小谷野敦の『哲学嫌い ポストモダンのインチキ』(秀和システム 2019.10.25)に違和感を感じたのは哲学の話ではなく、川端康成の『雪国』の冒頭の文章に関してである。
認知言語学者の池上嘉彦が1991年にNHKテレビの「日本語セミナー」でエドワード・サイデンステッカー(Edward Seidensticker)が英訳した『雪国』の冒頭の文章を英語人に読ませて、絵を描かせたらしいのだが、そうすると全員がトンネルから出てくる汽車を俯瞰で描いたらしく、これは原文には主語がなく、英訳はおのずと主語を補って訳しているからその違いが出たというのが池上の結論らしい(p.106-108)。
ところがその後に小谷野は不思議なことを書いているのである。
「もし私が絵を描くとしたら、やはりトンネルから汽車が出てくる俯瞰図を描くと思うし、ほかの日本人に訊いてもそうだと言っていた。そのほうがよほど最初の一文のイメージにあっており、描きやすいからで、わざわざ汽車の内部に視点を据えて描くなどある種のへそ曲がりだろう。」(p.108)
知らない人のために『雪国』の冒頭を確認しておくと、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
(小谷野は「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった」と引用している。)
エドワード・サイデンステッカーの英訳は、
「The train came out of the long border tunnel - and there was the snow country.
(その列車は長い国境のトンネルから出てきた。そこは雪国だった。)」
となる。英訳した文章を読んだ英語人が全員トンネルから出てくる汽車を俯瞰で描いたのは、列車が主語になっているからだと思うが、日本人も誰もが原文を読んで汽車を俯瞰図で描くかどうかは微妙で、個人的にはトンネルに入る時には雪は降っていなかったのにトンネルを抜けると周囲が雪で覆われていたという主人公の感覚が入った文章だから汽車の内部に視点を据えて描くはずで、小谷野の言う「へそ曲がり」に入ってしまうのである。