲイバーの経営者の権田と親密なのであるが、ラストシーンは混乱しているように見える。
 権田はエディが持っていた書籍『父帰る』の中に挟まれていた家族写真を見つけて、エディが自分の実の息子であることを知り、浴室で刃物で首を切って自害する。物音に気が付いたエディが浴室を覗いて自殺している権田を発見するのであるが、エディは何故権田が自殺したのかすぐには理解できなかったはずである。ところがエディはすぐに刃物で両目を潰してしまう。
 その後、エディがマンションから外に出て行く様子が描かれるのであるが、それはエディの「視点」を通してなのである。しかしエディは両目を潰しているのだから、この「視点」は存在しないはずである。その上、カメラを担いで撮影したであろうカメラマンの影が映り込んでおり興ざめなのである。
 何故このような中途半端な演出になってしまったのか勘案するならば、既にイタリアの映画監督であるピエル・パオロ・パゾリーニが『アポロンの地獄』(1967年)を公開しており、エディとサングラスをした男が一緒に立っている背後の壁にそのポスターが貼ってある。ボードレールの詩やル・クレジオの小説の引用や池田龍雄の「百仮面」の絵などを駆使しても『アポロンの地獄』に勝てそうになく「外した」ために中途半端な作品になってしまったように個人的には思う。
 ピーターが本作の出演を決めた理由として「きれいに撮ってくれるから」と答えていたが、自ら両目を潰した無惨なラストシーンを見たピーターの感想を訊いてみたいものである。それにこれは間違いないと思うが、絶対に淀川長治のいつもの「挨拶」でラストは終わらせるべきだったと思う。それでなければセンセーショナリズムという誹りを免れないだろう。


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『修羅』

2020-01-22 00:48:46 | goo映画レビュー

原題:『修羅』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:中村嘉葎雄/三条泰子/唐十郎/今福将雄/田村保/観世栄夫/松本克平/川口敦子
1971年/日本

「修羅場」の描き方について

 本作に関して映画監督の大島渚が1971年11月の『映画批評』で酷評したことを憶えている人はいないと思うので、改めて『映画の変革』(三一書房 1972.3.31)で松本俊夫が発表した反論「大島渚の眼は節穴か」の一部を引用しておきたい。

「松本の源五兵衛に対する見方の基本的な誤りは、源五兵衛がもともと阿呆であること、そして加害者であることを、全然見ていないところにある」「誰が基本的な加害者で、誰が基本的な被害者であるということは、当然存在するのであり、それを正確に定めることこそが、作家の第一の仕事ではないだろうか」「加害者は加害者の、被害者は被害者の論理をそのまま貫くことが、世界のあり方であり」「〈昏い怨念〉を仮託するとすれば、それは、三五郎と小万の夫婦にでなければならなかった」にもかかわらず「松本俊夫はこんな初歩的なことはまったく盲目であるのだから、これはもうお話にならない」
大島がまるで鬼の首でもとったように、『修羅』の致命的欠陥はこれだとばかり強調してみせた批判点は、右(=上)の引用に尽きている。しかしそれにしても、私は大島の了解前提の基本的な誤り、ないしピントはずれのはなはだしさに唖然としないわけにはゆかない。私はもうとうの昔から、一方の加害者(ないし悪玉)を、他方に被害者(ないし善玉)を設定して、その対立と葛藤によって劇を展開させてゆくドラマトゥルギー(物のみかた)にあきたらず、むしろ何が加害(ないし悪)で何が被害(ないし善)かの良識的判断がくずれ、眩暈と恐怖におののきながら、その先に「この世界は何を意味するのか」と問いつめずにはおれなくなる位相にこそ、より今日的な劇をみようとしているからである。(p.259)

 確かに鶴屋南北の歌舞伎狂言『盟三五大切』の原作を忠実に映像化するとするならば、大島の意見はもっともではあるが、松本俊夫の意図は「修羅」というタイトルにもあるように、ストーリーよりも修羅場そのものの極限を極めたものであり、例えば、源五兵衛が小万に自分の刀を持たせて小万の赤ん坊の頭を突き刺す場面など、凄惨過ぎて逆に笑えてくるところなどが見どころだと言えるのである。映画に対するスタンスの違いといったところだろうか。


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